6408106 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

─ 灼熱 ─

PR

2005年09月19日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類


これは「ゴールドマン・サックス(1)」から続いていますので(1)からお読み下さい。



シドニー・ワインバーグはまぎれもなく近代ゴールドマン・サックスの父である。1930年から他界する1969年まで会長として君臨し続け、大恐慌の後始末をこなし、同社を全米に知られる存在とし、揺るぎない名声を打ち立てたからである。


「ワインバーグは、一流の投資銀行、ゴールドマン・サックスのシニア・パートナーである。と同時に、他に例を見ないほど多数の大手企業の社外取締役を務め、さまざまな財界人のアドバイザーであり、彼の言葉には大統領も熱心に耳を傾ける。ウォール街の外ではその名前はあまり知られていないが、彼は全米でも有数の影響力を持つ男である」(1956年のニューヨーカー誌)

シドニー・ワインバーグは、酒の卸業を営む移民、ピンカス・ワインバーグの11人の子供の3番目に生まれた。1891年に生まれ、ブルックリンで育ち、公立第13小学校で教育を受け、中学を2年で中退した。これが彼の最終学歴である。

1907年、安定した職を求めて、彼はニューヨークで1番背の高いビル、25階建てのビルに行き、2階にあったゴールドマン・サックスのオフィスにやってきた。同社の総務部長は、掃除人の手助けとして週3ドルの給料で彼を雇い入れた。痰壷を洗い、パートナーのハットにブラシをかけ、パートナーのシューズの泥をふき取ることが彼の仕事になったのである。

第一次大戦のころのワインバーグは、ゴールドマン・サックスを離れて海軍に入り、料理人となってヘンリー・ゴールドマンの船に乗り込んだ。後に海軍諜報部に異動している。戦争が終わると、既にゴールドマン・サックスを離れていたヘンリー・ゴールドマンに仕事はないかと尋ね何か手伝いたいことを伝えた。するとヘンリーは、ゴールドマン・サックスに戻る方がよいとワインバーグを諭し、ワインバーグはそれに従った。

1920年にはヘレン・リヴィングストンと結婚し、その後2人の息子が生まれた。2人の息子は、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっている。1927年、ワインバーグは35歳でゴールドマン・サックスのパートナーとなった。入社後20年のことである。

キャッチングスが去った後、ゴールドマン・サックスの資本の殆どがサックス家によるものとなっていた。サックス一族はキャッチングスの後任にワインバーグを選んだ。サックス家は、後に「20世紀最大の投資銀行家」となる人物が目の前にいることに気づいていたのであろうか。

ウォルター・サックスは、「この会社は3人の天才を輩出した。ヘンリー・ゴールドマン、ワディル・キャッチングス、そしてシドニー・ワインバーグだ。その中で、水火も辞さず、試練に耐える男はシドニー・ワインバーグただ1人だった」と述べている。

1934年4月、ゴールドマン・サックスの共同創業者であるサム・サックスが世を去った。

ワインバーグはフォードなど30社以上の会社の取締役を務め、彼は1年間に平均250の役員会や委員会に出席した。ワインバーグはまさに「役員の中の役員」であり、「ミスター・ウォール街」であった。彼が役員を務めた会社のすべてがゴールドマン・サックスの顧客だった、或いは後に顧客となった。

ワインバーグは1932年と36年の大統領選挙でルーズヴェルトを支持し、大統領は彼を非公式の顧問として頻繁にアドバイスを求めたと言われている(第二次大戦と朝鮮戦争の期間には、戦時生産委員会の副会長として、ルーズヴェルト、トルーマン、アイゼンハワー各大統領に仕えている)。ルーズヴェルトはワインバーグにソ連大使になってくれないかと打診したことがあったが、ロシア語を話せないことを理由に断ったらしい。

トルーマン政権下では、司法省が当時の上位17銀行を反トラスト法違反で訴えたが、ゴールドマン・サックスのシェアは1.4%で12位だった。当時の上位は、現在の最大のライバルであろうモルガン・スタンレーがトップで16%を占め、ファースト・ボストンが13%であった。ディロン・リードとクーン・ローブ商会もトップグループの一員で、注目を集める企業買収の案件のすべてに加わっていた。

1947年1月、ワインバーグはヘンリー・フォード二世と出会い、その後の関係からワインバーグはフォード家のアドバイザーとなっていた。フォード・モーターはアメリカ最大の会社ではあったが、フォード家とフォード財団が株式を支配しており非公開企業である。フォード社の株式上場に向けてワインバーグはフォード家と秘密裡に話を進めていたのである。最終的にフォードは6億5千万ドルの株式上場を行なうことに決定したが、その規模は当時史上最大の株式公開であり、ゼネラル・モーターズを顧客とするモルガン・スタンレーを除き、殆どすべての投資銀行が引受団に招かれ、その数は722社にものぼったのである。

後にパートナーとなるジョン・ホワイトヘッドは、「株式公開、私募債発行など、シドニー・ワインバーグ以外に投資銀行の仕事を取れる人間は誰もいなかったんじゃないかな。彼には世の中に知らない人がいないみたいに思えた。アメリカで1番知られた経済人だったし。投資銀行を使いたいと思えば、誰もがシドニー・ワインバーグに面会を申し入れてきた。彼はほとんど出張しなかった。なにしろ、みんな、向こうから会いにやってくるんだから」と語っている。

