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ABECCO-NARARA

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奈良

2011.09.25
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カテゴリ:奈良

榛原に「高山右近の碑」があります。

先の旧「伊那佐郵便局」へ立ち寄ったのは、実は、高山右近の碑へ行った途でした。但し以下の写真は、その時ではなくて今年の1月のものです。

 

宇陀市榛原の「高山右近の碑」

 

宇陀市の榛原のうちでも旧伊那佐村の澤、大貝というあたりに、「高山右近の碑」と右近親子の城「沢城跡」があります。
榛原の町から大宇陀に向かう宇陀川沿いではなくて、菟田野に向かう芳野川沿いに、県道31号をさかのぼり、比布で県道を外れて伊那佐文化センターを過ぎて川を右岸へ渡りしばらく行くと、この写真の「高山右近の碑」があります。

昨年12月、NHKの「歴史秘話ヒストリア」の放送の中で「高山右近がキリスト教の洗礼を受けた城」として、大和宇陀の沢城が紹介されました。 その時までは、キリシタン大名と奈良との関わりなど思いも寄らないことでしたので、早速、現地を確認に赴いたのでした。

 

宇陀市榛原の沢城「下城」あと

 

先の「右近の碑」から、少し南へ行くと「沢城跡」「沢」を示す矢印があって東へ進む道を示しています。その先にあったのが上の写真と、下のような表示板です。

榛原沢城の居館「下城」の案内板

まり、沢城というのは「宇陀三将」の一人、沢氏の城なのですね。三将とは、沢氏の他、秋山氏(秋山城、のちの大宇陀松山城)、芳野氏(菟田野東郷、下芳野の芳野城)を指し、伊勢国司北畠氏のもとで宇陀を分割支配していたという。
高山右近らは、松永久秀が大和に侵入し宇陀をも支配した時に、その武将として父の高山久照(飛騨守図書)が沢城に入城したとされています。その後、久照は、松永久秀から奈良でのキリシタンと仏教との「討論」の審査役を命じられ、その際にキリスト教の教えに感銘して、宣教師を沢城に招いて自ら洗礼を受け、家族と共に入信したということです。もともと摂津の出身であった高山家は、のちに高槻に移り、沢城には再び沢氏が入りますが、豊臣の天下統一の頃には廃城となっていたようです。
宇陀の三将は、北畠氏のあと蒲生氏郷や藤堂氏などの配下に名前が見えるようですが、江戸期まで続いたかどうかはよく判りません。

 

榛原沢城跡を居館「下城」跡より望む

居館「下城」跡よりのぞむ、沢城跡の方向です。

大河ドラマのような「大大名」こそ生まれなかったものの、大和にはさまざまな武士たちの足跡があったのですね。
奈良は、情報戦の武器とも言える「墨」「筆」の産地であったと共に、武器そのものの「刀鍛冶」や「甲冑」の産地でもあったようです。ちなみに徳川幕府お抱えの三大甲冑師「岩井」「春田」「明珍」の三家は、すべて奈良の甲冑師だそうです。







Last updated  2011.09.27 00:58:42
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2011.09.16
カテゴリ:奈良

宇陀の芳野川のそばでした。

一月ほど前、ちょっとしたドライブをしました。橿原から明日香村、石舞台から近年ようやく車が通れるようになった道で多武峰へ。そして山の中の十字路の信号を越えて、トンネルへ。名前の通り長~い「大峠トンネル」をぬけると大宇陀、松山の街並からちょっと折れて芳野川を渡り、沢城のふもとで「高山右近の碑」を確認。そして榛原の町へ下る途中、ちょっと脇道に入ったところにその建物はありました。

宇陀市榛原の旧「伊那佐郵便局」1

宇陀市榛原の比布に残る、旧「伊那佐郵便局」の建物でした。現在は、県道沿いに「榛原比布簡易郵便局」ができていて、郵便業務はそちらで行っています。

 

宇陀市榛原の旧「伊那佐郵便局」2
 
宇陀市榛原の旧「伊那佐郵便局」3



かなり傷んでいるのは確かですが、木造の洋館スタイルで、ちょっとメルヘンぽい建物です。取り壊しの話が出ていたようですが、地元の有志の方たちが、何とか残して活かせないかと取り組んでいるようで、その一端がツイッターに流れてきていました。

