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サイクル25が終わりに向っています。黒点数がゼロになるのは2021年12月11日以来です。
Feb 23, 2026
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このブログを開設して20年。そんなに長くやっている気が全然しないなぁ・・・(放置していた期間も長いけどHi)
Feb 14, 2026
去年の秋までは、ストレージは大容量でも安くなったなぁ、と実感。しかし、今は2倍かそれ以上。2022年10月に買った時のメモリの価格は¥5,717。2025年10月に買った時のSSDの価格は¥12,820。AIのデータ・センターには随分とお世話になっていますが、それはハードウェアの民間需要を満たして成り立つモノなので!
Feb 11, 2026
九州から大和への神武東征はあったのか?あったのだと思います。北部九州と近畿に同一、あるいは近似の地名が偶然とは思えないほど多数あります。九州勢力の一部が東遷して、出身地の地名を残したのだと思います。2世紀から3世紀にかけて、後に邪馬台国連合を形成する九州勢力、瀬戸内海に分布する吉備族、日本海から近畿に及ぶ出雲族の3大勢力が存在したと考えられます。大和の地を支配していたのは出雲族(三輪氏)で、第10代崇神天皇が三輪山信仰の祭祀権を奪い、新たな王権が成立します。これが東征の終わりです。時期は3世紀前半から中頃です。では、東征の始まった時期を考察します。『日本書紀』の記述そのままでは、東征した神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)が紀元前660年(皇紀元年)1月1日に初代神武天皇として橿原宮(かしはらのみや)で即位、ですが、紀元前7世紀は山陰、神戸、大阪で水田稲作が始まった時期です。武器として欠かせない鉄器の生産が始まるのは紀元前3世紀からです。これでは軍事力を保持出来る土壌が整っていません。どのタイミングが最もあり得るかを考えます。九州勢力の中でヤマト族が、その地で王権を確立しなかったのは、後に邪馬台国連合を形成する勢力に力が及ばなかったからでしょう。一旦、東へ大きく退いて、西を攻め直す、王権数十代に渡る壮大なプランを抱きます。中国の歴史書『後漢書(ごかんじょ)』の「東夷伝(とういでん)」に、 「桓帝(かんてい)・霊帝(れいてい)の時代(146年~189年)、倭国では平和が乱れ 互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する物がいなかった」とあります。これが九州北部で起きた倭国大乱(わこくたいらん)です。この戦争を終結させたのが卑弥呼です。大乱の時代にヤマト族の王である磐余彦は戦いに参加せず、軍事力を保持したまま、舟軍を率いて東遷を行った、こう考えるのがタイミングとしてベストです。東征の始まりは2世紀後半です。東征の過程『日本書紀』には東征は開始から7年間、磐余彦ひとりの一代で成し遂げられたと記されています。実際は開始から100年弱、10代に渡る王によって行われた東征です。途中の経由地は重要です。安芸国、吉備国で援軍を得ています。ヤマト族だけでは出雲族を破れないと判断し、ヤマトと吉備が同盟、連合軍で戦いを挑む事になります。舟軍は難波から川を遡って白肩津(しらかたのつ、現在の東大阪市日下町)に到着します。当時、大阪は陸地ではなく、河内湾・河内湖が広がっていて、生駒山のふもとまで舟で航行する事が可能でした。「津」とは港を意味します。当初、大阪が海・湖だった時代を調べて、神武東征の時期を定めようと考えていました。気候が最も温暖化して海水面の上昇がピークに達したのは縄文時代前期、7000年前から5470年前(縄文海進(じょうもんかいしん))。奈良時代には湖の面積が大きく減少しますが、まだ湖は存在して舟の航行が可能だった様です。これではレンジが広すぎて定め様がありません。『古事記』、『日本書紀』が編纂された奈良時代は、「白肩津」は舟で行ける港と認識されていたと考えられます。