ゴールドマン・サックスは、ワインバーグこの男1人がもたらした無形の遺産の恩恵に、その後数十年と浴してきている。ワインバーグはまぎれもなく「ミスター・ゴールドマン・サックス」であろう。彼に匹敵するほどの同社に貢献する者は、この先も現われないだろうと伝えられている。1969年7月23日に彼が死去したとき、彼の死亡記事はニューヨーク・タイムズ紙の1面に掲載された。その横には、アームストロング、オールドリン、コリンズら飛行士が、月から生還した記事があった。


1969年、ワインバーグの後を継いでシニア・パートナーとなるのは、グスタフ・リーマン・レビー通称ガス・レビーであることは明らかだったという。ガス・レビーはワインバーグに続く稼ぎ頭だったからである。レビーをシニア・パートナーに任命すると同時に、ワインバーグは6人からなる経営委員会を設立し、年長のパートナーで固めた。彼らの仕事はレビーを監視し牽制することだった。

レビーについては簡単に。レビーは1910年にニューオリンズに生まれた。父シグムンド・レビーは木製の籠を作って生計を立て、妻べラとの間に3人の子供を持った。父が亡くなると、16歳のレビーと2人の姉妹は母に連れられパリに移った。レビーは教室よりも競馬場で過ごす時間の方が長く、アメリカに戻ってトゥレーン大学に入学しても熱心に競馬に賭け、父の生命保険金を使い果たし、わずか3ヶ月で大学を辞めたという。18歳でニューヨークに移り、1933年に週給27.5ドルでゴールドマン・サックスに雇われ、部員が1人しかいなかった外国債券部に配属された。彼は裕福な家庭の子女ジャネット・ウルフと結婚した。息子ピーターは、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっている。レビーは真珠湾攻撃の直後に陸軍航空隊の地上勤務の士官となり、中佐で退役した。1945年ゴールドマン・サックスに戻り、翌年にはパートナーに選出されている。ちなみに、レビーはユダヤ人コミュニティのリーダーである。

1976年10月、ニューヨーク州およびニュージャージー州港湾局の会議の議長を務めているときに、レビーは脳卒中に襲われて倒れ昏睡状態に陥り、2度と意識を取り戻すことはなかった。ゴールドマン・サックスは、ワインバーグに続いてガス・レビーという指導者を失った。このときレビーの右腕になっていたのは、シドニーの息子ジョン・ワインバーグであった。

レビーの後継者は2人である。「2人のジョン」と知られたジョン・ホワイトヘッドとジョン・ワインバーグである。2人ともハーバード・ビジネススクールを卒業すると同時にゴールドマン・サックスに入社したが、入社はホワイトヘッドの方が3年早い。

ホワイトへッドは、ニュージャージー州モンクレアで育ち、第二次大戦中は海軍に所属してノルマンディ、硫黄島、沖縄で戦った。ゴールドマン・サックスで38年間過ごした後、ホワイトヘッドはレーガン政権入りし、その後はニューヨーク連邦準備銀行総裁も務めている。ホワイトヘッドがパートナーに選ばれたのは1956年である。

シドニー・ワインバーグの息子であるジョン・ワインバーグは、ホワイトへッドと学校こそ同じ出身であったが、彼は特権階級にあり育った世界はまったく違っていた。彼は生まれたときから会社とともに育ったも同然であった。ワインバーグは、まぎれもなくアメリカの金融ファミリーの首領であり、彼の父シドニーは、JPモルガン、モルガン・スタンレー、ファースト・ボストン・・いずれの銀行の会長も、さらに大統領さえも個人的な友人である。ジョンは海兵隊に所属し、第二次大戦と朝鮮戦争のときに大尉として従軍している。

ホワイトヘッドとワインバーグは、入社した最初の日から向かい合わせの机に座っていた。1976年にレビーが永眠したとき、2人のジョンは既に25年間も一緒に働いていた。2人がゴールドマン・サックスのパートナーになったのも1956年で一緒であり、2人は同じようにキャリアを積んでいった。同じ給料、同じ割合の資本比率、同じ肩書き。レビーの死後、2人の資本の持ち分が最も大きくなっていたことからも、彼らが後継者になることは明らかだった。問題は、どちらを選ぶかである。

ホワイトヘッドの方が年長であり経験が長く、証券業協会の会長を務め、最重要顧客のフォードを担当していた。ワインバーグは会社の象徴的な存在であり、彼の父シドニーはゴールドマン家とサックス家の両方と働き、同社を育ててきた人物である。



(3)に続きます。

ゴールドマン・サックス(3)
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200509190002/








最終更新日  2005年09月19日 00時20分01秒
コメント(0) | コメントを書く


カレンダー

コメント新着

かめさん7699@ Re:天皇家の資産や収入について(08/23) 1つ意見と1つお願いです。天皇は自分が…
たつまき2998@ Re[1]:坂本龍馬はフリーメーソンに操られていた(11/07) ブラックホールから出たガス雲で 2014年中…
DAGA8307@ ブログ足跡つけます。 こんばんわ、HEAT1836さん、楽しい記事あ…
meilyohh@ 島田紳助 芸能界引退…暴力団との親密交際発覚 原因動画 島田紳助 芸能界引退…暴力団との親密交際…

お気に入りブログ

『ブログ』 alex99さん

アフィリエイト成果… 楽天ブログスタッフさん

現代版攘夷論 アンレッドさん
ガードマンのつづる… 杉山巡さん
アメリカ奮闘記 System of a Downさん
銀河鉄道の夜へ hirotsubasaさん

キーワードサーチ

▼キーワード検索

日記/記事の投稿


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.