こちらがその「まとめ」ですがちょっと時間軸が前後してるようです。

なぜ「比布」にあるのに「伊那佐郵便局」なのかは、町村合併の歴史を見るとわかります。このあたりは明治の町村制で「伊那佐村」となり、その下に、「比布」「澤」などの字があったのですね。昭和29年に伊那佐村が榛原町に編入、翌年には内牧村も榛原町に加わります。そして50年後の平成18年に大合併で榛原町は大宇陀、菟田野、室生とともに宇陀市となります。

つまり、現在残る「比布簡易郵便局」よりも、村を代表していた「伊那佐郵便局」の方が「格が上」だったわけですね。 付近には「伊那佐文化センター」「伊那佐幼稚園」など伊那佐村の名残となる施設もありますが、地名としての「伊那佐」は「榛原」の陰に隠れて残っていません。

使われなくなって20年過ぎているそうですが、何とか有効に再生活用してほしいものです







Last updated  2011.09.21 01:04:44
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2011.09.13
カテゴリ:奈良

桜井市忍坂の石位寺です。

桜井市忍坂の石位寺境内
この写真では見えませんが、お堂の後ろには立派な収蔵庫があります。
 

桜井から、女寄峠を経て大宇陀へ向かうR166は、かなり急な坂道ですが、その登り口のあたりが「忍坂」という地区。ただしくは(おしさか)でしょうが、まあ(おっさか)と読む方が多いのではないでしょうか。
地区には「舒明天皇陵」などもありますが、最近では桜井の市街地を避けて安倍文殊院から山側を抜けるバイパスがつながったり、整備された「中和幹線」へ朝倉台を抜けて脇本でつながったりと、ちょっとした交通の要所のようにもなっています。
その国道の北東側に並行する旧道に入ってくると、そのさらに北東側に「石位寺」があります。

このお寺の存在を知ったのは、信州の仏像巡りをされている方のツイッター投稿からでした。合併で大きくなった長野市内には「清水寺」(せいすいじ)という名前のお寺が二ヶ所あります。一つは、一時群発地震があったり、大本営の移転候補地だったりした「松代町」にある真言宗豊山派のお寺。もう一つは、「若穂保科」にある真言宗智山派のお寺。どちらも善光寺などからみると川中島の向こうの千曲川を越えた対岸になります。

じつは、保科の方の清水寺さんが、大正時代に大火で伽藍を消失し、その後に、再建のために入手されたのが、当時、桜井忍坂の石位寺にあった仏さんたちだというのです。それも、16体もの「集団移転」だといいますから、なにやら明治の新十津川村を思わせます。どういう事情があったのかはよく判りませんが、石位寺側の経済的困窮があったともいわれます。しかも移転したうちの7体までが平安時代末期の作で「重要文化財」指定されているというのですから驚きです。

保科の清水寺の様子については、こちら とか こちら(2008・10/27-28の記事) をご覧下さい。後者には清水寺のご住職に聞かれた話も書かれています。

 

忍坂、石位寺本堂

 

ということで、いまこちらの方はどうなっているのかというと、無住で、地区の方が管理されているようですが、重要文化財の石造「伝・薬師三尊像」がいらっしゃるようです。

 

忍坂石位寺の案内板

 

 最初の写真で右手に見える無人の庫裏(地区の集会所も兼ねているのでしょうか)の方には、その石仏の写真や、拝観予約の方法などが掲げられていました。

 

忍坂の石位寺庫裏に掲示された本尊写真と拝観案内

明治の神仏分離で移動を余儀なくされた仏さまはたくさんおられますが、こういう形で移動されたというのは、ちょっとめずらしい話ではないかと思います。ともあれ信州ではとても大事にされている様子がうかがえるのは、幸いなことです。
境内へは、西側の坂道を上がって入ったのですが、正面にはかなり急ですが石段がありました。こちらを降りて旧道に戻ってみあげると、サルスベリの花が見えました。

 

村の道から見上げた石位寺の百日紅

 







Last updated  2011.09.19 11:49:32
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2011.08.16
カテゴリ:奈良

東城戸町「旧井田康子邸」のことは紹介しましたが

井田(上村)先生の名前は、いろいろなところに残っています。前にも紹介しましたが、佐保短大には、井田康子賞奨学基金を寄付されていますし、東城戸町会所でもある大国主命神社の「拝殿」には、井田先生の寄付を記した棟札が掲げられています。

