㈱FPコンサルツ広場 FPの幸せ探検隊

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敗者復活戦

2020.07.09
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カテゴリ:敗者復活戦

昭和50年代の東京晴海ふ頭の海水は茶色く濁り1メートル下さえも見えなかった。

遠洋航海の前に呉市から東京まで来たのは海上保安庁の観閲式に参加するためだ。

全国から各型式の巡視船や航空機が集められ披露される。

関越船には国土交通大臣と抽選で選ばれた一般人が乗り込み観閲船が沈むのではと思うくらい前後部のデッキやブリッジの周辺に500人ぐらい乗り込んでいただろうか、海保大の練習船こじまが遠洋航海に出発するときは最後尾につき真名に見送られてアメリカ西海岸へと旅立つ。遠洋航海の寄港地はまずオアフ島のホノルル(ここで給油)経由でシアトルかサンフランシスコ、またサンディエゴのどこかに向かう。(現在は練習船が大きくなったため世界一周)

僕個人的にはサンディエゴに行ってみたかった(理由は米国海軍の士官養成校 Naval Academy)がサンディエゴ近郊のアナポリスにありそこの見学があるからだ。

毎年行われる海保大の遠洋航海は初級士官としての最高の舞台であり士官としてのプライドをくすぐられる一大イベントだ。

25期生の寄港地はシアトルと決まった。

今でこそシアトルはマイクロソフトやスターバックスの発祥の地として有名だが当時はこれらの会社はちょうど産声を上げたころだっただろうか。

海保大卒業生の遠洋航海で我々は米国の国賓として扱われる、うそのようだがそのためパスポートも必要ない。

通常5月の終わりごろに出発するのだが東京を出港したとたん大きな台風に見舞われた、しかもその勢いはすさまじく当時は千トン程度しかなかった練習船は片玄30度、ピッチング10メートルという遊園地のアトラクション並みの動揺に見舞われ三日三晩これが続いた、当然何も口に入らないし食べる気もおこらない、さすがの乗組員(学生上がりと違って毎年渡航しているつわもの)の主計課(コックさん)の職員も料理が作れないのでおかゆをバケツに入れて食べれるものなら食べてくれと学生教室の入り口に2缶ほど置かれていた。

僕はそれを見てますます気が失せて自室に帰り食パンをちぎりリンゴと一緒に口に流し込んだ。

台風が過ぎると太平洋はうそのようにないで青インクをこぼしたような青色の水面が延々と続いた。(ああ、これがNavy Blueなんだ)

やっとご飯が食えるようになったところで唯一の洋上訓練である防火訓練が始まった。

僕は何故か総合指揮官に任命され後部デッキの前にある高いところから拡声器を持って拡販に指示を出すことになる。

さて、訓練の内容だが最初と最後は決まっていてどこかから出火して最後は総員退船で救命ボートを下ろして船をあきらめることになる。

昨年の訓練の様子を聞くため教官のところへ行き教え欲しいと頼んだら「君が作り給え」と言われた。

実は、僕はこういう創作的な事は好きだし得意なのだ。

さすがに船長室から出火させるわけにはいかないので無難なところで後部甲板の真下にある学生教室兼食堂から出火させることにした。

3班に分かれており、航海科、機関工学科、通信工学科の班長にタイムスケジュールを配ってこの通りにやってくれと頼んだ。

訓練の内容を大まかにいうとこうだ。

学生教室から出火すれば当然その真上にある後部甲板は熱くなる。

後部甲板が船の中では一番広い場所でここが使えないと初夏活動ができないので第一班は海水ポンプで海水をくみ上げ後部甲板に流し作業領域を確保せよ。

第二班には後部甲板を使ってげん窓を突き破り消化ホースを突っ込み消火活動をさせた(船は一区画が水没しても沈むことはない)

そして、第三班は総員退船もあり得るので救命ボートの位置で待機させいつでも下せるように用意させた。

こうして、2時間の訓練は無事終わり船長からお褒めの言葉をいただいた。(卒業生が訓練内容を作ったのは初めてだったようだった)







