
第26代継体(けいたい)天皇以降、『日本書紀』に記された事績年は干支と天皇年から西暦への変換が可能です。
しかし、継体天皇崩御の531年から大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)失脚までの540年には『日本書紀』に不自然な記載があります。
そこで、聖徳太子に関する伝記集である、
『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』
元興寺(飛鳥寺)が朝廷に提出した寺の縁起と財産目録である、
『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』
歴史学者の林屋辰三郎氏の著書、
『継体・欽明朝内乱の史的分析』
の内容を歴史順に並べてみました。(上図)
謎その1:継体天皇の崩御年と死因
『日本書紀』には、
「継体25年(531年)2月、天皇は病が重くなった、7日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された、
時に82歳であった
12月5日、藍野陵(あいののみささぎ、摂津国三島郡藍野)に葬った
- ある本によると、天皇は28年(534年)に崩御としている、
それをここに25年(531年)崩御としたのは、
『百済本記(くだらほんき)』によって記事を書いたのである、その文に言うのに、
25年(531年)3月、進軍して安羅(あら)に至り、乞屯城(こつとくのさし)を造った、
この月高麗はその王安を弑した、また聞くところによると、
日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」
と記され、まるでクーデターが発生したかの様な政府の大事件を朝鮮半島の歴史書である『百済本記』から転記しています。
また崩御年を「ある本」を参照して534年とも記していています。
謎その2:継体天皇の次に即位したのは誰
『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』に記された仏教公伝は欽明7年の戊午年、538年。
そうすると欽明元年は532年になります。
つまり、継体天皇の崩御後に即位したのは安閑(あんかん)天皇ではなく欽明(きんめい)天皇です。
謎その3:不自然な大伴金村大連の失脚
『日本書紀』によると、大伴金村大連は任那(みまな)四県割譲の責任を物部尾輿(もののべのおこし)大連に問われて失脚します。
任那四県割譲は512年、金村失脚は540年です。
なぜ、28年も経過した後に責任を問われて失脚するのでしょう?
林屋辰三郎氏の二朝並立説
531年:「辛亥の変」蘇我氏を主たる支持勢力とした欽明が継体を討つ
532年:欽明が即位
534年:欽明勢力に反対した大伴氏を中心とする勢力が安閑を擁立
536年:安閑崩御後、宣化(せんか)を擁立
539年:宣化崩御
540年:安閑・宣化を擁立した大伴金村が失脚


母違いの皇子たちが異なる豪族をバックに、皇位継承をめぐって争うのは日本史の定番です。
『日本書紀』は皇子たちの皇位簒奪争いを明確に記さなかったり、全く記さない場合があります。
あまり謎でもなかったかHi
一般に『日本書紀』に事績が多数記されたり、朝鮮半島との関係が詳しく記されている天皇の治世年は長く、逆に事績が少なく国内の記事のみが記されている天皇の治世年は短い傾向があります。
安定した政権は長く続き、視線が外に向かうのでしょう。
この後、欽明天皇の治世は32年間続き、『書紀』には朝鮮半島の百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、任那(みまな)との関係の記事が大量に記載されています。