2007/03/29(木)07:26
いかに生きるか
このブログで、キリスト教だとか、宗教だとか、スピリチュアルだとか、いろいろなテーマで書いているが、それらは元をたどれば、
「自分となにか」
「自分はどこから来て、どこへ行くのか」
「で、結局、自分はどう生きるか」
という課題への自分なりの取り組みとしてある。
その意味で、「宗教」というのは、この疑問・課題を考えてきた人類の英知の集積のような側面もある。
古代、あるいは近世に至るまで、人類の多くは書籍などからの情報さえなく、人からの話や伝承によってのみ、こういった分野を考えざるを得なかったのが、近代以降、望みさえすれば、昔と比較にならないほどの質と量の「人類の遺産」に出会える。
まったく幸福な時代に生きているものだ。
しかし、これを生かすも生かさぬも個人次第。
昔は芥川賞級の作品でさえ、全国で読んでいたのは数千人しか居なかった時代に比べ、今は何十万人がその手の本を読んでいることか。
求めれば、「情報」としてはあふれている、逆にあふれる情報をいかに取捨選択するか、が問われている、という、全く贅沢な状況に私たちは居るのだろう。
昔、宗教と言えば、たまたま入った宗教が自分の宗教、たまたま生まれた家の宗教が自分の宗教、という時代もあったかもしれないが、今は自分で選ぼうと思えば選べる時代だ。
むろん、「宗教」としてなにも選ばない、というのも一つの選択だ。
でも、「いかに生きるか」。
これを考える上で、人類の古来からの英知の集積を無視する手もないだろう、と思っているのだが。