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復活200分の1スケール? 戦艦大和


今から、20年近く前、システム会社の出向から帰ってきた私は
艦艇関係の職場に復帰した。
造船会社だったのだが、船に関する仕事をしたのは、入社して2年間。
それからはコンピュータ関係の仕事をしていた。
船に関する仕事を、より身近に感じるために(積極的に興味がわくように)、私は戦艦大和の200分の1のスケールモデルを購入した。
全長130cm
1万円以上した記憶がある。パーツも多い。
完成後、ラジコン仕様に改良。子供といっしょに川に浮かべては遊んだ。
その後、職場の部長が、同モデルを4年間かけて作成したことを知った。
部長の家に見学に行き、その精密さに感動した。
付属のパーツで納得いかないパーツは、自ら材料をかき集め1から作成していた。
この感動から、私はもう一隻購入することにした。
当時の値段で16000円した。
できるだけ精密に作成していったが、根気が続かず、未完のまま
ほったらかしている。
楽天のショップを観ていたら、同じ物が売ってあった。



yamato

昨年2005年末の大掃除。
それは、妻の箪笥の上にあった。
存在は、認識していた。
いつか、もう一度
そう思いながら月日は経った。
超弩級戦艦 大和 200分の1スケールモデル
綿埃に包まれた大和をゆっくりと畳の上に置いた。
掃除機で優しく綿埃を吸い取り、雑巾で恐る恐る拭いてやった。
小さな部品が離れて落ちた。
2隻目の大和は、箱の中に眠っていた。
箱の上の綿埃を取り除き、上箱を開けてみた。
2隻目の大和は製作途中のそのままの形で眠っていた。
もう、10年以上前になる。
私が大和に夢中になっていたのは・・・・

ラジコン大和

1隻目の大和を買ったのは、職場の部長の家に行って部長が4年間かけて作った大和を見る前だったので
つまり、ディスプレイの素晴らしさを気づくまえだったので、ラジコンに改造して川に持って行って遊んだ。
そのころ、会社ではジョイスティックで操船する装置(ジョイスティック操船装置と言う)の開発を行っていたので
私としては船の動きを模型で確認したいというのが動機だった。
船は後進回頭(後退しながら方向転換する)が一番難しいというのを確認したかったのだ。
会社で開発していたジョイスティック操船装置を搭載する船というのは
スラスター(船の横方向に推力をだすためのプロペラ)が搭載されていたり
左右のプロペラを前後逆に回転させて方向転換することも可能だったのであるが
基本的に前進後退しかできない船についての後進回頭の動きを確認したかったのである。
つまり、舵だけで艦首の方位保持が難しいというのを確認したかったのだ。
(偉そうな事を言っているけど、他に遊び心もあった。)


■200分の1スケールモデル 大和のキット


キット_R.jpg

箱_R.jpg


200分の1スケールモデル戦艦大和のキットに入っているパーツの数は600点以上である。

職場のH部長は、よりリアルに作り上げるために、パーツを改造したり、新たに自分で作っていたから

パーツの数は1000以上あったかもしれない。


戦艦大和製作のホームページにしようと思い、他に同じ内容のホームページはないかと探してみたところ
あるはあるは、しかも内容が芸術そのものだ。ちょーーーーー素人の私には思いもつかないアイデア、テクニック。

ということで、作成意欲がなくなってしまった。

とても、及ばない・・・・・


ということで、今回は戦艦大和について私が知っている、認識している内容を書いてみようと思う。

始まりは、日露戦争、日本海海戦にあった。
そのころ、世界一と言われていたロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が見事、撃破したのだ。
そのことが、その後の、大日本帝国海軍の「大艦巨砲主義」を産んだのだと思う。

「大艦巨砲主義」とは、大きな艦体に大きな大砲を積んだ戦艦による戦闘を行うということだ。
ところが、時代は航空機による戦闘の時代に入っていた。

日本は、真珠湾での航空機による奇襲作戦で、そのお手本を見せていたにもかかわらず、真珠湾攻撃の後、戦艦大和を誕生させた。

大和には姉妹艦として「武蔵」、そして、姉妹艦として唯一の空母「信濃」があった。
「信濃」の建造に至って始めて、航空機による戦闘でないといけないという認識をもつようになったのである。
ところが、「信濃」は建造中にアメリカの潜水艦の魚雷を受けて、闘うことなく沈んでしまった。