ヤマト・吉備連合軍は生駒山を越えて、宿敵である長髄彦(ながすねひこ)と戦い、初戦は敗れます。この長髄彦が三輪氏なのでしょう。作戦を変えて紀伊半島の東側から攻め直して、大苦戦の末勝利します。この辺の描かれ方は映画かドラマの様です。実際に大きな戦いがあったのか、比較的平和裏に政権が移譲されたのかは、判断に幅のあるところです。時代を1世紀ほど戻します。日本の古代史を考える上で、重要な出土物のひとつが銅鐸です。銅鐸は紀元前2世紀から作成され、2世紀に突然消滅します。銅鐸は遺跡から発掘されるのではなく、人里離れた山の中から丁寧に置かれた状態で出土することが多く、何らかの意図を持って地中に埋められたと考えられます。これはヤマト王権が東征を行う過程で、被支配者である出雲族や、同盟した吉備族の銅鐸信仰を強制的に廃させたからと考えるべきでしょう。九州討伐纏向(まきむく)に都した最後の天皇と考えられる、第12代景行(けいこう)天皇の時代から九州への攻撃が始まります。4世紀前半から中頃です。景行天皇の息子の日本武尊(やまとたける)は九州を討伐し、後に関東・東北まで平定します。日本武尊はヤマト王権の軍事力を人に喩えたと考えるべきでしょう。第14代仲哀(ちゅうあい)天皇、皇后の神功皇后(じんぐうこうごう)も熊襲(くまそ、熊本)を攻めます。続く、第15代応神(おうじん)天皇から歴史に変化があります。都を河内に遷して、急激に軍事国家の性格が強まり、視線の向かう先がしばらく朝鮮半島になります。第26代継体(けいたい)天皇から『日本書紀』に記された事績年を西暦に換算する事が可能になります。527年に筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱を鎮め、これ以降九州の氏族はヤマト王権に抗う事はなくなります。神武東征から4世紀を経て、26代の天皇に渡って行われた東征と西征はここに終了します。
Feb 5, 2026
第21代雄略(ゆうりゃく)天皇は考古学的に実在が証明された最古の天皇とされます。埼玉県行田市の稲荷山古墳(いなりやまこふん)出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)、熊本県和水町の江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の銀錯銘太刀(ぎんさくめいたち)に雄略天皇の名である「幼武(わかたける)」を音仮名で記した、「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」が象嵌(ぞうがん、異素材をはめ込む技法)された銘文があるからです。漢字が日本に伝わったのは4世紀後半と考えられています。行田市なら簡単に行ける距離なので、どんなものなのか見に行ってきました。稲荷山古墳に登ってから、埼玉県立さきたま史跡の博物館で金錯銘鉄剣を見学しました。稲荷山古墳 埼玉県行田市 金錯銘鉄剣あらかじめ、知識として知っていたので金錯銘鉄剣には深い感銘を受けませんでしたが、同じく出土品として展示されていた「画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)」を見た時に、はっとしました。 画文帯環状乳神獣鏡もしかするとこれは!********************************************卑弥呼の死後、一度男王を立てたけれど国は混乱し、卑弥呼の宗女の壱与(いよ、(台与(とよ))を立てると国は安定したと「魏志倭人伝」に書かれています。その後、邪馬台国は狗奴国(くなこく)と戦争状態に陥り、266年に壱与が魏(ぎ)の後継国である晋(しん)に使者を送りますが、その後交渉が途絶えます。ここから421年まで、中国の歴史書に日本の事が記されない「空白の150年」、「謎の4世紀」に入ります。中国では内乱の時代になり、漢民族の核となる国家がなくなる「五胡十六国時代」に入ります。内乱状態では外に視線が向かず、これは『日本書紀』も同じで、国内の記事のみになります。次に日本の記事が登場するのは『宗書(そうじょ)』です。有名な「讃(さん)」、「珍(ちん)」、「済(せい)」、「興(こう)」、「武(ぶ)」の「倭の五王」の記事です。