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2005年09月10日
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1997年2月9日の日曜日の夜、世界最強の中央銀行家たちがスイスのバーゼルにある国際決済銀行(BIS)の高層ビル最上階のダイニングルームに集まっていた。



1930年に設立された“中央銀行の中央銀行”として知られるBISは、中央銀行総裁たちが金融界の重要問題を「議論」するために集まるフォーラムへと変質してきた。合意されているルールでは、参加者はメモを取ることも補佐役を連れてくることも認められていないという。ただし例外がひとつだけある。それは、米連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパンだけは、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ビル・マクドナーを同道することが許されているということである(現在のニューヨーク連銀の総裁はティモシー・ガイトナー)。


※ ニューヨーク連銀のガイトナー総裁は2003年11月17日に42歳で9代目ニューヨーク連銀総裁に就任した。ニューヨーク連銀総裁になったと言うことは、FOMC(連邦公開市場委員会)の副議長にもなったと言うことである。ガイトナーはニューヨーク連銀に入る前は、2001年9月からIMFで政策企画審査局長を務めていたが、その前の1998年から2001年までは財務次官(財務長官はロバート・ルービン)である。ガイトナーは1983年にダートマス大学の学士、1985年にジョンズ・ホプキンス大学の修士を取得している。そして日本や中国などアジアに住んだこともあり、日本や中国に精通している人物である。





以下は、2003年10月の記事。



新総裁にガイトナー元財務次官=11月中旬に就任-NY連銀

【ニューヨーク15日時事】ニューヨーク連銀は15日、先に退任したマクドナー総裁の後任として、クリントン前政権下で財務次官を務めたティモシー・ガイトナー氏(国際通貨基金=IMF=政策企画審査局長)を指名したと発表した。同連銀総裁ポストは今年6月以来空席で、スチュワート第1副総裁が暫定総裁を務めていた。
同連銀によると、ガイトナー氏は11月中旬に総裁に就任する。同氏は「総裁指名とともに、(ニューヨーク連銀で)働けることを光栄に思う」と述べた。 (時事通信)
[10月16日7時4分更新]



日本とカナダおよび欧州8カ国の中央銀行総裁は単身であるのに、米連邦準備制度理事会議長だけにはニューヨーク連銀の総裁が同道するのである。これは、米国の「中央銀行」の実質トップが連邦準備制度理事会議長ではなく、ニューヨーク連邦準備銀行の総裁であるということを示唆している出来事だと私は思っている。

ニューヨーク連邦準備銀行については、次の「三菱商事フューチャーズ」の説明が参考になるので興味のあるひとはどうぞ。


ニューヨーク連邦準備銀行(Federal Reserve Bank of New York)について
http://www.mcf.co.jp/kawase/news/mamechishiki/mame_13.html


この日は、欧州中央銀行(ECB)の前身である欧州通貨機構(EMI)総裁アレクサンドル・ラムファルシーとBISの総支配人アンドルー・クロケットも招かれていた。これらのバンカーは、合計すると世界全体の流通通貨の95%を支配し、為替市場や株式市場さえも左右することができる中央銀行家たちである。集まった者たち以外の記者なども完全にシャットアウトしているので、ガードを緩めて本心を語ったはずである。

当時のBIS総裁であるウィム・ドイセンベルク(BIS総裁職は中央銀行の世界ではもっとも尊敬される職務であるが、ドイセンベルクは任期3年を2回務め歴代最長である)がディナーのホスト役を務め、大きな卵形テーブルの北側の真中に座った。ドイセンベルクの向かい側は、G10議長の席で、ドイツの中央銀行総裁ハンス・ティートマイヤーが座った。グリーンスパンはドイセンベルクの横である。

当夜のテーマを発表するのは、イングランド銀行の総裁エディ・ジョージであった。ジョージは咳払いをしたあと、

「欧州経済通貨同盟(EMU)に関して議論するよう提案します」と語った。

欧州の単一通貨移行に向けての議論のために、この日、世界の中央銀行家が集まったのである。イングランド銀行総裁のジョージは、不参加を決定している国の中央銀行総裁である。ジョージは次のようにも語っている。

「失業問題は悪化の一途をたどるだけだ。そのような状況下で単一通貨を導入するのは危険な試みといわざるを得ない」

ECBは欧州で最大の権力を誇る機関となる。金利を設定する権限を有し、それに伴ない何兆ドルという資金を動かして景気を加速あるいは減速させる力をもつことになる。FRBを除けば、いかなる機関よりも、世界中の人びとの命運に直接的なインパクトを与える力をもつことになるのである。

欧州委員会とは異なり、各国政府の拒否権に遭わずにすむECBは、たんなる操り人形的な機関ではなく、きわめて独立的で、独自に目標を設定し、そして誰に対する説明責任もないのである。まさに超国家機関であり、権力そのものである。ECB政策メンバーが欧州金融界の主役となるはずである。

