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ABECCO-NARARA

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2012.10.12
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カテゴリ:平城宮跡

これはもう、黙っていられません。

しばらく、ブログの方は開店休業にしていましたが、ちょっとこれは放っておけないことです。

奈良市民にとっての「平城宮跡」とは何でしょう。 

決して、映画のオープンセットでもなければ、テーマパークでもない。

草原を渡る風の向こうに、1300年の時間を感じ、先人に思いをはせる、そんな場所です。

それを、草を刈るだけでなしに、土とセメントで埋立てて、草を生えないようにしてしまう。

土がむき出しの、土色の広場にしてしまう。

そんな工事が突然始められています。 

一体何のために?

 

「往時の平城宮の広がりが甦ります」

 はあ?何言ってるの。 「往時」って朝堂院の両側には、建物が並んでいたんですよ。

 土の広場にして、何で広がりが甦るの。

「大極殿へのアプローチが便利に」

 それなら、通路付ければいいじゃないですか。

 そもそも1300年祭までは、この広場の中を自由に歩いていたんですよ。

「出来上がりは、朱雀門前の朱雀大路のような姿に」

 あそこ、イベントやってても砂埃が酷いの知ってるの?

 今の朝堂院なら草のおかげでそんなことはないけど、面積も何倍も広いのに、

 その砂埃って、とんでもないものになるのは明らか。 

 

 

しかも、この工事の請負額って、予定価額の、99.8%だって言うじゃないですか。

「とにかく工事をしたい」「させたい」というのが見え見えのインチキ事業じゃないの。

 

こちらのブログも、是非参考に。 

 

 







Last updated  2012.10.12 23:24:14
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2011.09.25
カテゴリ:奈良

榛原に「高山右近の碑」があります。

先の旧「伊那佐郵便局」へ立ち寄ったのは、実は、高山右近の碑へ行った途でした。但し以下の写真は、その時ではなくて今年の1月のものです。

 

宇陀市榛原の「高山右近の碑」

 

宇陀市の榛原のうちでも旧伊那佐村の澤、大貝というあたりに、「高山右近の碑」と右近親子の城「沢城跡」があります。
榛原の町から大宇陀に向かう宇陀川沿いではなくて、菟田野に向かう芳野川沿いに、県道31号をさかのぼり、比布で県道を外れて伊那佐文化センターを過ぎて川を右岸へ渡りしばらく行くと、この写真の「高山右近の碑」があります。

昨年12月、NHKの「歴史秘話ヒストリア」の放送の中で「高山右近がキリスト教の洗礼を受けた城」として、大和宇陀の沢城が紹介されました。 その時までは、キリシタン大名と奈良との関わりなど思いも寄らないことでしたので、早速、現地を確認に赴いたのでした。

 

宇陀市榛原の沢城「下城」あと

 

先の「右近の碑」から、少し南へ行くと「沢城跡」「沢」を示す矢印があって東へ進む道を示しています。その先にあったのが上の写真と、下のような表示板です。

榛原沢城の居館「下城」の案内板

まり、沢城というのは「宇陀三将」の一人、沢氏の城なのですね。三将とは、沢氏の他、秋山氏(秋山城、のちの大宇陀松山城)、芳野氏(菟田野東郷、下芳野の芳野城)を指し、伊勢国司北畠氏のもとで宇陀を分割支配していたという。
高山右近らは、松永久秀が大和に侵入し宇陀をも支配した時に、その武将として父の高山久照(飛騨守図書)が沢城に入城したとされています。その後、久照は、松永久秀から奈良でのキリシタンと仏教との「討論」の審査役を命じられ、その際にキリスト教の教えに感銘して、宣教師を沢城に招いて自ら洗礼を受け、家族と共に入信したということです。もともと摂津の出身であった高山家は、のちに高槻に移り、沢城には再び沢氏が入りますが、豊臣の天下統一の頃には廃城となっていたようです。
宇陀の三将は、北畠氏のあと蒲生氏郷や藤堂氏などの配下に名前が見えるようですが、江戸期まで続いたかどうかはよく判りません。

 

榛原沢城跡を居館「下城」跡より望む

居館「下城」跡よりのぞむ、沢城跡の方向です。

大河ドラマのような「大大名」こそ生まれなかったものの、大和にはさまざまな武士たちの足跡があったのですね。
奈良は、情報戦の武器とも言える「墨」「筆」の産地であったと共に、武器そのものの「刀鍛冶」や「甲冑」の産地でもあったようです。ちなみに徳川幕府お抱えの三大甲冑師「岩井」「春田」「明珍」の三家は、すべて奈良の甲冑師だそうです。







