数の象徴学-その4
5は悪の数だという。人間を考察すると、この意味がわかるという。人間は四元性へと、創造性の存在へと進化してきたが、地球上で彼に第五の要素、霊我が課題として現れるという。人間が単に4に止まっていたら、彼は常に上から、神々によって善へと統制される存在だったという。すなわち、決して独立した存在へと進化することはなかったという。 人間は地球上で第五の要素、霊我への萌芽を手に入れたことにより自由になったという。この霊我により、人間は悪をなす可能性を得、同時に独立性も手に入れたという。5において出現しない存在は、どんな悪をも行うことができないという(なぜなら、神々により制御されうるからである)。 そして、我々人間が悪と出会う至る所で、(実際、悪はそれ自身から有害な作用を及ぼすのだが)、五元性が関わり合っているという。これは外界の物質世界にも当てはまるという。人間はただ見ていないだけだという。しかも、今日の唯物主義的世界観は、世界を五元性から捉えることに関して無理解であるという。 例えば、5と出会うところでは、何らかの意味で成長の節目について語る正当性が出てくるという。医師がこの原理を採用して、病気の経過をこの原理に従って研究してみれば、大変実り多い結果が得られるという。つまり、病気がその発病から第五日迄にどのように進展するか、一日のなかであれば真夜中から五時間目に、更には第五週目にどうであるかを調べるとよいという。 というのも医師が最も効果的に介入できる時は、常に5という数字が支配している状態であるからだという。それ以前は自然の経過に任せる以外はあまり多くのことは期待できないという。しかし、5という数の法則に気づくなら、助ける処置ができるという。5という数の原理は事実の世界に流入しているからだという。この原理が害を与える、悪の原理と呼ばれるのも当然で、多くの領域で5という数が外的な出来事に関して大きな意味をもつことが示されるという。 このことは陰陽五行説の正当性を、証明することでもあろう。つまり、木、火、土、金、水と事物が成長し展開していくなかで、五番目の水のとき、陽に出るか陰に出るかで、今後の五行の展開を左右するといえるわけである。 これは、何も木ではじまるだけでなく、火から始まったら、五行で循環し次の火のときに、陽か陰かで、その次の展開が左右されるともいえる。 つまりは陰陽五行説には、自然のなかの循環、神秘の5の数の原理がそっくりそのまま表れているといえるだろう。善(陽)か悪(陰)かは五行次第なのである。 神秘学では、人間の生には七つの時期があるといわれる。第一の時期は生まれる前の時期、第二の時期は歯の生え替わる頃の約七歳まで、第三は性的成熟の約14歳まで、第四は凡そその7~8年後まで、第五はおよそ28~30歳頃と続いていくとされる。 ある人間がこの7年毎の成長段階において何を課題とし、丁度、第五の時期(30歳まで)に何に親しみ、何を遠ざけるのかを、熟知するようになれば、その人の人生全般において、残り後半期に実りの多い年齢として準備することができるようになること等が色々とわかってくるという。前半期に準備した年齢毎の成熟度に応じて、残りの人生全般に対して、善悪の収穫の作用が及ぶという。 人生前半の初めの時期では、この7歳毎の成長の法則に従って、教育を通して多くのことを行うことができるという。けれども、それから、人生の第五期に、後の人生全体にとって決定的な転換点がやってくるという。この人生の第五の転換点は、少なくとも人間がいわば完全なる確信をもって人生へと送り出される前に超える必要があるという。 今日主流の人間をあまりに早く人生(世間の荒波)に送り出してしまう原則(成人年齢が18歳)は、大変有害なものであるという。このような古い神秘学的原則に注意を向けることは、大きな意味があり、以前は、このことを熟知していた人々の命令により、人は親方(一人前)として認められる前に、いわゆる修業時代と遍歴時代を卒業しなければならなかったという。 孔子の説く論語の一節の「吾、三十にして立つ」という文は、この神秘的意味、人間の模範を示しているものといえる。ちなみに十五にして学志すとあるが、この神秘学的成長則からいえば、第三期過ぎの第四期初めの創造の4の数に当たるわけで、孔子が学を志すというのは、学において創造活動を行うと宣言したようなものであろう。そして、修業、遍歴時代を卒業し、三十にして、自ら自立した学問を打ち立てるのである。 5=悪の数、成長の節目、転換期を表す。 七は完全性の数であるという。これは人間を手がかりに明らかにすることができ、人間は被造物として四の数の中にいて、そして、善か悪の存在であるという意味で、五の数の中にいるという。