Last updated  2020.07.09 15:17:23
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2020.06.13
カテゴリ:敗者復活戦
北朝鮮の拉致問題、竹島問題、尖閣諸島問題、外務省は何一つ解決してはいない。
海上保安庁には竹島の領海に入るなと通達を出しているが国民には竹島は我が国の領土とうそぶいている。
ある時、海保大の1期先輩の巡視船のY船長が竹島の領海に侵入したとき大問題になった。
 船長を補佐する業務監理官は同期のN監理官でこの事実について第八管区本部長にこの二人は呼ばれた。
そして、きつく叱咤されお前らの将来はないとまで言ったとか。
 こういった問題は外務省はきまってこういう言葉を使う「この問題は高度な外交手段を使って解決する問題だから海上保安庁は相手を刺激しないように」
 高度な外交手段を使って解決=何もしない
つまり外務省は何もしないのだ、そんな官庁に国民は大事な血税を支払っている。
いまだかつて外務省が日本国民に有益な政治を行ったことはない。
 尖閣諸島問題も同じこと、中国を刺激するので海上保安庁は中国海警が尖閣の寮かに入ってきても威嚇の射撃も出来ないし、まして拿捕も出来ない。せいぜい中国漁船に放水銃を放つぐらい、海警にはそれさえしない。
 中国はころを良いことに領海に入り放題、挙句の果てには尖閣で漁を行っている日本漁船を追いかけまわす始末だ。
 日本をだめにしているのは外務省なのだ、日本の主権はなくなりつつある。
いつかこういうことを海上保安大のブログに書いたら外務省は文句を言ってきた。
まったく役に立たない官庁である。






Last updated  2020.06.13 19:53:09
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2020.06.11
カテゴリ:敗者復活戦

新聞にはのってないが

海上保安大の学生のころ1年から4年は国家公務員 8等級3号俸、月額にして約8万円ぐらいだったと思う。

ボーナスは期末勤勉手当という呼び方で支給された冬は確か2.5か月分ぐらいあったので24万円ほど支給されたと思う。

全寮制だから食費や衣服、光熱費、風呂代は無料、友いつお金を出したのが散髪代や下着や靴下のお金。ためる奴は貯めたが僕は使い切っていた。

あいにく大学は呉市の中心から離れていたため街に出るにも寮に帰るにもタクシーだった。

冬のボーナスが支給された次の日量全体が大騒ぎになった。

このころの給与は現金手渡し学生は不用意にも自分の机の引き出しの中に入れていた支給袋を抱いて寝るものなどもちろんなかった。

泥棒が入ったのだ。

ボーナスが亡くなったもの続出、しかしそれは内部的犯行だった。

もちろん警察が入り犯人は捕まったが絶対に新聞に載ることはなかった。

公権力がそれを許さなかったのだ、もう45年も前の話で現代では絶対に許されないことだ






Last updated  2020.06.11 18:52:30
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2020.06.10
カテゴリ:敗者復活戦

後悔

これは自慢になっていまうが僕は海保大の同期の中でも一目置かれていた刑法が大好きで京都大学の伊藤客員教授唯一合格点を取ったし、学校長が寮生は就寝時間後に自室で酒を飲むからと言って4つの寮のカーテンを撤収してしまった次の日、これはいくら校長の権限でも憲法が保障するプラバシーの侵害に該当すると校長を論破し、翌日には教官が再びカーテンを付けて回った。本来は4年生がやることだ、だが誰も校長に逆らわないので2年生の僕がやらざるを得なかった。

そういうところを学生課が認めたのか本来4年生しか部屋長になれないのに僕は3年生で部屋長になった。

学園祭のポスターをつくりその出来が良かったのかダンスパーティーは人が入りきらなかった、全国カッターボート競技会のポスターの依頼も来た。(今までの実績から呉製販に発注するところを現在の

M教授の頼みでいい加減な業者に頼んだためせっかく僕が徹夜で描いたラフが使えず台無しになったが、これはカッター部の連中には悪いことをしたし自分も悔しくて顔を上げられなかった)

卒業し三等海上保安正に任官し遠洋航海でシアトルへ練習船こじまで向かった時の洋上訓練でも総合指揮官に任命され49人を拡声器で指揮し、しかもその訓練内容も教官から君が作れと依頼され船長には公表で大変褒められた、公務員の世界は失敗するものに絶対に依頼はしない。

そこまで期待されていたのに遠洋航海から帰りさっさと辞めてしまったのだ。

後悔していなと言ったらうそになる。

その訓練要員の中から将来の長官が生まれたのだがもしもだ、もしも僕が長官になっていたら尖閣列島に海上保安署を作っていたし領海に侵入する中国海警には発砲して領海外へ追い出させた。

いくら外務省が口をはさんでもこれは海上保安庁の責務なのだ。

国民が期待する海上保安庁の専任権限なのだ。

中国との関係が悪くなる?そんなことは知ったことではない領海に勝手に入ってきたうえに日本の漁船を追い回しここは中国の領海だとうそぶく現在のような情けない状況にはしていなかった。