売却された旧邸とその裏の広い敷地がどうなるのか、まだよく判りませんが、先日、二月堂の横で、井田(上村)先生のお名前の入った石碑を写真に撮りましたので紹介します。(日記の日付は、前回よりかなり開いていますが写真にあわせました。)

 

東大寺二月堂に井田康子先生の寄贈石碑

 

場所は、二月堂の北側、お水取りの時にお松明が上がってくる階段を登りきり「北の茶所」へ向かう角のところです。「北の手水場」の右手に、他の寄進石碑などよりひときわ大きなものが三体立っています。

右から(写真から読み取った限りです)
「南無観自在 祠堂 金貳阡萬圓也 東城戸町 井田康子」

「南無観自在 奉献 一金壱億圓 上村耕作」

「春の雪 二・二六事件思出づ 宮中に入りて務め果せし(完二) 
  
祠堂 金貳阡萬圓 井田完二    小浜生 奈良永住」

「南無観自在」とは、お水取りでおなじみの観音さま(観自在菩薩)に唱える名号ですね。

上村耕作というのは父上でしょうか。
井田完二氏は、先生の夫君で、昭和62年に亡くなられていますが、その晩年のお二人の様子は、平成13年になって歌集「続続 楽書日記」として出版されたようです。
(元同僚、萩野先生のブログによる)

教師としては、大変「堅い」「厳しい」先生で、生徒指導にうるさい「生活部長」として恐れられていた方でしたが、「高村光太郎」研究とともに、「源氏物語」についての研究もされていたように、夫君の死後の歌には人を恋うる想いが溢れているようです。

さて、「井田完二」という方は、三高(現京都大学)の卒業のようで、同窓団体「三高自昭会」の発行になる「神陵文庫」の第五巻に、その名前が見えます。
神陵文庫は、三高の同窓生が月例会や公開講演会で講演した内容を、冊子にまとめたもののようで、同じ巻には「小松左京」、東京都知事の「鈴木俊一」、京都府知事の「林田悠紀夫」、住友銀行の「磯田一郎」、交通工学の「天野光三」と、錚々たる名前が並んでいます。

そして、井田完二氏の講演は、ズバリ「二・二六事件と私」というタイトルで、昭和11年の2.26事件の際に、内務省地方局勤務の氏が、決起軍に包囲占拠された内務省庁舎を避けて、宮中の某所で内務省の業務を行った様子が描かれています。
なお文末には「井田特許事務所長」と紹介されています。

にしても、先生のお宅がこの後どうなっていくのか、大変気になるところです。聞くところでは、今回購入された会社では、三条通りのもと「都ホテル」のパーキングも購入されたとか。どちらも奈良の町にとって大きな意味のある場所かと思います。

 (2015年1月5日石碑写真を再確認して加筆)






Last updated  2015.01.05 22:33:50
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2011.07.23
カテゴリ:奈良

何のためなんかようわからん。

それが、今回の行基広場の屋根に対する最大の疑問かもしれません。

今回のパブリックコメントの計画案には、「目的」の記述がありませんので、昨年8月に最初の意見募集で使われたものを開いてみました。

「近鉄奈良駅前行基広場は、奈良観光の玄関口でありながら、待合いや交流のための場所としては、特に降雨時には利用しにくく、待合いだけでなく駅から商店街までの移動等においても雨に濡れる状況です。また晴天時には強い日射の影響を受けたり、団体の待ち合わせは地下になるなど、利用者環境に乏しい状況にあります。
 このため行基広場に屋根を設置することにより、悪天候時の雨露を遮り、晴天時に日射等の影響を和らげることにより、快適な交流空間を創出し、奈良観光の玄関口にふさわしい待合い空間としての機能向上を図ります。」

で、そのときの最初の計画書にあったのが、以下の画像です。

 

201008当初奈良県案完成図1

 

行基広場の「屋根」当初プラン

 「悪天候時」云々って、こんなん、やたら高い柱でちょっと雨降ったら確実に地面が濡れるやろというのは誰が見ても明らかですね。 それに「団体の待ち合わせ」って、小学生の一クラスだけでも、屋根からははみ出しそうです。