沖縄をアメリカ軍に占領された後、その救援のために大和は片道の燃料を積んで沖縄へ向かう。
艦体ごと、砂浜に乗り上げ、自慢の巨砲によりアメリカ 陣地へ攻撃を加えるというのだ。
大和の手法は、50km遠くはなれた標的を攻撃するという能力を備えていた。
まあ、考えてみると、むちゃくちゃな作戦だ。
日本も配色が濃くなって、やけくそになっていたとしか思えない。
このままみずみず敗北するなら、持っているものを全て使って神風が吹くのを待つという方針としか思えない。

沖縄に向かう途中、アメリカの 戦闘機にまるで、スズメバチに取り囲まれた熊のように、よってたかって攻撃を受け
ついに大爆発。深海深く沈んでいった。

戦死者3000名以上。 大日本帝国海軍による大量殺人という結果に終わってしまった。


戦艦大和のスケールモデルを作成したブログを数多く見てその精巧さにすっかりめげていた私。
でも、やっぱり製作を継続することにした。時間をかけて、ゆっくりと、じっくりと。
時間をかけても、「起用さ」というものには限度がある。いくら頑張っても及ばないところもある。
でも、それで諦めては自分というものが無い。そこで私は考えた。
自分がやれるところまで、自分のやり方でやってみると。
「そんな作り方は駄目だ。」とか、「不器用だ」とか、「雑だ」とか、人から何と言われても、
それはそれでいいじゃないか。馬鹿ヤロー(何で切れる?)
自分なりのやり方で、自己満足できればそれで目標達成とした。
今年の5月までに私は達成しなければならないこと(国家試験関係が主)が他にもあるけど、頑張ってみることにした。
「二兎を追うものは一兎を得ず」と言うけれど。二兎を追うという気持ち、二兎を追うという行動が大切なんだ。
私は三兎を追うのだけれど・・・・

模型甲板

甲板を私なりに作ってみた。
以前は、プラ板を実際の200分の1の大きさに切り、一つ一つ色を塗り分け、貼り付ける方法でやっていたのだが、うまくいかなかった。そんな根気のいることは、もともと私に出来るはずがない。
そこで、考え方を変えて作ってみた。
写真がその考えで作った結果だ。

どうやって作ったのかと言うと、なんとEXCELLと剥離紙を利用したのだ。
一枚一枚作っていたら、どうしても歪が生じてしまう。

よって、EXCELLで板目を作成、茶色にセルを塗り、剥離紙に印刷した。
剥離紙の裏紙を剥ぐ前に甲板にあてがい、突起物の位置を確認、その位置の周囲を切り抜いた。

定規で突起物の位置を計測してやっては見たが、実際当てて上から軽く押し、紙上に形を付ける方がうまくいくようだ。
次に裏紙を剥ぎ、甲板に貼り付け、裏からカッターで甲板の形に沿って切っていった。
第3甲板は、突起物が多いので、適当に部分分けして同じようにして貼り付けた。

甲板の色は茶色に統一した。
他の人が作成した甲板は、もっと明るい色もあったが、上空の飛行機から見た場合、標的になりやすい明るい色であるはずが無い。また「俺たちの大和/YAMATO」のロケセットでは、グレーに近い茶色で統一されていたから、一枚一枚、塗り分けることをやめたのは正解ではないかと思う。

艦橋後部にある梯子が、単なる棒のような物だったので、こだわりをもって作り直すことにした。
針金で梯子を作成することを考えたが、とても小さい部品なので不器用な私には作れたとしても、不細工な物になることは目に見えることだ。

文房具屋さんで他の物の買い物をしていたら、透明なセルロイド?に柵を描いた物を見つけた。
1枚300円だった。

はしご材料

この、透明な板を利用して梯子をつくることにした。

はしご

"B"の部分が、もともとの部品、"A"の部分が、透明な板を利用して作成した梯子だ。
色が黒なので、ちょっと気に食わないけど、もともと用意されてあった部品よりは、ましだと思う。



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