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2010/08/18(水)06:22

超常体験と才能について

   いわゆる「霊感」などを総称した言い方で「超常能力」というのがある。 つまり「常」ではない能力、ということだ。「常」というのは「普通の人」に置き換えても良いかもしれない。 この類には、超能力といわれるものも含まれる。しかし、霊感と言った場合は、超能力という場合より、多少狭い語義になるのかもしれない。その大分は、普通の人では感じることが出来ないことを感じたり、場合によっては「聞く」ことが出来たりすることを指しているようだ。 自分の周囲には、そういった人がいないこともないが、あまり極端ではなく、多少「感度」が良い、というぐらいだった。 ところが、今回、そういう能力を持つ人を実際に目の当たりにした。 他の人の手を取ると、その人の過去、現在の様子がどうもわかるようなのだ。本人しか知らないはずの過去のことがすらすらと出てきたりする。もちろん、人に話したことなどない、という事柄だから、言われる方はびっくりしてしまう。なぜ、そんなことがわかるのだろう?と。 仏教の中で、悟りを開いて、ある階梯に至ると、こういった「超常能力」を得る事ができる、という考え方もある。それは確かにあるのだろう。 しかし、問題は、そういった「能力」を持つ人が、全部が全部、そういった人間的な修行やらなにやらで後天的に獲得したのではなく、多くが先天的に、つまり生まれた時からその能力をもっている場合が多い、ということだ。 私が見た人もその類で、小さな頃からその手の能力があったらしい。 ただ、子供の頃、非常に敏感で、ある程度能力があっても、歳とともに衰えて大人になるとなくなってしまう人も多いらしい。 こう考えると、この「超常能力」と言われるものも、普通私達が言うところの「才能」みたいなものだと考えたほうがつじつまが合う。 音楽や芸術など、特に感性に関する才能にあっては、子供の頃には秀でたものを持っていたものが、環境によっては歳とともにただの人になってしまう、ということは多い。 この「霊感」と言われる能力にしても、これをもっているから他の人と違う、あるいは一段、人間として上の段階にある、とは言えまい。音楽が子供の頃から出来る子供が人間として優れているのではない、というのと同じだ。 ただ、能力の現れ方が現れ方なので、どうしても「特別」なものと考えてしまいがちだ。 一番始末が悪いのは、本人が「自分は特別だ」と舞い上がってしまうことだが、そうでなくとも、周囲の人が、そんな人を担いでしまう場合もある。そのうちに、本人もその気になってくる、というわけだ。 そんな人が日本にも居る。人間としての「謙虚さ」も持たない人に、どうして、こんな「能力」一つでもって、「神に近い」人間だ、などと思ってしまうのか理解しがたいが、多くの場合、そこに人間の欲得がからんできたりするから、ますます厄介なものになるのだろう。 才能を持つ人は、その才能ゆえに傲慢になってはいけない、これは常識だろう。 その才能を与えられたことに感謝し、その持てる才能に対して謙虚である人こそが、その才能を本当の意味で生かせるし、伸ばすこともできるのではないだろうか。

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