何で日本の王の名前が中国風の漢字一文字なんだよ、それはヤマトの天皇ではない、などの異論・議論はさておき、最後の「武」は雄略天皇である事が確実視されています。「倭の五王」は朝鮮半島の軍権を求めて中国の皇帝と交渉を続けます。結果は芳しくないのですが、最後の「武」雄略天皇の使者はまあまあのレベルの地位を獲得します。問題はこの時です。宗の順帝(じゅんてい)は自身を慕ってくる王の使者を手ぶらで帰すはずはありません。何らかの下賜(かし、下の者にたまわう)を行ったと考えられます。下賜と言えば卑弥呼の時と同じように漢鏡が定番です。********************************************帰宅してから、行田市文化財保護課のHPで、出土品の画文帯環状乳神獣鏡は宗の鏡である可能性が高い事を確認しました。HPに質問を送るフォームがあったので、 「画文帯環状乳神獣鏡は宗の順帝が雄略天皇の使者に下賜し、 更にそれを雄略天皇が武蔵国の豪族に下賜したと考えて良いか?」と言う内容の質問を送りました。(実文はもっと丁寧ですHi)翌日、行田市文化財保護課から電話があり、質問の件は、埼玉県立さきたま史跡の博物館からメールで送ると連絡を受けました。あれから1年3か月、メールは来ませんHi考えられるメールが来ない理由① 質問の内容は歴史を揺るがす大胆な推理なので、 ど素人に功績を譲りたくないと考える考古学者がバックにいる② 博物館に常駐しているのは事務員で、考古学に通じた専門員がいつもいる訳ではない③ 調べ直さなければならないので一旦放置、しつこく何度も質問して来たら調べる④ 質問した内容は合っていて常識、博物館の展示でも、そう説明している 見落とすうっかり者には冷たいだけ④かなぁ・・・『日本書紀』には「倭の五王」が中国の皇帝に使者を送った記事は記されていません。『書紀』が成立した720年は奈良時代、中国と同じく日本は「律令国家」で対等な関係です。「倭の五王」が天皇であるなら、皇帝にへりくだる使者を送った事は記さないでしょう。「倭の五王」が別の王朝(例えばヤマトに従わない九州の王朝)の王であるなら、当然『書紀』には記されないでしょう。教科書にも載っている、600年の第一回遣隋使は『隋書』の「倭国伝」には記載されていますが、『日本書紀』には記載がありません。こんな事例もあるのです。この第一回遣隋使も突っ込みどころ満載のネタですHi最後に、金錯銘鉄剣と銀錯銘太刀の本来の考古学的な意義は、 「雄略天皇は実在し、この時代に王権の支配が九州から関東まで及んでいた」 「剣と太刀に記された辛亥年は西暦471年を指す見解が通説で、 日本古代史の明確な基準点となる」です。サブ的な鏡の展示に反れない様にHi
Feb 4, 2026
埼玉県日高市には「高麗(こま)」の名がつく地名がいくつかあります。埼玉県に住み始めた頃は「高麗(こうらい)」と歴史的な関りがあるのかなと思っていましたが、違いました。「高句麗(こうくり)」を高麗(こま)と2文字に略しているのでした。高麗(こうらい)が建国されたのは918年、それ以前は高句麗を高麗(こま)と省略しても混同はなく、それが今に至るまで続いているのでした。618年に隋(ずい)の煬帝(ようだい)が暗殺されて、強大な律令国家である唐(とう)が建国されます。朝鮮半島には高句麗、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の3か国が存在しています。長い歴史を通じて、おおよそ、 ① 高句麗は南下を図り百済・新羅と対立 ② 百済と新羅は半島南部の伽耶諸国(かやしょこく、任那(みまな))の割譲をめぐり対立 ③ 倭国と百済は同盟を結び、高句麗・新羅と対立の図式が続いていました。(同盟関係・敵対関係が変わった時期もあります)618年の時点では、伽耶諸国(任那)は全て百済と新羅に割譲されて、存在していません。倭国は第33代推古(すいこ)天皇、摂政の厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)、蘇我馬子(そがのうまこ)のトロイカ体制で政治改革を強力に推し進めていた時代です。