人間が、現在その萌芽として自らのなかにもつもの(霊我、生命霊、霊人)全てを完成したなら、色の世界の虹においても、音の世界の音階においても、七という数が支配していることを意識できるという。生命のあらゆる領域に至る所で七という数を一種の完全性の数として示すことができるという。七の背後には迷信も御呪いもないという。例えば、完全な感性を身につけたなら、視聴覚以外の味覚や臭覚も7段階に大別できることが意識できるという。 再度一元性に注目すると、他の数の考察により、一元性の真の意味が正しい光の中に現れ、一元性の本質的なものは、不可分性であることがわかるという。実際、勿論、一を更に、例えば1/3や1/2という風に、物質的世界では分けることはできないが、思考の中で承認できる非常に意味深い重要な霊的な算術、つまり、霊的世界において2/3を除くと、1/3はあくまで一に属するものとして現れ続けるという。神から何かが開示され、その分全体として分割されても、残り全体はやはり神に属するものとして存在し続けるという。 これは、ピュタゴラス的な意味で「一を分割せよ。ただし、汝の思いの底で、残りが一のままで存在するように一を分割せよ」に相当するという。 本来、一を分割する真の意味は、例えば、小さな金の板を考えて見るとわかるという、金の板を通して世界は緑色に見え、金は、その上に白い光が当たると黄色い光線を反射する特性をもつという。白の中に含まれていた他の色は、対象の金の板の中に入り込み、通過するという。 例えば赤い対象は、赤い光を反射し、その他を自らのうちに取り入れるから赤いので、他を残しておくことなしに赤を白から取り出すことはできないという。この世界の金を通しての秘密の緑(生命の色)に触れ、観ずることがある方法で可能になるという。例えば、光がテーブルにかけられたテーブルクロスに当たり、赤くみえたなら、太陽光線に含まれている他の色は「吸収」されているという。例えば、緑色はテーブルクロスに吸収され反射されない性質をもつという。赤色と緑色を同時に意識の中に受容しようと努めるならば、再び一を回復するという。ピュタゴラス的な意味で一を分割すると、残りは、そのまま維持されるという。分割されたものを常に再び一と結びつけることを瞑想的に成就すると、人を高みへと進化させうる意味深い営みとなるという。このことは、秘教学院で通用するもので、以下のような数式で表せられる。 1=(2+x)-(1+x) これは、1をどのように分割するか、分けられた部分が再び1となるようにどのように提示するかを表している秘密の公式だという。神秘学者は、1の分割を、部分が常に再び1へと連結されるように考える必要があるという。 この式は、量子力学に出てくる完全形の次式に酷似している1=Σ|x ,t><x ,t|、或いはまた、1に収束する級数への展開式 1=1+ Σf(x)にも酷似している。更には、これを発展させると、Xn+1=aXn(1-Xn) (0≦X≦1)( 0≦a≦4)というカオスで御馴染みのパイコネ変換式になる。以上をまとめると、1) 1=(2+x)-(1+x)2) 1=Σ|x ,t><x ,t|3) 1=1+Σf(x)4) Xn+1=aXn(1-Xn) (0≦X≦1)( 0≦a≦4)これら一群は、三位一体の表記 1(2+x、-1-x)、1Σ(|x ,t>、<x ,t|)、1(1、Σf(x))、Xn+1(aXn、-aXn^2))で既述できる。 最後に、第五週目、五日目、或いは五時間目においては、状況を大きく変えることができることに気づくことが大切であるという。そして、七週目、七日目、或いは七時間目には変化させたその結果が現れるという、或いは最終的に7の数で完了し結果が現れるので、その半分の3と1/2(3.5)においても、何らかの兆しが、現れるという。例えば、熱は、その病気の七日目に一定の性質を示し、或いは14日目にも、7の倍としての性質を示すという。 7=完全数、世界は7を指標として展開するという。 地球の進化で考えると、土=1、日=2、月=3、火=4、水=5、木=6、金=7となるので、丁度、5の悪の数のとき、つまりは水星紀のときに、これまでの進化状況を変えることができるわけで、実は、現在は正に水星紀直前の年代なのである。水星紀とは、水瓶座の時代、つまり再び霊性に目覚める時代と預言され、このとき、自らの行いをくいあらため ピュタゴラス的な意味で、「数を探求せよ」と言うことに、瞑想等の正しい方法でイメージできる人は、この数の象徴学から生命とこの世界を理解できるという。