Last updated  2011.09.27 00:58:42
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2011.09.16
カテゴリ:奈良

宇陀の芳野川のそばでした。

一月ほど前、ちょっとしたドライブをしました。橿原から明日香村、石舞台から近年ようやく車が通れるようになった道で多武峰へ。そして山の中の十字路の信号を越えて、トンネルへ。名前の通り長~い「大峠トンネル」をぬけると大宇陀、松山の街並からちょっと折れて芳野川を渡り、沢城のふもとで「高山右近の碑」を確認。そして榛原の町へ下る途中、ちょっと脇道に入ったところにその建物はありました。

宇陀市榛原の旧「伊那佐郵便局」1

宇陀市榛原の比布に残る、旧「伊那佐郵便局」の建物でした。現在は、県道沿いに「榛原比布簡易郵便局」ができていて、郵便業務はそちらで行っています。

 

宇陀市榛原の旧「伊那佐郵便局」2
 
宇陀市榛原の旧「伊那佐郵便局」3



かなり傷んでいるのは確かですが、木造の洋館スタイルで、ちょっとメルヘンぽい建物です。取り壊しの話が出ていたようですが、地元の有志の方たちが、何とか残して活かせないかと取り組んでいるようで、その一端がツイッターに流れてきていました。

こちらがその「まとめ」ですがちょっと時間軸が前後してるようです。

なぜ「比布」にあるのに「伊那佐郵便局」なのかは、町村合併の歴史を見るとわかります。このあたりは明治の町村制で「伊那佐村」となり、その下に、「比布」「澤」などの字があったのですね。昭和29年に伊那佐村が榛原町に編入、翌年には内牧村も榛原町に加わります。そして50年後の平成18年に大合併で榛原町は大宇陀、菟田野、室生とともに宇陀市となります。

つまり、現在残る「比布簡易郵便局」よりも、村を代表していた「伊那佐郵便局」の方が「格が上」だったわけですね。 付近には「伊那佐文化センター」「伊那佐幼稚園」など伊那佐村の名残となる施設もありますが、地名としての「伊那佐」は「榛原」の陰に隠れて残っていません。

使われなくなって20年過ぎているそうですが、何とか有効に再生活用してほしいものです







Last updated  2011.09.21 01:04:44
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2011.09.13
カテゴリ:奈良

桜井市忍坂の石位寺です。

桜井市忍坂の石位寺境内
この写真では見えませんが、お堂の後ろには立派な収蔵庫があります。
 

桜井から、女寄峠を経て大宇陀へ向かうR166は、かなり急な坂道ですが、その登り口のあたりが「忍坂」という地区。ただしくは(おしさか)でしょうが、まあ(おっさか)と読む方が多いのではないでしょうか。
地区には「舒明天皇陵」などもありますが、最近では桜井の市街地を避けて安倍文殊院から山側を抜けるバイパスがつながったり、整備された「中和幹線」へ朝倉台を抜けて脇本でつながったりと、ちょっとした交通の要所のようにもなっています。
その国道の北東側に並行する旧道に入ってくると、そのさらに北東側に「石位寺」があります。

このお寺の存在を知ったのは、信州の仏像巡りをされている方のツイッター投稿からでした。合併で大きくなった長野市内には「清水寺」(せいすいじ)という名前のお寺が二ヶ所あります。一つは、一時群発地震があったり、大本営の移転候補地だったりした「松代町」にある真言宗豊山派のお寺。もう一つは、「若穂保科」にある真言宗智山派のお寺。どちらも善光寺などからみると川中島の向こうの千曲川を越えた対岸になります。

じつは、保科の方の清水寺さんが、大正時代に大火で伽藍を消失し、その後に、再建のために入手されたのが、当時、桜井忍坂の石位寺にあった仏さんたちだというのです。それも、16体もの「集団移転」だといいますから、なにやら明治の新十津川村を思わせます。どういう事情があったのかはよく判りませんが、石位寺側の経済的困窮があったともいわれます。しかも移転したうちの7体までが平安時代末期の作で「重要文化財」指定されているというのですから驚きです。

保科の清水寺の様子については、こちら とか こちら(2008・10/27-28の記事) をご覧下さい。後者には清水寺のご住職に聞かれた話も書かれています。

 

忍坂、石位寺本堂

 

ということで、いまこちらの方はどうなっているのかというと、無住で、地区の方が管理されているようですが、重要文化財の石造「伝・薬師三尊像」がいらっしゃるようです。

 