第35代皇極(こうぎょく)天皇の時代に国際情勢が変化します。643年、長年戦いを続けてきた高句麗と百済の間に和睦が成立 高句麗・百済連合軍が新羅を攻撃644年、唐が高句麗への侵攻を開始、東アジアの緊張が一気に高まる645年、「乙巳の変(いっしのへん)」、蘇我氏が滅ぼされる 国内でもめている場合ではありません645年、皇極天皇が第36代孝徳(こうとく)天皇に譲位 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)を皇太子として新政権がスタート648年、唐と新羅が軍事同盟を結成 「唐・新羅 vs 高句麗・百済+倭国」の図式に変化 唐と結んだ新羅が朝鮮半島で優位に立つ649年、「蘇我倉山田石川麻呂の変(そがのくらやまだいしかわまろのへん)」 4つくらい名前が入っている石川麻呂が中大兄皇子に滅ぼされる またまた、国内でもめている場合ではありません655年、前年に孝徳天皇が崩御、皇極天皇が第37代斉明(さいめい)天皇として即位 同一人物が再び天皇に即位する事を「重祚(ちょうそ)」と言います 実権は中大兄皇子が握る660年、唐・新羅連合軍が高句麗と同盟した百済を滅ぼす! 古墳時代に百済から倭国にもたらされた人材・文物の量は計り知れません 倭国は最大の同盟国を失う663年、「白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)」 百済復興のために倭国が唐・新羅に戦いを挑むが大敗!前置きが長くなりましたが、ここからが本題。666年、高句麗使節団の一員として玄武若光(げんむじゃっこう)が倭国を訪れる667年、中大兄皇子が唐を警戒して都を近江大津宮(おうみおおつのみや、滋賀県)に移す668年、唐・新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされる! 「三国時代」が終わり、朝鮮半島は新羅によって統一される 多くの高句麗貴族・僧侶が倭国へ亡命 若光は帰国不能になり、倭国に留まり朝廷に仕える立場となるこの後、日本古代最大の内戦「壬申の乱(じんしんのらん)」が起きますが、唐が倭国に攻めて来る事はありませんでした。701年に「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成して倭国も本格的な律令国家になります。703年に若光は高麗王(こまのこにきし/こきし)の姓(かばね)を下賜されて朝廷に仕えます。「王(こにきし)」は外国王族に与えられる特別な姓で、若光が高句麗王族として正式に認められたことを意味します。高句麗は滅びましたが若光は高句麗王として日本に存在しているのです!奈良時代に入って、第44代元正(げんしょう)天皇の時代の716年に、高麗王若光が倭国に移住していた1799人の高句麗人を率いて武蔵国(むさしのくに、東京・埼玉)に新設された高麗郡(こまぐん)の長となります。その後、若光はこの地域の発展に貢献して行く事になります。若光の死後、その徳を偲んだ群民が霊を祀って高麗神社が創建されます。宮司職は現在まで若光の子孫が受け継いているそうです。と、言う事を去年、高麗神社を訪れて初めて知りました。 高麗神社(こまじんじゃ)埼玉県日高市
古代史を読み解く上で、神と巫女の存在は重要です。神とは元々は大きな功績があった人物で、死後に神社に祀る事で神になります。(フツーの人でも神社に祀られれば神になれますHi)その大きな功績を創り出したパワーを継続的に引き出すのが巫女の役割です。ヤマト王権が成立する以前の、クニが何百もあった時代には、それぞれのクニに神と巫女がいて、それらが統合・吸収されて行きます。この過程で、どれだけ多くの神と巫女を得られるかが権力の大きさにつながって行きます。権力拡大の源は軍事力ですが、古代においては「祭政一致」が原則です。ヤマト王権の時代になると、天皇は皇后(皇族の娘)や複数の妃(豪族の娘など)を娶りますが、これら皇后・妃の多くは巫女です。どれだけ多くの神と巫女を持てるかが権力の大きさとなる訳です。