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2005年08月20日
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これは最近、集中的に取り上げている「イングランド銀行──ウィリアム三世」に続くものです。未読のひとは、以下の日記から順番に読んでもらえれば話の流れが掴めるかと思います。


『世界の歴史をカネで動かす男たち』の感想と私見
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507280001/

イングランド銀行設立から見えてくるもの
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507290000/

『世界権力の構造の秘密』からイングランド銀行とウィリアム3世に関する記述
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508130000/

イングランド銀行の設立者たち:英国金融界に君臨したモンタギュー・ノーマン
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200508130001/


今回は、2004年に日本で出版されたユースタス・マリンズの著書『カナンの呪い』を参考にしながら、関連部分を抜粋します。マリンズは政治的理由によって連邦議会図書館を解雇された唯一の職員であり、1945年以降ヨーロッパでその著書が焚書処分に遭った唯一の研究者であると紹介されている人物です。



1541年11月、カルヴィンは「教会条例」を定めた。これは教えを体系的にまとめ、すべての人々に絶対規律を課すものだった。この条例は、あらゆる敵対者に死の罰則を課すもので、カルヴィンの反対派の中心人物ジャーク・グルエなど涜神の罪で斬首され、宗教的に対立していたミハエル・セルヴェトスは焚殺された。他にも反対派勢力は拷問を受けたり、斬首されたりした。また、カルヴィンは魔女の焚殺を推奨し、非情なまでに条例を執行した。

カルヴィニズムの英国への流入は、教会と国家のあいだに分裂を生じさせようという計算に基づくものだった。伝統的な英国国教会は名目上、国王を長としていた。カルヴィニズムが分裂を引き起こそうと活動したことで、クロムウェルが勝利し、スチュアート王朝の国王に代わってオラニエ=ナッソウ家が王位を継承することになった。この粛清の最初の犠牲者はチャールズ1世で、彼は謀反人によって斬首された。

この策謀の詳細は、何世紀も時を経て1921年9月3日、アルフレッド・ダグラス卿によって出版された『Plain English』の中で明かされた。それによれば─「ナポレオン戦争以来、所在不明となっていたミュールハイムのシナゴーグの記録(ドイツ語で記されている)の欠損部分がL・D・ヴァン・ヴァールカートの手に渡った。この中には1647年6月6日にO・Cからエベゼル・プラットに宛てられた以下のような記録がある。『経済支援の見返りに、ユダヤ人の英国への入国を提唱しよう。しかしながらこれは、チャールズが生きているかぎり、実行され得ない。が、裁判にかけないかぎり、チャールズの処刑は不可能であり、現在のところ裁判にかける適切な根拠も存在しない。それゆえ、暗殺があり得ることをチャールズに進言するがよかろう。とはいえ、当方には暗殺者の手配に関わるつもりは一切ない。チャールズの逃亡を手伝うだけだ』。1647年7月12日のプラットからの返答は以下のとおり。『チャールズが除去され、ユダヤ人の入国が認められ次第、経済支援をおこなう。暗殺は危険すぎる。チャールズに逃亡の機会を与えるだけでよい。その後、身柄を拘束すれば、裁判にかけることも、処刑も可能となる。支援は惜しまないが、裁判が始まらないうちから、金額についての議論をしても意味はない』」

アルフレッド・ダグラス卿は、その後、論文の中でウィンストン・チャーチルを誹謗した件で投獄された。

プラットの思惑どおり、策略は進行した。1647年11月12日、チャールズは「逃亡」した。彼は身柄を拘束され、続いて裁判にかけられた。徹夜の議論をおこなった下院は1648年12月5日ついに、議会によって定められた条件どおりにチャールズが和解をはかることで意見の一致をみた。これが有名な「プライドの追放」の発端である。クロムウェルは、議会が処刑の判決を可決しなかったことに激怒し、チャールズの和解を支持した議員すべてを免職処分にした。こうして残った50名の議員からなる議会「臀部の議会(ランプ・パーラメント)」が出現した。彼らは絶対権力を行使し、1649年1月9日には高等法院を宣言した。それはクロムウェルの軍隊のレベラーズから構成されたもので、マナセ・ベン・イスラエルの代理人、アイザック・ドリスラウスがチャールズに対する起訴状を作成した。マナセ・ベン・イスラエルはクロムウェルの革命のための資金をアムステルダムから送った人物で、ユダヤ百科事典には「クロムウェル英国の諜報員」と記されている。

1657年1月30日、チャールズはホワイトホールで斬首された。クロムウェルも勝利を堪能できるほど長生きはできず、1661年に死亡した。結果としてチャールズ二世が王位に復活した。


チャールズ二世が英国国王の座に就いたことで、アムステルダムの銀行家は1674年、英国に大きな経済危機を引き起こした。この混乱は、ナッソウ家が王位を奪取しようとしたために生じたものだった。1677年、英国は敵対していたオランダと和解した。和解条件の一つとして、オラニエ家のウィリアムはヨーク公爵(1685年にチャールズ二世が没すると、ジェームズ二世となって王位に就いた)の娘メアリーと結婚した。こうなると、ウィリアムが英国王位を継承するには、ただ1人ジェームズ二世だけが邪魔だった。

