第二話「春情浮世節」--川口松太朗『人情馬鹿物語』
「あんたも一ペん試してごらんよ。随分長く私には惚れてるんだから、
ただ惚れてるだけじゃ面白くも何ともありやしない。後十年も経てばお互いに、
何をしようといったって出来ない体になってしまうんだから、
いわば此処いらで、生きていた間の勘定をつけて置かなければいけないんだよ。
だからさ。今夜は私にお交き合いよ、ね、好いだろう。黙って私にお任せよ」
「ああ、彼奴め、試して見ろといやがったな」
「試して見たんでしょう小父さん!」
「試したって駄目は初めから判り切っているんだ」
「駄目と判っていても試して見たんじゃありませんか」
「うるせえツ」
と、円玉は又叱った。が、本当の叱り方ではなかった。うるせえといいながらも、
微笑しているかげりがあった。やがて祭壇の前に立って香を焚く円玉の姿を、
見守っている錦之助の若い写真が、妖しげな色気を漂わせて立ち昇る香煙の中から、
かすかに笑っているようだった。
◇『人情馬鹿物語』と川口松太郎
『人情馬鹿物語』は 「小説新潮」に昭和二十九年一月号から十二月号にかけて連載された作品で、川口松太郎円熟期の傑作といわれている。春情浮世節では,男と女が出来てしまう際の色気はあるが決して下品にはならない描写 - それもたった二、三行で男女の深情けが描かれている----の見事さである。凡手には敵わぬ業である。