ジョージに続いてディナーのホスト役であるオランダ中央銀行総裁ウィム・ドイセンベルクが発言した。

「これについてはまだ誰とも相談していないが、2年間延期するのが賢明だと思っている。どうかな?」



他の欧州人は仰天した。ドイセンベルクはECB総裁の最有力候補で、その張本人がプロジェクトに冷水を浴びせようというのだ。さらに悪いことに、米国・日本・カナダ・スイスという“部外者”がこの欧州内部の自信喪失劇を見物しているのである。

イタリア銀行のアントニオ・ファッツィオ総裁は延期案に賛意を表明した。
欧州随一の影響力をもつ中央銀行家であるドイツ中央銀行総裁ハンス・ティートマイヤーは発言を考えていた(悩んでいた)が、ちょうどそのとき、フランス中央銀行総裁ジャン=クロード・トリシェの激しい反論で解消された。トリシェは延期はとんでもない考えだと言ってEMU擁護論を展開したのである。

「延期は条約の精神にも文面にも反する」

トリシェは、フランス大蔵省の国庫局長として、ドイツのコール、フランスのミッテラン、イタリアのジウリオ・アンドレオッティが、EMUの期限を2000年以前に設定することに合意したのを目撃していた人物である。そのときから、トリシェはコールとミッテランが共有する「ビジョン」に仕える“聖職者”となっていた。

トリシェを支持したのは、ベルギー中央銀行総裁アルフォン・ヴェルプラエと欧州通貨機構(EMI)総裁ラムファルシーという2人のベルギー人であった。ラムファルシーはEMIのトップとして過去4年間にわたり単一通貨の準備に全精力を傾けてきた人物で、「延期はたいへんな信認の失墜になる」と述べた。

バーゼルにおけるこの日の議論は、大きな意見の相違が存在することを示しただけで、問題の解決には繋がらなかった。BIS総支配人のクロケットは、EMU計画も終焉段階にあるのかと意気消沈しながら夕食会を後にした。

ニューヨーク連銀のマクドナーは、「われわれにできるのは、関心をもちつつも沈黙していることがせいぜいだと感じたよ。あれは欧州内部の議論だったからね」と語った。


翌月の3月3日、フランクフルトで授賞式が行なわれた「バンカー・オブ・ザ・イヤー」で、ティートマイヤー、ドイセンベルク、ラムファルシーの3人は、延期に対して公然と強く反対した。これによって問題は解決されたのである。

ティートマイヤーは「EMU延期に関する市場の懸念や噂はまったく馬鹿げており、私には理解できない」と語った。

ラムファルシーは「延期の噂は根も葉もない」と主張した。

ドイセンベルクは「懸念や噂は現実とは何の関係もない。EMUは1999年1月1日に発足する」、「マーストリヒト条約が批准されてから、単一通貨の誕生は確実なものになった。繰り返すが、確実なものになったのである」と語った。

この年の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」は、ドイセンベルクが受賞した。

1年以上経ってからのインタビューで、ドイセンベルクは1997年2月のバーゼルでの出来事はあまりよく覚えていないと語り、計画延期を提案したことを否定した。


ドイセンベルクはECB初代総裁となり、1999年1月に参加国(オーストリア、ベルギー、フィンランド、フランス、ドイツ、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル、スペイン)における単一通貨の円滑な導入を指揮した。


ドイセンベルクは「中央銀行は外部の影響からは独立性を維持すべし」という信念をもっていたと伝えられている。

ドイセンベルクは1935年7月9日、オランダのフリースラント西端にある人口4万人のへーレンヴェンという町で、地元の水道事業を管理する父親の息子として生まれた。

10代のときドイセンベルクは夏休みにタバコ工場・コーヒー工場のラインで働いた。ブタの食肉工場で働いたこともあり、自転車工場でも働いた。19歳のときグラマー・スクールを卒業し、フローニンゲン大学で経済学の勉強をはじめた。26歳のとき国際経済関係論専攻で経済学の学位を修得、4年後には博士号を授与される。関係ないが、彼は193センチもの長身である。

博士号を取得したあと、ワシントンにあるIMFに応募し、欧州デスクに採用される。彼はIMFで34歳まで4年間勤務した。IMFを去ってからは、アムステルダムにあるオランダ銀行(中央銀行)に採用されて、理事会のアドバイザーとなる。1年の任期終了後、顧問職を去り、アムステルダム大学の教授になり、3年間マクロ経済学を講じた。

その後、社会民主党の党員となったドイセンベルクは、わずか3年後に経済学教授から大蔵大臣へと大躍進を遂げるのである。



※ 続きます。続きは以下。

「ウィム・ドイセンベルク──その2」







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最終更新日  2005年09月10日 07時17分45秒
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