701046 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2010年08月10日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
  筑後川を下り、菊池正観公の戦いし処を過ぎ、感じて作るあり    頼山陽 (其の2)    古戦場めぐり

筑後川の古戦場と絵巻

太平記筑後川合戦(大保原合戦)絵巻、と 古戦場地図

筑後川を下り菊池正観公の戦いし処を過ぎ
左から(1)、宮の陣神社境内。   (2)、将軍梅紀念之碑。   (3)、宮の陣征西将軍懐良親王碑。  (4)、大将藤とも将軍藤ともいわれる(小郡福童・中大臣神社境内、生憎7月下旬に訪ねましたので藤の花の時期でなかったのが残念でしたが素晴らしく広大な藤棚でした。

※ 宮の陣は懐良親王が陣営を置いた処であり、親王が傷を負った際快癒を祈って大中臣神社に祈祷し、全壊したことにより藤を奉納したといわれる(大将藤)。また親王が御手植えされたという梅があります(将軍梅)。

筑後川を下り菊池正観公の戦いし処を過ぎ
左から(1)宮の陣神社 鳥居   (2)宮の陣神社   (3)高良山山中の本坊跡   (4)道なき道の薄暗い山中の吉見城近くに一輪の花が疲れを癒してくれる。
※吉見城跡(豊臣秀吉が九州征伐に際して陣を敷いた処。現在琴平宮を祀ってあり、鳥井には琴平宮と文字があります。

筑後川の戦い

左から、善風塚跡・ 宮ノ陣・ 将軍梅・ 将軍藤(大将藤) の説明文
※善風塚跡掲示板文面=昔、この「希望の森」の辺りに「小善風」といわれる4っの塚(小さな丘)があり、運動場の南側には「大善風」といわれる3っの塚がありました。これらを合わせて「善風塚」と呼ばれていましたが、今から650年以上前(西暦1359)に起こった「大保原(大原)合戦」で戦死した7人の武将(兵士を指揮する人)の御墓といわれています。この合戦は、南北朝時代(1336~1392)の「太平記」という軍記(戦争)物語に書かれている中世九州の最大の合戦です。この本には1日の戦いで両軍合わせた5400人以上ともいわれる兵士が戦死したと書かれています。当時の人々は、戦死者を敵・味方の区別なく埋葬して、お寺(善風寺・西鉄大保駅の約400m北側)を建てて、供養したようです。現在は、このお寺は有りませんが、寺小寺という地名が残っています。この「善風寺」は、明治から昭和にかけて開発によって壊されてしまったようです。更に1924年(大正13年)には、西鉄電車の前身の九州鉄道(福岡~久留米間)も開通して、少しずつ昔の地形や遺跡は失われて行きました。現在は、沢山の家々が建って、当時の様子を想像するのが難しくなっていますが、この「希望の森」を通して、合戦の人々の暮らしに思いを寄せてください。

※ 宮ノ陣神社
掲示板文字 =正平14年(1359)8月、後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮懐良親王は、菊池武光・草野水幸ら宮方の軍勢を率い、南下して来た少弐頼尚をはじめとする足利方の大軍と大保原(現在の小郡市から宮ノ陣にかけて)において九州における雌雄をめぐり、激しい戦いを繰り広げました。これが、日本三大合戦の1つとして有名な[大原の合戦](筑後川の戦い)です。その際、征西将軍宮がこの地に陣を張られたことが[宮ノ陣]の地名の由来ともいわれています。これらの故事にちなんで、高良神社宮司船曳鉄門が主となり、明治21年に神殿を創建し、後征西将軍宮良成親王(懐良親王の甥)を祀ったのが始まりです。のち、同44年に懐良親王の霊を合祀しました。境内には[将軍梅]という懐良親王お手植えと伝わる紅梅や皇族お手植えの松樹があり、3月上旬から、遠い昔の思いを秘めて美しい紅梅が咲き誇ります。(久留米市観光振興課)