忍坂石位寺の案内板

 

 最初の写真で右手に見える無人の庫裏(地区の集会所も兼ねているのでしょうか)の方には、その石仏の写真や、拝観予約の方法などが掲げられていました。

 

忍坂の石位寺庫裏に掲示された本尊写真と拝観案内

明治の神仏分離で移動を余儀なくされた仏さまはたくさんおられますが、こういう形で移動されたというのは、ちょっとめずらしい話ではないかと思います。ともあれ信州ではとても大事にされている様子がうかがえるのは、幸いなことです。
境内へは、西側の坂道を上がって入ったのですが、正面にはかなり急ですが石段がありました。こちらを降りて旧道に戻ってみあげると、サルスベリの花が見えました。

 

村の道から見上げた石位寺の百日紅

 







Last updated  2011.09.19 11:49:32
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2011.08.29

「奈良町小寺巡礼」に参加しました。

奈良まほろばソムリエの松本さん( @yumeyamato )は、奈良のあちこちを案内するツアーを主催されています。8月の最終の土日(27日、28日)には、奈良町の南西部(南風呂、南城戸、鳴川、木辻あたり)に点在する、比較的地味なお寺10ヶ所あまりをめぐるツアーを開催していただきました。

ツアーの全体については、28日に参加された奈良倶楽部さんのブログで紹介されていますので、そちらの方をごらんいただくのが良いかと思います。近くに住んで、普段前を通ったりはしていても、境内やお堂の中に入る機会はめったにありませんので、本当に良い機会となりました。観光寺院ではないお寺に、事前のコンタクトをとっていただいた松本さんのご苦労に感謝したいと思います。

中将姫所縁のお寺が多いのですが。

中将姫が開いた最初の庵という「安養寺」、生誕の地で産湯の井戸もある「誕生寺」、父藤原豊成卿の古墳がある尼寺「高林寺」、父娘の墓や姫が継子いじめにあった話に出てくる「雪責めの松」や突き落とされた崖があるという「徳融寺」など、もと藤原豊成卿の屋敷があったという一帯には、中将姫所縁のお寺が並んでいます。

ただ高林寺の前住職、珠慶尼さまの思いとしては「継子いじめ」を芝居などで面白おかしく強調されるのは、中将姫(法如尼)にとっても本意ではなかろうというお話でした。

さて、最後にお邪魔した徳融寺さんでは、赤ん坊をだいた子安観音や極彩色のお地蔵さまなど、本来のお寺の仏さまの他に目についたのが、この石像でした。

 

奈良町徳融寺にいた「吉村長慶」氏の石像

 「このオジサン、いったい何者?」というところですが、御霊神社近くの薬師堂町の出身で、のちに「きたまち」に「長慶橋」や「長慶寺」を設置したという「吉村長慶」氏の石像なのだそうです。

で、ちょっと角度が難しくて見にくいのですが、こちらの写真2枚もこの方が作られたもの。

 
徳融寺境内の吉村長慶作「大日如来像」
 
吉村長慶「釈迦とキリストを揺すり起こす」石像

 大日如来像と、世界二聖を揺すり起こす吉村長慶なのだそうです。ここは案内板を読んでいただきましょう。

 

徳融寺境内の「吉村長慶」に関する案内板

 

226事件の後の昭和12年に、「軍馬のいななきはすなわち国を亡ぼす」という文言を刻んだというのは、やはりそれだけの世界観を持った人物だったのでしょう。近年、吉村長慶については「宇宙菴 吉村長慶」という評伝が刊行され、奈良が生んだ「奇豪」として知られるようになってきているようです。

キリストと釈迦を揺すり起こして、この世の乱れに対するように促すというのは、まさに奇豪の発想と言うしかないように思われます。







Last updated  2011.09.18 18:05:39
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2011.08.16
カテゴリ:奈良

東城戸町「旧井田康子邸」のことは紹介しましたが

井田(上村)先生の名前は、いろいろなところに残っています。前にも紹介しましたが、佐保短大には、井田康子賞奨学基金を寄付されていますし、東城戸町会所でもある大国主命神社の「拝殿」には、井田先生の寄付を記した棟札が掲げられています。

売却された旧邸とその裏の広い敷地がどうなるのか、まだよく判りませんが、先日、二月堂の横で、井田(上村)先生のお名前の入った石碑を写真に撮りましたので紹介します。(日記の日付は、前回よりかなり開いていますが写真にあわせました。)

 

東大寺二月堂に井田康子先生の寄贈石碑

 