まあ、あくまでもしもの話なのだが。

同期の中から長官、第二管区、第三管区(東京湾含む)、第四管区、第11管区のそれぞれの本部長が生まれ三管本部のH君は奄美大島に領海侵犯してサンゴ礁を勝手に捕獲する中国漁船に対しSST(対テロ組織班)を使い2隻を拿捕。中国政府に抗議したら自分たちは知りませんでした。

厳重に処罰しておきますだとさ(よく言うよ)本当は知っていたくせに。

それぐらいやって当たり前なのだ。







Last updated  2020.06.10 19:04:27
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2020.04.23
カテゴリ:敗者復活戦
私小説「敗者復活戦」はまだ書きかけです。途中で挫折しそうになりますが頑張って書いてみます。
よろしくお願いします。
また、フェイスブックをしています、友達になってやってください。ブログを見たと書いていただければ助かります。
中林俊彦






Last updated  2020.04.23 21:28:20
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2020.03.28
カテゴリ:敗者復活戦

絵を描く才能は母親の性格で養われる

僕の母親は厳しかった、いや、厳しいというより自分のことしか考えていないため子供でさえ否定するのだ。

だから僕は母親から褒められた記憶がない。

中学2年の後半から猛勉強し学校の成績は良かった、英語、数学、理科では3年生になった時点で5段階評価は5以外取ったことがない。

なのに、一切ほめてはくれないのだ、だいたい男の子は母親におだて褒められながら才能を伸ばしていくものだ。

そんな環境だったからいつも母親の顔色ばかり見て育った。

おまけに父親は母親に頭が上がらなかったため家庭内に味方はいなかった。

人の顔色を気にする性格というものは自然に観察眼が養われる。

観察眼が養われると風景や動物、植物などの特徴を一目でつかむことができるようになる。

ヤフオクで油絵の額を買ったつもりが水彩画の額でキャンバスが入らない。

苦肉の策で考えたのが裏蓋に直接絵を描くことだった。そうしてこのタイタニック号の油絵は完成した。


レオナルド・ダ・ビンチ(ビンチ村のレオナルド)が彼の趣向の中でおびただしいほどの銅直物のスケッチを描いていたのは有名な話だがあれでかなりの観察眼が養われた。

あれほどの著名な画家がたった14点しか作品を残していないというのは有名な話で自分が生涯大切に持っていたという絵がモナ・リザだった。

最近の研究でダビンチの作品のレントゲン写真を撮ってみると映像が消えるという話がある、一切の筆の跡、絵の具の厚いところと薄いところの差がないので絵が消えてしまうのだ。

これは、絵の具を油で薄めて少しずつ色を変えながら何回も上塗りしたというのが答えであの肌の透明感はこうして作られた。だから仕事は遅く未完成品も多い。







Last updated  2020.03.28 18:52:35
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2019.12.18
カテゴリ:敗者復活戦

あれは何で喧嘩したんだか理由はもう忘れた。

妻は社員旅行へ出かけ僕は僕でバイクを駈って尾道までツーリングしていた。

尾道の東横インの玄関の横にバイクを止めて夜の尾道の街で一杯やろうとフロントでどこらへんで飲めますかと尋ねると「しんがい?」というところでお店をしているということでタクシーを捕まえ出かけてみたけどどの店も閉まっていた。考えてみたら今日は日曜日じゃないか、小さな町では日曜日は夜のお店は閉まっている。フロントもちょっと気を利かせろと思った。

だけど、本当はいい気持ちで飲める心境ではなかった、妻とは別れる別れないというシリアスな喧嘩の最中だったのだ。

妻にも夜の街にも嫌われた僕は歩いてホテルに戻ることにした。

しばらく歩いたところで商店街のアーケードが見えそこは少し明るかったのでそこを抜けてみようと思った、少し大回りでも見知らぬ街は散策しても飽きない。

アーケードに入ると商店街のはからいか、誰かが趣味で流しているのかフランス語のJAZZが流れていた。

アメリカのジャズではなくフランス語のジャズは楽器の技巧に凝ってるわけでもなく黒人特有の高音で歌いこむでもなくただたんたんと女性ボーカルが流すように歌いそれを追いかけるようにリズムが刻まれる主役は女性のボーカルでとても心にした。

アーケードを出るころには僕は完全に回りにはばかることもなく涙目になっていて(猫の子一匹いないので回りにはばかる必要もなかったのだが)妻が恋しくてたまらなかった。

アーケードを抜けると左手は海でオレンジ色の街灯が小さな波を照らしキラキラと輝いていた。

喧嘩の原因の大半は僕が悪いので電話していいのか躊躇していた。

さっきのフランスのジャズがあまり心にしみ恋しさ百倍、結果はどうであれ勇気を振り絞って電話してみた。

「さみしいよ」

それに対する妻の返事は「私もさみしいわ」だった。

後でそのフランスのジャズを散々探してみたがとうとうわからなかった。

 