(皇位の継続を安定化させるために複数の皇子を持った、と考えるより、むしろ母違いの皇子たちは皇位継承争いを起こし、政治を不安定化させます)各地の神の祭祀権を得る事で勢力範囲を拡大して行った、と考えるのが古代の国家形成プロセスです。『古事記』や『日本書紀』の神話は、各地の神がヤマト王権に統合されて行く過程を表します。大和の地である奈良盆地南部の祭祀権を有していたのは出雲族である三輪(みわ)氏です。三輪山(みわやま)を御神体として大物主神(おおものぬしのかみ)を祀っていました。巫女は地元の人であるホケノ山古墳に眠る女性だと思われます。ホケノ山古墳の被葬者は第10代崇神(すじん)天皇の皇女である豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)とされていますが違うと思います。ホケノ山古墳に葬られた巫女は葉っぱの付いた木の枝で神託をおろす巫女。この古墳からは極端に幅が狭い棺が発掘・再現されています。この巫女は二度と祭祀が出来ない様に、肩を外されて巫女の能力を封印されています。『日本書紀』には崇神天皇の時代に第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫(出た!やまとととひももそひめ)が大物主神の妻になったとあります。倭迹迹日百襲姫も巫女です。これは、崇神天皇がこの地の祭祀権を三輪氏(出雲族)から奪い、大和の支配者になった事を意味します。軍事的な占領だけでは、その地の民は納得せず、その地の神の祭祀を行う者が交替して、新なた支配者が現れた瞬間でした。重大な結論です。大和に最初に天皇として君臨したのは第10代崇神天皇です。崇神天皇の名は、「御肇國天皇(はつくにしらす すめらみこと)」:初めてこの国を統治する天皇でもありす。********************************************古代の漢字2文字の「〇〇天皇」の名は奈良時代に『古事記』、『日本書紀』が成立する過程で、淡海三船(おうみのみふね)が初代神武天皇から第41代持統(じとう)天皇までを一括撰進した、後付けの名です。崇神天皇の治世年は纏向遺跡と箸墓古墳の考古学的調査から3世紀前半と考えられています。この時期が卑弥呼の時代と重なるため、日本古代史解釈の混乱を生む事になったのは、前述の通りです。********************************************そうすると、神武東征(じんむとうせい)は初代神武天皇ひとりの代で成し遂げられたのではなく、欠史八代(けっしはちだい)と言われる第2代から第9代までの天皇と崇神天皇までの10代に渡って行われた事になります。『日本書紀』には、このあと、「箸墓(はしはか)伝説」と言われる倭迹迹日百襲姫の不審な死が記されています。事故死の様に書かれていますが、崇神天皇が2本の槍で倭迹迹日百襲姫の下腹部を刺して〇害したと解釈出来ます。倭迹迹日百襲姫は第7代孝霊天皇の皇女とされていますが、欠史八代に含まれる孝霊天皇の実在性は乏しく、倭迹迹日百襲姫は崇神天皇が東征の過程で、よその土地から連れて来た巫女だとも考えられます。実の娘である豊鋤入姫命を後任の巫女に充てるための計画的〇害だと予測します。倭迹迹日百襲姫はサイキッカーであるため、崇神天皇は霊威を恐れ、初の大型前方後円墳である箸墓古墳を造り、霊を鎮めたのだと考えると納得出来るストーリーになります。前方後円墳はヤマト王権のシンボルであり、この特異な形状は王の権威を示す役割も合わせ持ちます。加えて、三輪山の祭祀権を奪われた三輪氏は、副葬品の豪華さから、他の古墳の追随を許さない隔絶した地位にあった人物が葬られているとされる桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳(とびちゃうすやまこふん)、桜井市)に眠るのだと推理します。これらの位置関係は奈良盆地南東部の数km四方の範囲に納まります。余談一般人が神社にお参りしてご利益を授かるのは困難です。本当にご利益を授かりたいのであれば、その神社の巫女さん(あるいは男性の覡(げき))と結婚しなければいけません。ただし、現在の日本では重婚は認められないので、得られるご利益はひとつですHi
Feb 3, 2026