昨年のいろいろな意見を受けて、今月出された計画案の画像が次の二つ。変わったのは柱の表面に「木」を貼り付けたのと、屋根の面積を広げて、アーケードや地下出口などとの隙間を減らしたこと、そして、屋根のアーチを深くしたことですね。

 

201107奈良県計画案完成図1

 

 

201107奈良県計画案完成図2

 

「木貼り」は、JR奈良駅構内の柱が好評なのを受けて、後ろの壁の色と合わせたのでしょうか。ただ、逆に駅ビルなどの材質との違和感が強くなって、よけいに目立つことになったかも。それに、雨を避ける機能のために、アーチが深く下端が下がったことで、内部からは「覆われている」という感覚が余計に強くなったのではないかと思います。いわば「鬱陶しさ」はより強くなったといえるかもしれません。

そもそも、行基広場自体が、そんなに広さがあるわけではなく、「団体の待合い」といっても修学旅行の学年丸ごとなどはとても無理なところです。
「目的」では、「団体の待ち合わせが地下になる」としていますが、本来、駅の地下コンコースは県や市の事業で作られた公共の空間であるのに、近鉄が喫茶スペースなどの「私的・営利的利用」を行うことで狭くなっているに過ぎません。
団体の待ち合わせ云々というなら、そっち方の対策を先にするべきでしょう。

当時、先代の「鍵田忠三郎市長」がわざわざ「空が見えるように」したというこの空間に、むりやり巨象のような大きな屋根と太い柱を持ち込む理由としては、根拠が薄弱のように思われます。

どのみち、雨の吹き込みを完全に排除などできないのですから、南側の壁沿いからひさしのような形にすることで、広々とした奈良の空を味わう開放的な広場を維持してほしいものです。
広場が屋根で覆われてしまったら「はい、あの道のさきが博物館、東大寺ですよ」と、坂道の登大路方面を案内しにくくなるのは確実です。

 

近鉄奈良駅ビルピロティ南西端から見る行基広場

 







Last updated  2011.07.23 12:46:32
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2011.07.22
カテゴリ:奈良

県の独断先行で反発を受けた「行基広場の屋根」

いろいろと「有識者のご意見」とか、現地でのアンケートとかを行った上で、

あらためて「意見募集」ということになっていますが、

「え?全然変わってへんやん」というのが正直なところです。

・近鉄奈良駅前行基広場の屋根設置計画(案)   

前のプラン との違いは、柱の表面を「木貼り」にしたことと、屋根の面積をひろげて、東向のアーケードや近鉄駅ビルに近づけたこと、そして地下出口の上も覆うようにしたこと。

柱や屋根の形は、基本的に最初の絵のまま、大して広くもない広場に、大きなゾウを無理矢理押し込んだような状態にかわりはありません。

もっとも肝心なことは、近鉄奈良に降り立って、地上に出た人が感じる「奈良だからこその空の広さ」「開放感」という、観光の第一印象を維持しながら、駅と商店街アーケードとの連絡性を確保することのはず。そういう配慮、指向が読み取れません。

もちろん「計画書」には、「圧迫感を与えないような開放感の感じやすさ等を考慮して」という文言(「**感の感じやすさ」って、おかしな日本語だと思います)がありますが、

その結果として最も低いところで6.7m(マンション2階ぐらい)という高さと、「アーチ屋根の傾斜設置」というどうも不安定で目障りな形状を固守しているようです。

まあそれはともかくとして、現状、駅を降りたところで見える風景はどんなものか、ここに屋根がかかったらどうなるのかを想像するためにも、写真で確認してみました。

 

まずは、地下コンコースからエスカレーターを上がって、前へ進んだ時の光景。

近鉄奈良駅ビルから見る行基広場

       すぐ前にあるのは、地下から直接あがってくる階段の出口です。

 

次に、駅ビルのピロティの南西端から見渡した広場の光景

近鉄奈良駅ビルピロティ南西端から見る行基広場

  登大路の坂から、商工会議所などの建物がよく見えます。計画では、屋根の上端と下端とは「ひがしむき」という文字の上端からアーケード下端ぐらいの高さになりそうです。また左の地下出口もすべて覆うような広さです。

 

