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埼玉県日高市には「高麗(こま)」の名がつく地名がいくつかあります。
埼玉県に住み始めた頃は「高麗(こうらい)」と歴史的な関りがあるのかなと思っていましたが、違いました。 「高句麗(こうくり)」を高麗(こま)と2文字に略しているのでした。 高麗(こうらい)が建国されたのは918年、それ以前は高句麗を高麗(こま)と省略しても混同はなく、それが今に至るまで続いているのでした。 618年に隋(ずい)の煬帝(ようだい)が暗殺されて、強大な律令国家である唐(とう)が建国されます。 ![]() 朝鮮半島には高句麗、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の3か国が存在しています。 長い歴史を通じて、おおよそ、 ① 高句麗は南下を図り百済・新羅と対立 ② 百済と新羅は半島南部の伽耶諸国(かやしょこく、任那(みまな))の割譲をめぐり対立 ③ 倭国と百済は同盟を結び、高句麗・新羅と対立 の図式が続いていました。(同盟関係・敵対関係が変わった時期もあります) 618年の時点では、伽耶諸国(任那)は全て百済と新羅に割譲されて、存在していません。 倭国は第33代推古(すいこ)天皇、摂政の厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)、蘇我馬子(そがのうまこ)のトロイカ体制で政治改革を強力に推し進めていた時代です。 第35代皇極(こうぎょく)天皇の時代に国際情勢が変化します。 643年、長年戦いを続けてきた高句麗と百済の間に和睦が成立 高句麗・百済連合軍が新羅を攻撃 644年、唐が高句麗への侵攻を開始、東アジアの緊張が一気に高まる 645年、「乙巳の変(いっしのへん)」、蘇我氏が滅ぼされる 国内でもめている場合ではありません 645年、皇極天皇が第36代孝徳(こうとく)天皇に譲位 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)を皇太子として新政権がスタート 648年、唐と新羅が軍事同盟を結成 「唐・新羅 vs 高句麗・百済+倭国」の図式に変化 唐と結んだ新羅が朝鮮半島で優位に立つ 649年、「蘇我倉山田石川麻呂の変(そがのくらやまだいしかわまろのへん)」 4つくらい名前が入っている石川麻呂が中大兄皇子に滅ぼされる またまた、国内でもめている場合ではありません 655年、前年に孝徳天皇が崩御、皇極天皇が第37代斉明(さいめい)天皇として即位 同一人物が再び天皇に即位する事を「重祚(ちょうそ)」と言います 実権は中大兄皇子が握る 660年、唐・新羅連合軍が高句麗と同盟した百済を滅ぼす! 古墳時代に百済から倭国にもたらされた人材・文物の量は計り知れません 倭国は最大の同盟国を失う 663年、「白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)」 百済復興のために倭国が唐・新羅に戦いを挑むが大敗! 前置きが長くなりましたが、ここからが本題。 666年、高句麗使節団の一員として玄武若光(げんむじゃっこう)が倭国を訪れる 667年、中大兄皇子が唐を警戒して都を近江大津宮(おうみおおつのみや、滋賀県)に移す 668年、唐・新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされる! 「三国時代」が終わり、朝鮮半島は新羅によって統一される 多くの高句麗貴族・僧侶が倭国へ亡命 若光は帰国不能になり、倭国に留まり朝廷に仕える立場となる この後、日本古代最大の内戦「壬申の乱(じんしんのらん)」が起きますが、唐が倭国に攻めて来る事はありませんでした。 701年に「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成して倭国も本格的な律令国家になります。 703年に若光は高麗王(こまのこにきし/こきし)の姓(かばね)を下賜されて朝廷に仕えます。 「王(こにきし)」は外国王族に与えられる特別な姓で、若光が高句麗王族として正式に認められたことを意味します。 高句麗は滅びましたが若光は高句麗王として日本に存在しているのです! 奈良時代に入って、第44代元正(げんしょう)天皇の時代の716年に、高麗王若光が倭国に移住していた1799人の高句麗人を率いて武蔵国(むさしのくに、東京・埼玉)に新設された高麗郡(こまぐん)の長となります。 その後、若光はこの地域の発展に貢献して行く事になります。 若光の死後、その徳を偲んだ群民が霊を祀って高麗神社が創建されます。 宮司職は現在まで若光の子孫が受け継いているそうです。 と、言う事を去年、高麗神社を訪れて初めて知りました。 ![]() 高麗神社(こまじんじゃ)埼玉県日高市 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 4, 2026 09:30:13 AM
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