篤姫島津斉彬は,文化6年(1809),薩摩藩第10代藩主島津斉興の長男として江戸芝の藩邸で誕生した。母親は因幡鳥取藩主池田治道の三女弥姫・周子(いやひめ・かねこ)。 なお,斉彬は篤姫を養女として迎えていることから,養父に当たる。
◆「篤姫」
篤姫の誕生日については,「島津氏正統系図」には天保6年(1835)12月19日,「源姓和泉氏嫡流系図」には天保7(1836)年2月19日と,異なる日が掲載されている。
「篤姫」は天保6年(1835年)島津氏の庶流今和泉家の島津忠剛(ただたけ)の長女として誕生した。名を於一(おかつ)・一子(かつこ)といった。父の忠剛は斉彬の叔父(斉宣の子)である。
▼篤姫-
島津家へ,家定の正室を迎えたいとの縁談が持ち込まれたのは,時の老中阿部正弘と斉彬が懇意であったことも背景にあるとされる。 嘉永6年(1853)に斉彬は於一を実子として幕府に届け,養女として於篤と改めさせた。ここに篤姫の誕生となる。篤姫はこのとき鶴丸城に入り,輿入れの 準備のため江戸藩邸に移った。
ペリー来航・家慶の死去・開国といった問題のため,輿入れは延期されていたが,安政3年(1856)近衛家の養女となり近衛敬子(すみこ)と改名。安政4年(1857)に婚礼を上げた。
▼NHK大河ドラマ-篤姫
波乱に満ちた篤姫の一生を描いた物語は,放映当初あまり注目されなかったが,回を追うごとに視聴率は上 昇。関東地区では年間平均24.5%,第48回は29.2%を記録した。
ドラマの中での篤姫は,徳川幕府300年の歴史の中で凝り固まった価値観,身動きができないほどの固定観念を,見事なほどに解きほぐしていった。 そして島津斉彬,井伊直弼,西郷,和宮,滝山,幾島,・・・と篤姫と立場や価値観の違う人たちを,次々と説得し味方に引き寄せる,あるいは理解を取り付け ていく。
多くの場合,この人にこんなことを言ったら,どんなしっぺ返しが来るか。それを想像しただけで,口が開かなくなるのです。 ところが,篤姫は躊躇ししなかった。 視聴者は自分のできないことを,見事にやってのける篤姫に,尊敬と喝采を送っていたのである。 |