言葉は魔力となって伝播する!
言葉には魔力があり、人の心を癒すことも、挫かせることもいともたやすく行ってしまう。 時には誰しもその場の感情に任せて,無分別な言葉を発してしまうような事態に直面することがある。 しかし、言い終わってから「シマッタ!」では後の祭りなのだ。 「口は災いの元」と言われる所以もそこにあるのだが、言葉を発する際にはその言葉の意味をよく吟味し、公私違わず慎重に用いることが重要なのだ。「そんなことは分かっている!」という声が聞こえてきそうだが、言わずもがな、「理性と感情の動物」である人間は時として判断力を欠き、それらの平行バランスを失ってしまうことが少なくない。 会社での一例を上げてみよう。 白熱した会議の場で発言を求められた一社員が場の空気を和ませようとして、上司に対してウィットのつもりで「猿も木から落ちる」や「弘法も筆の誤り」という言葉を発してしまった。 上司の性格にもよるだろうが、「不敬な輩!」「無礼千万な奴だ!」ということになり、発言した社員はその後の人事考課に重大な影響をもたらすことになりかねないのである。 状況次第では「降格人事」や「左遷」の憂き目にあってしまいかねないところだったのだ。 一般社員どうしの会話ならともかく、「上から目線の上司や先輩」を前にして発してしまったから後の始末が大変だったのである。 本人が「的を射たつもり」で使った言葉が、結果、災いをもたらしてしまったのだ。(実際小生がサラリーマン時代に務めていた会社で、上記のような事例に遭遇したことがあった。) 何も会社ばかりではない。 「家族間のコミュニケーション」においてもしかり。 ちょっとした言葉の「あや」で気まずくなることが儘ある。 そのような場合でも「親しき中にも礼儀あり」で、無礼な振る舞いなどはせず、グットこらえて慎むべきなのだ。 人の発する言葉にはその人物の「品格・人格」が如実に反映されてしまうから怖い。 ましてやその人物が雲上の人ともなれば、言霊はさらにその重みを増して人々の上にのしかかってくるであろう。 いつでも、どこでも、「人格者」と称せられる人たちは、己の発する言葉に重い責任を持たなければならない。 我われも言葉を発する際には、心して慎重に使う習慣を心がけたいものである。