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<Textーby 小林弘利>小林さんよろしく。


第1回「イン・ザ・カット」

4月8日の日記  2004/04/09(Fri) 00:18 No.721

本日は『イン・ザ・カット』を見ました。ue殿に一歩後れを取ったか……。

さて、この映画は「赤い国のアリス」といった感じでした。
アリスの物語がそうだったように、このフラニーという国語教師の物語もまた、夢の中のお話、というふうにぼくは考えます。

そう、すべてはあの冒頭の、まどろみの中にいるフラニーの見ている夢。そういうふうに見ると、ミステリーとしての最大の欠点、犯人の動機が描かれていない、というところも欠点ではなくなります。

性的に満たされていない……ということは、愛のある暮らしを送っていない……フラニーが、セクシーな夢を見ています。けれど彼女は元来、性的に保守的で、セックスは罪である、というふうに思っている。そう思ってはいても一方では父と母のロマンチックでおとぎ話のような恋物語には憧れている。

彼女は母から聞いた「父との出会いとプロポーズの物語」を夢の中で思い出しています。スケートリンクでの出会い。そしてスケート靴が氷を切り裂いて行く様子。そのスケート靴のイメージがカミソリによる連続殺人事件、という怖い夢へとスイッチして行くわけですね。

何で殺人事件の夢なんか見るのかというと、彼女が自分の中にうずいている奔放な性への欲望を自分で罰したいと思っているからです。

だから場末のバーにたむろして、セクシーさをアピールしているような女性たちは殺してしまいたい。遊んでいる女子学生も、無責任な性をエンジョイしている義理の妹も、フラニーのモラルに照らすと「大いなる罪人」ということになるわけです。

首を切断するのは、それは本当はそこに自分の顔があると感じているから。彼女はセックスに溺れたいと心の奥で感じている自分の欲望を自分で抹殺しようとしています。

フラニーはそういう「自分のモラル」を重い鞄のようにも感じています。だからこの夢の中で彼女は常に重い鞄を持って歩いている。

そんな彼女の周りには常に赤い色があふれています。赤。それは命を象徴する色。性への罪の意識が、フラニーを愛ある暮らしから遠ざけているわけだから、当然、彼女は「生きる」ということ自体にも顔を背けている。だから彼女は周りにある「赤」には目もくれない。

そんな彼女は会う人ごとに「イメージ」と「感覚」ということを口にされています。モラルという「理性」と「秩序」で武装している彼女は、セックスも「言葉」に置き換えて自分の中に納めようとする。

そう、言葉こそがフラニーの鎧なのです。だから夢の中なのに、彼女はめくるめくイメージではなく、その中にある言葉に意味を見いだそうとしています。

けれどこれは夢だから、言葉ではなくフラニーをどんどんとイメージの海の中に溺れさせて行きます。

ニューヨークが舞台なのに、薄汚れた狭い地域しか映されないのは、彼女が日頃見ている世界がどれほど狭く、限られた狭い場所なのか、ということの現れですね。

そんなフラニーは自分の「罪の意識」が引き起こしている夢の中の殺人事件を捜査している夢の中の刑事との関係に沈んで行きます。

夢の中で、彼女は押し込めていた欲望を解放する。けれどそれは彼女に幸福感ではなく、長い時間をかけて守ってきた自分という名の城が壊れてしまったようにしか感じられない。

だから彼女は涙を流す。

赤い命の色の帽子をかぶった、フラニーの守護天使が、そんな彼女に救いの手を差しのばそうとするけれど、彼女はその天使に自分から背中を向けてしまう。

天使にも「赤=生きる意志」に目を向けようとしないフラニーは救えことは出来ない。だからフラニーではなく、義理の妹の方を守護しようかな、と言い出す。するとフラニーは咄嗟に危機感を抱いて、義理の妹を夢の中から抹消してしまう。

そして、そうやって愛するものたちを自分から遠ざけてしまうことでしか、自分という砦を守れないことに気づいた彼女はようやく、理解する。赤い色から目を背けていても自分は幸せになれない、と。

そしてフラニーは赤いドレスに身を包む。
生きること、愛すること、セックスを罪ではなく人生の彩りへと変化させることを決意する。決意して、悪夢を終わらせようと行動し始める。
もうフラニーは重い鞄を手にしてはいない。モラルという荷物を捨てて、彼女は「生」を身にまとう。

そして――「自分の罪悪感」にケリをつけた彼女はようやく本当の目覚めを迎えるだろう、と映画は語ります。

目が覚めたとき、彼女は咲いては散って行く花の嵐の中で、しあわせそうに微笑んでいる義理の妹の姿を窓越しに見下ろすことになるのでしょう。

そして散る前に思いっきり咲かなければ花じゃない、と夢の中で気づいた彼女は、新しい朝を、新しい人生の第一歩として行くのでしょう。
……と、これはそういう「夢の中」を描いた物語。

そういう視線でこの映画に接すると、全体が曖昧で脈略がなくシーンとシーンが重なって行く作り方になっている演出や、赤い帽子をかぶったケビン・ベーコンの特別出演の意味などがはっきりとわかってくるのじゃないでしょうか。

女性スタッフがメインで作った作品らしい、感覚的でちょっとエグい映像がまさに「けだるい朝のまどろみ」のような雰囲気を的確に伝えてくれているのでした。

映画というのは表向きの顔だけではその仮面の下で語られている内容が見えてこないことがよくあります。だからこそ、ジッと画面を見つめている必要があるのです。

そしてもうひとつ、メグ・ライアンがこの役を演じている、と言うことがとても重要なんです。

たとえばトム・ハンクスが『フィラデルフィア』に出演したのと同じです。となりの気のいいお兄ちゃんだと世界中が思っていたトム・ハンクスがエイズに冒される同性愛者を案じることで、この病気がすぐ身近な危機なのだと観客にそこはかとなく伝えていたのと同じように、

チャーミングなとなりの女の子であったメグ・ライアンがこの『イン・ザ・カット』に主演していることで、この「満たされない欲望を抱えた女性の見る夢」を描いた映画が、作り話ではなく、リアリティーのある「ちょっと怖い夢」だと観客に感じさせるわけです。

もしニコール・キッドマンが主演していたら、これはきっと「女の視点で作った『アイズ・ワイド・シャット』」といった感じで、もっと作り物めいた作品になっていたことでしょう。メグが演じることで生身の女性の体温が感じられる、そんな作品になったのだと思います。

と、今日の日記はまるっきり『LOOK ALIVE』になってしまったな。













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