アムステルダムの銀行家はジェームズ二世派の貴族層にせっせと賄賂を贈り始めた。この攻勢に最初に負けたのがマールバラ公爵ジョン・チャーチル(ウィンストン・チャーチルの先祖)だった。彼は、軍隊の指揮官であり、同公爵の指示を取りつけることは是非とも必要だった。マールバラは35万ポンドの賄賂をメディナ家およびマシャド家から受け取った。次に陥落したのはシュールズベリー卿(チャールズ・タルボット)で、チャールズ二世およびジェームズ二世の治世に高位の役職に就いていた人物だった。こうした時流の変化を見てとり、シドニー・ゴドルフィン、サンダーランド公爵、ポーツマス公女といった名士も密かにオラニエ家のウィリアムの王位継承を支持する側にまわった。それでもジェームズ二世は周囲にはびこる背信計画に気づかなかった。マールバラ公爵など、1688年11月10日には、ジェームズ二世に対する忠誠の新たな誓いに著名しながらも、11月24日には、オラニエ公ウィリアムの勢力に加わるというありさまだった。

ポールワース卿もウィリアムの侵略勢力の流れに乗った。ウィリアムが天然痘に冒されたとき看病にあたったオランダ人ハンス・ベンティンクは「国王」にちなんで自らの息子をウィリアムと命名した。デヴォンシャー伯は、ハーグでウィリアムと密かに連絡を取り、英国の王位継承を彼に要請する歴史的文書が届けられた暁には、ミッドランド地域全体をウィリアムに明け渡すことに同意していた。1930年代、その子孫のデヴォンシャー公爵は短期間ながら、ニューヨークのJ・P・モルガン社に勤務し、しばしばモルガンから「役立たず卿」呼ばわりをされた。デヴォンシャーの私有地の相続者、同公爵はジョセフ・ケネディの娘キャサリン・ケネディと結婚したが、戦死したために、デヴォンシャーの地は、厄介なことに、ケネディの手に渡るのではないかと見られた。が、キャサリン・ケネディが(愛人との密会のためにフランスに飛ぶ途中)航空機事故で他界したことで、この問題は回避された。


さて、英国王となったウィリアム三世はベンティンクをポートランドの初代伯爵に指名した。二代目公爵は富豪キャベンディッシュ家と姻戚関係を結び、三代目公爵はインドの総督となり、サティーの慣習を廃止させたことで歴史に名を残した。

ウィリアムの侵略に手を貸した人々は十分に報われた。彼らは以来、英国において富豪一族となっている。ともあれ、第一の課題は1694年のイングランド銀行の設立に勅許状を与えることだった。このために、アムステルダムの銀行家たちはウィリアムを支援してきたのである。これによって、カナン人の一大運動は真の世界権力となった。ウィリアムが王位に就いたことで、英国の王座は黒い貴族の系譜にしっかりと組み込まれ、そのまま今日に至っている。イングランド銀行の最初の株主となり、1万ポンドを投資したシュールズベリー卿は、イングランド銀行は交易のために融資するだけでなく、内戦という重荷を肩代わりすることになると熱を込めて予言したが、この予言は嘘ではなかった。イングランド銀行が英国の金を支配するようになってから、どの革命分子も融資を受けられなくなったために、英国では2度と内戦も革命も起きなくなった。キャベンディッシュ─ベンティンク家の家系は(ウィリアム指示にまわった他の家系同様)常に繁栄し、当主はケンタッキー州のクィグリーなる女性と結婚し、ロスチャイルド一族の会社リオ・ティント社の重役を務めている。なお、第二次世界大戦中には、彼は統合参謀本部(諜報機関)の議長を務めた。

スコットランドの領主は1人残らずジェームズ二世に忠誠を誓っていたが、パトリック・ライアンがまずウィリアム支持にまわった。彼はストラスモア伯となった。14代目の伯爵の娘、エリザベス・ボウズ─ライアンが現在の(故)英国皇太后である。

ウィリアム三世はほどなく美貌の愛人(エリザベス・ヴィリエ)をもった。彼はまた、若い貴族アーノルド・フォン・ケペルと長きにわたって愛人関係を保ち、この愛人をアルベマール伯に任命した。ウィリアム三世が没したとき、その遺言には、ポートランド伯とこのアルベマール伯の名が明確に記されていて、2人には土地と宝石類が遺贈された。

カナン人はよく仕えた人物には必ず報償を与える。その典型例がジョン・バカンだ。彼はスーザン・グローヴナーと結婚した。グローヴナー家(ウェストミンスター公爵)は英国一の富豪一族で、ロンドンの一等地に600エーカー(約7万5000坪)もの不動産を所有している。3年間にわたって、バカンはボーア戦争を推し進めていた時期のアルフレッド・ミルナー卿の個人秘書を務めたのだった。ちなみに、ミルナー卿は円卓会議(現在の外交問題評議会)の創設者でもある。バカンはやがて内外に名を知られる小説家となり、カナダ総督の地位に就き、トゥイーズミュアー卿の称号を与えられた。

イングランド銀行は、英国の王位の奪取を成功させた国王殺害と世界的陰謀の結果として勅許された。それでもジョン・バカンは自伝の中に以下のように記している──「私もローズベリー卿同様、長いあいだ、彼(オリヴァー・クロムウェル)をもっとも偉大な英国人と見なしていた」。ローズベリー卿は英国貴族として初めてロスチャイルド家と姻戚関係を結んだ人物である。彼が、英国でただ1度だけ生じた国王殺害の記憶を美化したとしても、当然と言えば当然だ。



※ 下にコメントとして私見を加えて終わりにします。







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最終更新日  2005年08月20日 13時10分32秒
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