 

 

 

 







Last updated  2019.12.18 00:24:15
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2019.11.25
カテゴリ:敗者復活戦

ラグビーのにわかファンになった私はクリントイーストウッドが監督した「インビクタス」という映画を観ました。

そしてとても感動しました。

それまでの私は、いや、ここ数年の私はなにか障害があるとできないことをそのせいにして自分の魂を殺してきたのです。

 ネルソンマンデラは南アフリカ共和国の大統領でしたがその1年前まで27年間も獄中にとらわれていました。

そして、釈放されるとアパルトヘイトを廃止し国民を一つにまとめたのです。

 その時重要な役割を果たしたのがラグビーでした。

それまでの弱小チームの精神を国を代表する誇りある魂の持ち主たちであると自覚させ決して負けない精神を植え付けました。

 そして、釈放された1年後に南アフリカで開催されたラグビーのワールドカップで南アフリカチームを優勝に導いたのです。

マンデラの心に残る言葉があります。

 「わが誇り高き魂の支配者、そしてその指揮官であるのは自分自身であることを神に感謝する」という言葉です。

27年間の獄中生活は想像することさえできないほどつらいものだったはずです、その長い生活を支えてきたものはあの言葉だったに違いありません。

何かあるとすぐにくじけてしまう自分と比較するとまるで神のようです。

 しかし、それは心の持ち方次第であり同じ人間ですかから自分にできないはずがありません。

出来ないと思った時点で同じようにできないのです。

 この映画で多くのことを学びました。

ただ前を向いて出来る限りのことを実行すること、そして、少々の失敗でくじけないことなぜならその先に必ず自分の理想に近づけるはずだからです。







Last updated  2019.11.25 02:39:35
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2019.09.16
カテゴリ:敗者復活戦

琵琶湖が好きだった

最初の就職で中堅広告代理店の大津営業所に配属になったことは既に書いたと思う。

大津営業所は琵琶湖な南岸、におの浜というところにあった。

仕事帰りにはガラス越しに湖が見えるCASAという喫茶店に寄るのが常だったCASAってイタリア語でお家だよね。

ここへ来ると髪の長いちょっときれいなお姉さんたちがおしゃべりしていたなぁ。

におの浜は湖岸にオレンジの街灯が立ち並び夕暮れ時には夕日のオレンジと水色の湖のグラディエーションがとても映えた。

大津市は京都も近く京阪電鉄の浜大津駅から20分ほどで三条河原町まですぐだ、僕は京都という町が大好きで休日になると河原町あたりをぶらぶら歩いた。

京都音響というプロダクションも担当していたので頻繁に通った。

そうそう、友達が故郷から大勢遊びに来た時京都音響のもう名前は忘れたが所長がスティクスのコンサートに招待してくれたっけ。

あれで僕の株も少し上がった。

京阪電鉄の浜大津から三条河原町まで途中下車してみたこともあった。

山科駅、この町も雰囲気があった。

京都は昔の都、東京とは違って伝統を重んじる格調高い都だった。







Last updated  2019.09.16 16:37:18
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カテゴリ:敗者復活戦

琵琶湖が好きだった

最初の就職で中堅広告代理店の大津営業所に配属になったことは既に書いたと思う。

大津営業所は琵琶湖な南岸、におの浜というところにあった。

仕事帰りにはガラス越しに湖が見えるCASAという喫茶店に寄るのが常だったCASAってイタリア語でお家だよね。

ここへ来ると髪の長いちょっときれいなお姉さんたちがおしゃべりしていたなぁ。

におの浜は湖岸にオレンジの街灯が立ち並び夕暮れ時には夕日のオレンジと水色の湖のグラディエーションがとても映えた。

大津市は京都も近く京阪電鉄の浜大津駅から20分ほどで三条河原町まですぐだ、僕は京都という町が大好きで休日になると河原町あたりをぶらぶら歩いた。

京都音響というプロダクションも担当していたので頻繁に通った。

そうそう、友達が故郷から大勢遊びに来た時京都音響のもう名前は忘れたが所長がスティクスのコンサートに招待してくれたっけ。

あれで僕の株も少し上がった。

京阪電鉄の浜大津から三条河原町まで途中下車してみたこともあった。

山科駅、この町も雰囲気があった。

京都は昔の都、東京とは違って伝統を重んじる格調高い都だった。







Last updated  2019.09.16 16:19:12
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