カテゴリ:株式
クロニクル 山一特融
1965(昭和40)年5月28日 この日、田中角栄蔵相は深夜になって突然の 緊急記者会見を開き、証券緊急対策として、 倒産の危機が噂されていた山一証券の危機が 現実であることを認めた上で、同社に対して 日本銀行が無制限、無期限の特別融資を行う ことを決定したと発表しました。 世にいう山一救済劇、日銀特融の幕は、こうして あがったのでした。 1960(昭和35)年の池田内閣の所得倍増政策の 発表で、株式市場は活況を呈し、この年初めて 日経ダウ平均は1000円を突破、大納会には、 1356円の高値まで、年間で60%を越える上昇を 記録し、翌61(昭和36)年7月に1829円で天井を 打ちます。その後は急反落で1258円まで、33%の 下落を経験、その後は高値1600円、安値1200円の 往来相場に終始するのですが、64年10月の東京 オリンピックの開幕が近づくと、オリンピック 需要の息切れから、急激に不況感が強まり、 強気の経営拡大路線を走り、無理な投信販売と 運用の失敗から、山一証券の株価や設定投信の 基準価格が暴落、65年に入ると、山一危機が 噂されるようになりました。 田中蔵相の思いきった措置が効いたのか、証券 市場の株価は、1ヶ月半後の7月12日の安値 1020円(本当に1000円スレスレまで下げました) を底に反転し、赤字国債の発行解禁が国会で承認 される秋以降、大きく値を戻し1400円台を回復 するまでになりました 山一証券も日銀特融で生きかえり、やがて特融は 利子付きで返済されるのです。 この時は息を吹き返した山一証券でしたが、バブル 時に再び無茶苦茶な拡大路線を繰り返した結果、 バブルの崩壊と共に、再び大きな傷を負い、今度は 救世主も呼び込むことが出来ず、1997(平成9)年の 11月に、遂に自主廃業に至るのです。再建後僅か 30年足らずでの,野垂れ死にでした。過去の教訓に 学ぶことも出来なかった山一の倒産、やはり経営陣に 人材がなかったということなのでしょう。私は 大変冷ややかに受けとめたことを、覚えています。
最終更新日
2007.05.28 02:08:34
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