「命」を学ぶ
私は前から、なぜ「いのち」に「命」という漢字を使うのか? が疑問だった。「命」という漢字は、命令の「命」である。 ところが、あるヨガの書を読んでいるとき、なんとなく、自分なりの理解を得たのである。それが非常に尊いものように思え、この字を当てはめた人の見識の深さに感動した。 生きている状態を、「命」という漢字で表わすが、その生きている状態とは、絶えず「命令」を出している状態ではないだろうか? と思ったのである。 そのヨガの書によると、よい生活を送れば、よい結果が得られ、悪い生活を送れば、悪い結果となる。仏教の善因善果、悪因悪果だが、つまり、よい命令をすれば、よい行為が生まれ、悪い命令をすれば、悪い行為となるというようなことが書かれている。 しかし、はじめから良い結果を得ようとして、命令すると、当初の目論見というものができてしまい、御都合主義、利己主義となり、かえって悪い結果を招くことも多い。つまり、結果的に、悪い命令だったわけだが、だから、良い命令というのは、良い結果が出てからでないと判明しないわけである。 では、善や悪は、結果が出てみないとわからないものなのか? となる。 そのヨガの書によると、そうではない。実は、全てが良い結果となるべき要因なのであり、悪いと思うのは、その時点での捉え方にある。問題は、悪い結果であっても、良い結果につながる命令の根拠にすればよいのである。 この継続のなかに、「命」の意味があるとわかった。 仏教では、「善導」という。だから、悪い結果であっても、将来、良い結果につながる命令を生じさせれば、良い結果となる。 これは悪人正機説の原点でもある。生きている以上は、悪い結果であっても、善導を行える命令ができる。 ここに生命の「いのち」の原点があるように感じた! 聖書の創世記を読むと、神は命じて世界をつくり、それをみて「良し」とされた、とある。 つまり、自分の命令が良い結果を招いたことを覚ったのである。創造してみて、やっぱり、良かったという喜びに溢れた記述に思える。 このような神のような命令ができるようになるために、命令の出し方を学ぶのが、命なのではないか、と思うようになり、「いのち」に「命」の漢字をあてた古代人の奥深い賢さに感動した! 命を生かすのも殺すのも、命令の出し方にある! ちなみに、「命」という字は、「令」に「口」をつけたものだという。だから、「令」という字が元になっている。 「令」という字は、神殿で天や神に人が跪いて祈る形象が起源だという。 神という「命」の見本を授かるという意味が、「令」という字に思える。そこに、口がつくと、命令ができるようになる。 人間だけが、自分に命令できる。動物や植物は、自然、つまり神や天の命令に従うだけである。「口」はない「令(いのち)」の存在である。 人間だけが、口をもった、言葉をもった「令(いのち)」である。 つまり、そのヨガの書から、良き命令を出せるようになることを学ぶのが人生という命である、とわかったような気がした。 そもそも、創世記によれば、宇宙は、神の命令から生まれているわけで、その神が「よし」とされて、全てが「命」となっているので、人間のなかにも、その「命」が存在している。 だから、すでに、良い命令を出せるだけの素質がある。それが良心なのだろう。跪いて、良心の声に耳をすませば、祈りとなり、「令」となる。 「令」に忠実ならば、「生命」となり、忠実でなければ、災いとなる。しかし、災いも転じることで、福となせる。災いを福となるには、善導の命令、呪文が必要となる。