|
カテゴリ:カテゴリ未分類
九州から大和への神武東征はあったのか?
あったのだと思います。 北部九州と近畿に同一、あるいは近似の地名が偶然とは思えないほど多数あります。 九州勢力の一部が東遷して、出身地の地名を残したのだと思います。 ![]() 2世紀から3世紀にかけて、後に邪馬台国連合を形成する九州勢力、瀬戸内海に分布する吉備族、日本海から近畿に及ぶ出雲族の3大勢力が存在したと考えられます。 大和の地を支配していたのは出雲族(三輪氏)で、第10代崇神天皇が三輪山信仰の祭祀権を奪い、新たな王権が成立します。 これが東征の終わりです。 時期は3世紀前半から中頃です。 では、東征の始まった時期を考察します。 『日本書紀』の記述そのままでは、東征した神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)が紀元前660年(皇紀元年)1月1日に初代神武天皇として橿原宮(かしはらのみや)で即位、ですが、紀元前7世紀は山陰、神戸、大阪で水田稲作が始まった時期です。 武器として欠かせない鉄器の生産が始まるのは紀元前3世紀からです。 これでは軍事力を保持出来る土壌が整っていません。 どのタイミングが最もあり得るかを考えます。 九州勢力の中でヤマト族が、その地で王権を確立しなかったのは、後に邪馬台国連合を形成する勢力に力が及ばなかったからでしょう。 一旦、東へ大きく退いて、西を攻め直す、王権数十代に渡る壮大なプランを抱きます。 中国の歴史書『後漢書(ごかんじょ)』の「東夷伝(とういでん)」に、 「桓帝(かんてい)・霊帝(れいてい)の時代(146年~189年)、倭国では平和が乱れ 互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する物がいなかった」 とあります。 これが九州北部で起きた倭国大乱(わこくたいらん)です。 この戦争を終結させたのが卑弥呼です。 大乱の時代にヤマト族の王である磐余彦は戦いに参加せず、軍事力を保持したまま、舟軍を率いて東遷を行った、こう考えるのがタイミングとしてベストです。 東征の始まりは2世紀後半です。 東征の過程 ![]() 『日本書紀』には東征は開始から7年間、磐余彦ひとりの一代で成し遂げられたと記されています。 実際は開始から100年弱、10代に渡る王によって行われた東征です。 途中の経由地は重要です。 安芸国、吉備国で援軍を得ています。 ヤマト族だけでは出雲族を破れないと判断し、ヤマトと吉備が同盟、連合軍で戦いを挑む事になります。 ![]() 舟軍は難波から川を遡って白肩津(しらかたのつ、現在の東大阪市日下町)に到着します。 当時、大阪は陸地ではなく、河内湾・河内湖が広がっていて、生駒山のふもとまで舟で航行する事が可能でした。 「津」とは港を意味します。 当初、大阪が海・湖だった時代を調べて、神武東征の時期を定めようと考えていました。 気候が最も温暖化して海水面の上昇がピークに達したのは縄文時代前期、7000年前から5470年前(縄文海進(じょうもんかいしん))。 奈良時代には湖の面積が大きく減少しますが、まだ湖は存在して舟の航行が可能だった様です。 これではレンジが広すぎて定め様がありません。 『古事記』、『日本書紀』が編纂された奈良時代は、「白肩津」は舟で行ける港と認識されていたと考えられます。 ヤマト・吉備連合軍は生駒山を越えて、宿敵である長髄彦(ながすねひこ)と戦い、初戦は敗れます。 この長髄彦が三輪氏なのでしょう。 作戦を変えて紀伊半島の東側から攻め直して、大苦戦の末勝利します。 この辺の描かれ方は映画かドラマの様です。 実際に大きな戦いがあったのか、比較的平和裏に政権が移譲されたのかは、判断に幅のあるところです。 時代を1世紀ほど戻します。 日本の古代史を考える上で、重要な出土物のひとつが銅鐸です。 銅鐸は紀元前2世紀から作成され、2世紀に突然消滅します。 銅鐸は遺跡から発掘されるのではなく、人里離れた山の中から丁寧に置かれた状態で出土することが多く、何らかの意図を持って地中に埋められたと考えられます。 これはヤマト王権が東征を行う過程で、被支配者である出雲族や、同盟した吉備族の銅鐸信仰を強制的に廃させたからと考えるべきでしょう。 九州討伐 纏向(まきむく)に都した最後の天皇と考えられる、第12代景行(けいこう)天皇の時代から九州への攻撃が始まります。 4世紀前半から中頃です。 景行天皇の息子の日本武尊(やまとたける)は九州を討伐し、後に関東・東北まで平定します。 日本武尊はヤマト王権の軍事力を人に喩えたと考えるべきでしょう。 第14代仲哀(ちゅうあい)天皇、皇后の神功皇后(じんぐうこうごう)も熊襲(くまそ、熊本)を攻めます。 続く、第15代応神(おうじん)天皇から歴史に変化があります。 都を河内に遷して、急激に軍事国家の性格が強まり、視線の向かう先がしばらく朝鮮半島になります。 第26代継体(けいたい)天皇から『日本書紀』に記された事績年を西暦に換算する事が可能になります。 527年に筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱を鎮め、これ以降九州の氏族はヤマト王権に抗う事はなくなります。 神武東征から4世紀を経て、26代の天皇に渡って行われた東征と西征はここに終了します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 21, 2026 04:28:43 PM
コメント(0) | コメントを書く |