場所は、二月堂の北側、お水取りの時にお松明が上がってくる階段を登りきり「北の茶所」へ向かう角のところです。「北の手水場」の右手に、他の寄進石碑などよりひときわ大きなものが三体立っています。

右から(写真から読み取った限りです)
「南無観自在 祠堂 金貳阡萬圓也 東城戸町 井田康子」

「南無観自在 奉献 一金壱億圓 上村耕作」

「春の雪 二・二六事件思出づ 宮中に入りて務め果せし(完二) 
  
祠堂 金貳阡萬圓 井田完二    小浜生 奈良永住」

「南無観自在」とは、お水取りでおなじみの観音さま(観自在菩薩)に唱える名号ですね。

上村耕作というのは父上でしょうか。
井田完二氏は、先生の夫君で、昭和62年に亡くなられていますが、その晩年のお二人の様子は、平成13年になって歌集「続続 楽書日記」として出版されたようです。
(元同僚、萩野先生のブログによる)

教師としては、大変「堅い」「厳しい」先生で、生徒指導にうるさい「生活部長」として恐れられていた方でしたが、「高村光太郎」研究とともに、「源氏物語」についての研究もされていたように、夫君の死後の歌には人を恋うる想いが溢れているようです。

さて、「井田完二」という方は、三高(現京都大学)の卒業のようで、同窓団体「三高自昭会」の発行になる「神陵文庫」の第五巻に、その名前が見えます。
神陵文庫は、三高の同窓生が月例会や公開講演会で講演した内容を、冊子にまとめたもののようで、同じ巻には「小松左京」、東京都知事の「鈴木俊一」、京都府知事の「林田悠紀夫」、住友銀行の「磯田一郎」、交通工学の「天野光三」と、錚々たる名前が並んでいます。

そして、井田完二氏の講演は、ズバリ「二・二六事件と私」というタイトルで、昭和11年の2.26事件の際に、内務省地方局勤務の氏が、決起軍に包囲占拠された内務省庁舎を避けて、宮中の某所で内務省の業務を行った様子が描かれています。
なお文末には「井田特許事務所長」と紹介されています。

にしても、先生のお宅がこの後どうなっていくのか、大変気になるところです。聞くところでは、今回購入された会社では、三条通りのもと「都ホテル」のパーキングも購入されたとか。どちらも奈良の町にとって大きな意味のある場所かと思います。

 (2015年1月5日石碑写真を再確認して加筆)






Last updated  2015.01.05 22:33:50
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2011.08.14
カテゴリ:JR

JR奈良駅の東口です。

 

JR奈良駅東口階段にできた「屋根」

新しく、階段とエスカレーターの部分に屋根がつきました。
以前(昨年10月ごろ)はこんな感じで、完全な雨ざらしでした。

JR奈良駅東口20101021

鉄骨が剥き出しですけど、横方向から見た時にあまり目立たないように思えます。そして内側から見るとこんな感じですが、来年3月ごろまでに手前(南)側の階段にも伸ばすようです。

JR奈良駅東口階段の屋根を内側から見る

 

階段部分の屋根4枚が、すべて水平なので、スリットから外部がよく見えます。エスカレーター部分は、完全に覆うようになっていますが、階段部分はオープンな感じ。
下から見るとこんな風です。

 

JR奈良駅東口階段の屋根を下から見る

 

鉄骨に抵抗があるかも知れませんが、高架駅舎の水平方向のラインに逆らわないような「目立たせない」デザインには、わたしは好感を持ってみています。

少なくとも、こういう無理矢理なデザインよりはよほどマシ。
このアーチ形のガラス屋根だと、夏場は温室みたいになって、噴水の蒸気とともに熱中症になるんじゃないか。行基広場には、水平方向の風の通り道がないし。

201107奈良県計画案完成図2

この合成写真だと、熱気や湿気は抜けるじゃないのという意見もあったので、ちゃんとした平面図も載せます。これで見ると、ビルや壁面との間隔は30cm程度にしか見えません。「ピロティ」は近鉄ビルの建物が張り出してきていますし、商店街のアーケードともかなりくっついています。

 

行基広場覆い屋根の平面図

 

 







Last updated  2011.08.17 15:48:09
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2011.08.11
カテゴリ:まちなか

一見、なんでもない奈良のまちかどの写真ですが

 

中街道角振町の風景ですが

 