※ 将軍梅掲示板文面=正平14年(1359)の夏、征西将軍宮懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は、念仏寺である阿弥陀像をここに安置し、手向けに一株の紅梅を御手植えになる、百万遍の仏名を唱えられたとされている。対する少弐頼尚は味坂(小郡市)に滞陣した。8月6,7日、両軍は入り乱れての決戦を交えた。これが有名な大保原の合戦である。戦いに加わり戦死した兵士は数千に及ぶといわれる。築池武光の弟武邦は追慕のあまり出家して、この梅樹の辺に庵を結び、親王の念持仏に戦死者の冥福を祈ったという。これが側の遍萬寺である。星霜を重ねて、親王が手向けられた紅梅は老樹となり里人の語り草となって、この老梅樹を人々は「将軍梅」と呼ぶようになったのである。

※福童の将軍藤掲示板文面 (県指定天然記念物・昭和45年5月2日指定)
この藤は根もと周囲メートル、胸高周囲2メートルで地上1,7メートルから幹が分岐し高さ2メートルの棚の上には枝が広がり、その被覆面積は204平方メートルに及ぶ。樹勢は旺盛で、樹齢約650年と推定される。正平14年(1359)、南朝の征西将軍宮懐良親王・菊池武光と北朝の少弐頼尚の両軍が激突した大保原合戦で懐良親王が手傷を負った際に、その快癒を祈って大中臣神社に祈祷したところ、その加護で全快したことに謝し、この藤を奉納したと伝えられている。
筑後川を下り菊池正観公の戦いし処.
左から(1)大刀洗公園内の菊池武光像。 

(2)、小郡小学校内運動場の片隅にある善風塚。この大保原合戦では南朝が優位で、勝利しましたが両軍多数の犠牲者が出たので、のちに南朝・北朝の両方が協力して「善風寺」という寺院を建て、死者を供養したと伝えられています。中でも身分の高い武将7人は、ここに特別に塚を作って葬ったといわれています

(3)、大原合戦古戦場の650年祭り(2009)記念碑。   

(4)、将軍梅の横にあるお寺で、この地はかって、征西将軍宮懐良親王が、陣営を置かれたところであり、菊池武光の弟武邦が出家して戦死者の冥福をいのったという遍萬寺。遍萬寺前の宮ノ陣神社境内
には[将軍梅]という懐良親王お手植えと伝わる紅梅や皇族お手植えの松樹があり、3月上旬から、遠い昔の思いを秘めて美しい紅梅が咲き誇ります。(久留米市観光振興課

筑後川を下り菊池正観公の戦いし処を過ぎ
 
             懐良親王碑       高良大社奥の院掲示板      高良山史跡巡りマップ

※高良大社(奥の院) 掲示板文面=古くは[高良廟][御神廟]と称し、高良の神である武内宿禰の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を[別墅(処)]といい、
白鳳7年(678)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を発見して毘沙門胴を建て、天竺国無熱池の水を法力で招き寄せたのが、この清水であるという。鎌倉時代の貞永元年(1232)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もある。中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠って念仏修業をしたという。明治初年の神仏分離により、毘沙門胴は[水分神社]と改められたが、[あらゆる願い事を叶えてくださる神様]として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。(高良大社社務所)

筑後川を下り菊池正観公の戦いし処を過ぎ
左から(1)、高良山から吉見嶽の吉見城跡への山中。 
(2)、高良大社 征西将軍宮懐良親王はこの山を本陣として敵を筑後川畔に破り、後ここに征西府を移されたこともあった。    (3)、高良大社奥の院入口。  (4)、高良山展望台公園より久留米市街地を望む 


※筑後川の戦い後、懐良親王は大宰府に入り11年間であるが、統治権者として[征西府の春』を実現した。三代将軍足利義満の執事細川頼之は、九州制圧に足利一門の今川了俊を推挙、1371年(応安4)了俊は中国の毛利・大内らの中国勢力と九州の武家方と周到に工作し、子息の義範(のちの貞臣)を豊後に入れ、菊池の背後を突かせ、弟の仲秋を肥前に入れ松浦党ろ糾合させて西方から、自分は豊前から大宰府に迫り三方から大宰府攻撃を試み1372年(応安5)8月12日、大宰府は陥落し、親王・武光らは筑後高良山に逃れた。その後も両軍の攻防が繰り広げられている。(1392年南北朝の合一成る)。

 

 

 

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010年08月18日 20時50分59秒
コメント(1) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.