「出来ること」と「出来ないこと」
昨日の一件で「出来ること」と「出来ない」ことについて考えました。 例えば、親の立場として他人様からしてみれば、非常に出来のよいいわする優れたお子様であってもきっと「出来ること」はすぐに当たり前のこととなってやはり関心は「出来ないこと」の方へ向いがちではないかって。親から見て「出来ないこと」が多い子は尚更。あれもこれも「出来ないこと」ばかりで、「出来た」時の喜びなんかすぐに忘れてじゃあ、次はこれが出来ればいなぁって、「出来ない」ことへ関心がいく。 要するに親は子どもに「出来ること」を求めてしまうものなんじゃないかって。 なんだか世知辛いなぁと思いつつ、これは私もそう そして、よくこのようなことは、教育の場だとかでも言われているけど、頭でわかっているつもりが、血や肉となっていないことに気づく。 親の立場として例えに出したが、実はそうではなしに、人間関係が成立しているあらゆる場面で「出来ること」よりも「出来ないこと」に照準を当ててしまうと人間関係は悪くなる気がする。否定的なモノの見方に傾いていってしまう。愚痴が発生する。例えば会社内、サークル、親の集まりなどいろいろな場面で。いいことがない。 でも、人間「出来ないこと」に関心を持たれるよりも「出来ること」に照準を当てる方がいいに決まっている。 話を戻すと 私は、障害児の親でもないし、医療関係の者ではない。ましてや、きちんとその分野を履修したとも胸張って言えない。一応、教育学部の心理科卒にはなっていますが。同じ支部の相談員をやっている方は、もともと相談を受けていて自分も相談員になろうと志している方だったり、最近は、特別支援校から出張して勉強なさっている方もいる。 私は相談員の立場としては自分で思うにハンディが多い相談員の経験不足を、例えば障害者の親として体験談としてカバーすることも出来ないし、豊富な知識も持っていない。 それこそかなり前になるが、Mちゃんに「容器の中から物を1つ取り出す」という課題を出した。1歳未満の認知の課題である。 簡単だと思った。だが、実は驚いた。そうはしないのだ。 まず、言葉が通じないので、やってみせる。手をとってMちゃんの手を操作する。 容器は底が直径15cmほどの円形で、高さは3cmほど。その中に片手で持てる程度の積木を1つ入れておくのであるが、何度やっても積木には興味がないというか、目に入らないらしく、容器の縁を持ってぶんと投げるのだ。 何度やってみせても、何度手をとって導いてもぶんと投げる。 途方に暮れた。親御さんも「何で容器を投げちゃうんでしょうね?」と言う。こっちが聞きたいくらいだった。何でかと聞かれても、Mちゃんは答える術がないし、私達もわからない。どうやってこの課題に向ったらいいのであろう。言葉に詰まった。親はアドバイスを求めている。気の効いた言葉を持っていなかった。 そして、どうしたかというと、初心に返っただけのことだった。私は知識も経験のないけれど、ポーテージの理論 正確に言うと応用行動分析学ですが なら学んでいる。目標であるこの課題が終着なら課題を細かくし分析して、到達するための最初の小さな階段の一段目を作ることは「出来る」つまり、階段をユニバーサルデザインにとでも言うのかな、上り易いように、低く作ってあげればいい。 自分自身の「出来ない」ことに気をとられていても仕方がない。「出来ること」を考えよう。と、これが最初に気づいた瞬間だったかもしれない。 その後、割愛しますが、そのように課題を分析して、もっと簡単な課題に置き換え、数ヶ月かかってこの課題はできるようになりました。 ちなみに障害児の親である相談員の仲間にこの課題のことを話すと「ぼーんって皿の方、投げちゃったでしょう。」と反応を言い当てたのには驚きました。 忘れていました。自分自身が「出来ない」ことに囚われてつらい状況に追い込んでいたことを。 今回も同じことだよな・・・と思ったので、要はポジティブ・シンキングなんだけど、「出来ること」に照準を当てていこうと思いました。 忘れないように・・・。