角振町のアサコムニッセイシャの前、向うは三条通り、左側は友楽西館の解体工事現場です。手前に、交通事故の目撃情報を求める看板が立っています。

あれ?目撃看板って、向うの三条通りに立ってたんじゃなかった。とよく見ると、たしかに向うの三井住友銀行の前のポールにも看板がありますよ。こんな近いところで、2件も目撃証言を必要とするような交通事故が起こってるんですね。

 

住友銀行角の事故看板、7/28のもの

 

 上は三条通りの三井住友前の看板、7/28朝のクルマと自転車の事故。

そして、下はアサコム前の看板、8/3早朝のトラックと自転車の事故。

 

アサコム前の事故目撃看板
 

 

うーん何ででしょう。1週間の内にごく近くで2回も事故、それも自転車絡み。
考えられることは、西側の工事現場の仮囲いが真っ白で真っ平ら、光を反射していることでしょうか。どうも圧迫感があったり、距離感の目測が狂ったりしてるのかな。
ちょっと困ったことです。







Last updated  2011.08.14 09:17:13
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2011.08.08

お地蔵さんは、子供を守って下さいますが

「お産」の手伝いという話は、あまり聞きませんね。

瑜伽山ふもとの子安地蔵

きっかけは、三ヶ所で行われた写真展でした。そのうち、奈良町物語館で展示されていた17年前の「わたしの奈良写真」の作者の方々のいちばん端に、見覚えのあるお名前を発見しました。(実は、別の一ヶ所での展示作品の作者、桂修平さんの実のお祖母さまでした。)

民家の軒先のような所に立つお地蔵さまですが、周りには花がたくさんあって大切にされている感じです。いったいどこだろうとお話を伺って、「あれはお産を手伝ったお地蔵さんですよ」と教えていただきました。ネットでその話が載っていましたので転記します。

● 騎馬で助産に出る地蔵尊 奈良市
 奈良ホテルの東に、荒池子安の地蔵尊といって、すすぼけた石地蔵が、小堂に安置されて居る。昔、堂守の老婆が、夜中にふと目を覚ますと、お堂の中が何だか騒がしい。聞くと
「今夜は、忙しいのだ。これからお産の手伝いに行かねばならぬ。」
という話声がする。恐る恐る堂内を覗いてみると、地蔵尊が白装束で、白馬に跨って立って居られ、やがて何処かへ出て行かれた。
 翌朝地蔵尊を見ると、全身汗びっしょりとなって居られた。是から、安産を祈るものが段々ふえたが、出産のときには、いつも佛体がぬれるということである。
 (東蕗村)

場所は、奈良ホテル東側の天理街道(R169)を渡り、バス停留所のすぐ裏になります。
瑜伽山のふもとで、隣は奈良ホテルの臨時駐車場です。

このお地蔵さんの話は、「奈良町物語館」の命名の元になった「奈良まちづくりセンター」発行のパンフレット「奈良町物語」に横井紘一さんの挿絵入りで載っているのですが、現在は絶版となっています。奈良の町々の面白い話が載っている冊子、ぜひ復刻してほしいものです。

 

 







Last updated  2011.08.14 08:32:21
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2011.08.06
カテゴリ:カテゴリ未分類

あらためて、現在の行基広場を。

 

行基広場は伸びやかな大空がおもてなし

東向アーケードの上からはみ出してる「寛永堂」の看板が目障りですが。ともかく、駅から出て東をみると、登大路の坂が見えて、自然と目線が上に行きますね。その上には、やはり奈良らしい広い空。やっぱり屋根はおかしいでしょう。

 

近鉄奈良駅ビル内側からみた景観

駅ビルの中からみても、やはりオープンな空が「奈良」への期待感を引き出してくれます。ビルの改装で見通しが良くなったことで、自然な空の光りが美しく感じられます。地下のホーム、コンコースと上がってきた乗客の目線は、やはり自然と上を向きます。

行基広場の広々とした景観

こんなところに、太い柱が立ってしまうと、せっかくの美しい登大路の歩道や並木が見えにくくなってしまいますね。「あの坂の向うに、公園が、大仏さまが、若草山が」という気持ちが、覆い屋根のせいで萎えてしまうのではないでしょうか。

行基さんの広場が青空なのは、当時の市長だった故鍵田忠三郎氏の決断だという話もあります。空の雲を観察して「地震雲」を見立てたという鍵田さんらしい話です。

この近鉄駅前からの登大路に向かう景観は、奈良市として保全すべきものではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。(一部邪魔物はありますが)

奈良市景観課では、こういう意見募集中です。

 奈良らしい眺望景観の保全活用に対する意見を募集します

 







Last updated  2011.08.07 14:49:57
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