2014/01/10(金)09:43
ゆず風呂その後
さあさあ。いよいよ寒くなってきました。寒波です。緊張の強い私のために室内の設定温度は16度ですが、換気で窓を開けた時のヒヤリ感がピリリ感になってきました。弟も寒さの鼻水で帰ってくるようになりました。ガンバレ!さてさて、ゆず風呂です。一番目が私。二番目が弟。その後に母。母がひゃ~と言いながら出てきた。(ナニナニ?)たくさんあったはずのゆずがたった一つになってる!(なんで?)弟がミカンのように皮を全部むいてくれていたおかげで、湯の中はタネだらけ。ゆずの身はお浸し状態。酸味で目が染みる~~~\(◎o◎)/!というわけだった。ひとつだけ残してある意味。について考察した。。。。近頃では弟の行動の意味をみんなであれこれ推測したり推理したりするのが日課です。思わぬところに深い意味が隠されていることも多くて、人間理解の深さを感じる。言葉や表現の少ない弟にとっては「言葉以外」のものが心をあらわす大切な表現手段なのである。わかりにくい世間の見えない意味と、伝えにくい伝わりにくい心の意味をつなげる方法があればあるほど安心している。コミュニケーション支援は生きることの支援だ。何も伝わらすただ吐くしか表現方法がなかった私でも、伝わろう、理解しようとするたくさんの人との試みの積み重ねが今の安心を作っている。辛いことがあっても受け入れられている深い信頼感が強い安心の核になっている。どんなときも絶望することはもうないと確信する。弟にもそんな安心を持ってほしいとたくさんの人が努力している。それでも、心の支援だけは一方通行では意味がないし、お互いのチャンネルがあわなければいつまでも交信できないだろう。微弱な電波だとしても、発信していないのと発信しているのでは全く違う。外国語がまったく通じなくても通訳がいれば意味が伝わる。すごく仲良くなれば言葉なんかいらなくなるのだ。ただそばにいるだけでいいのだから。周りにとって困った行動も本人にとっては大まじめに理由があることも多い。いや、ほとんと大真面目が意味があるのだ。それを理解できるかどうかは周りの問題ともいえる。弟が頑張っているのに困っていることを、全て理解できなくても、理解しようとしている人がそばにいることはきっと言葉を通り越してそこに存在していい、という許しになるのだ。許しという言葉一つも、向かい合って上から目線で許可される許しはいらない。お互いを理解しようという共感の気持ちひとつあれば、なんのことはない。すぐ仲良くなれるのだ。というわけで、ゆず風呂掃除の大変さをわざわざすくった種を枕元まで見せに来た母のボヤキを聴きながら、人間の生きる意味について考察を深めた寒い朝でした(*^。^*)こんどはゆずの皮むかないでね。弟の答え。最後にやばいと気がついた。そうです。