さらに、地下出口を上がってきて見える光景です。

近鉄奈良駅の地下出口から見た行基広場

 この視線の上に、屋根が架けられることになります。登大路は文字通り「上り坂」ですので、先へ行けば「空」の面積が小さくなります。屋根で押さえられると「奈良の空の広さ」はかなり損なわれることに。

 

ただ、逆にふり返るとこんな感じ。

行基広場南側の壁面の様子

これはしかし、行基さまに相応しいかどうか、かなり問題ではありますねえ。ちょっとこの南側の壁面は、隠せるものなら隠したい。(特に県庁方面から来ると気になるんでしょうね)

 

ただ、そのために、広場の空をすっぽり覆うような屋根が必要なのかというとそうではないはず。南側の壁から張り出してくるような、片流れの屋根で十分でしょう。どっちにしろ、7mなんて高さでは雨の降り込みは必定ですから、気にする必要はない。(商店街のアーケードでも、そのぐらいの高さで家屋に接していないところは必ず雨が降り込んでくる)

とにかく、そんなに広くもない「広場」に、目障りな太い柱や、大きな屋根を持ち込んで、せっかくの「駅を出た瞬間の視界の広さ」という奈良の「売り物」を破壊してしまうことはないと思うのですが。







Last updated  2011.07.22 23:12:23
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2011.06.07
カテゴリ:奈良

「悲田院」そのものはどうなったのか。

先日の日記で、悲田院跡地の様子はお伝えしたのですが、「悲田院の観音様」を探しているという方のコメントをいただきました。私の方は「地蔵堂」の存在を確認したので、まあそれで一段落と思っていたのですが、その方の活躍で新たな情報を得ることができました。

ごく近くにいながら、知らないことはあったのだなとあらためて自戒しました。(この前の西新屋率川神社について隣町の皆さんがあまりご存じなかったのも無理のないことです)

悲田院は、もともと阿弥陀寺さんがお世話されていた。

南城戸町の悲田院は、守りをしていたお婆ちゃんが亡くなった後、荒れ果てていたそうですが、 寺地を奈良市が買い上げたことでその資金で新たなお堂を、南風呂町阿弥陀寺さん(↓写真)の境内地に建立、傷んでいた仏像なども美しく修復されたそうです。(入江さんの写真に、二人の小さい子どもたちと写っていたのはそのお婆ちゃんだったのでしょうか)

 

南風呂町の安養山阿弥陀寺
 
阿弥陀寺境内の悲田院観音堂
 

山門入ってすぐの左手に「悲田院」と額のかかった観音堂が建っています。昼間は通用口が開いていて、観音堂にお参りすることができます。説明書に、悲田院の経緯などが書かれています。







Last updated  2011.06.07 15:28:02
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2011.06.02
カテゴリ:奈良

しばらく更新をサボっていました。
この間に、奈良の町では、第2回の「まちなかバル」とか

4次総合計画否決についての議会側の市民への説明会とかがいろいろあって
ツイッター上では賑やかだったのですが、その分、こちらはそのままでした。

まあ、ネタの写真はいろいろあるし、あんなこともこんなことも載せたいのですが、
修正編集するのが面倒ということで、手が着いていませんでした。

そこへ、奈良町の「赤線」というやりとりをタイムライン上で発見して、
木辻の写真がそのままになっているのを思い出しました。

奈良町にかすかに残る木辻遊郭の面影

旧木辻遊郭「第三油屋」跡の住宅

この写真のどこが遊郭やねんとお思いでしょうが、この中街道の角の新築の家が木辻遊郭「第三油屋」の建物があった場所。有名な建物でしたので、いろいろなページに取上げられています。

ただ上記リンクのページの写真のうち、上から二枚目の鳴川町の風景では遊郭はずっと向うだし、一番下の右は、着物の洗い張りのお店でまあ関連業種と言えなくはないけど遊郭ではありません。

 

中街道から花園町に向かう坂道
 

中街道から、東の花園町へ坂を上る途中の景色です。かつては坂の両側に妓楼が並んでいたそうですが、この先右手にある称念寺には「遊女」の墓石が集められているそうです。このあたり「東木辻町」から坂の上の「花園町」にかけて、井原西鶴の「好色一代男」などにも出てくる「木辻遊郭」があったとされます。(戦前は、高畑の「連隊」の需要などもあったのでしょうか)

 

旧木辻遊郭「初音旅館」の建物

 

坂の上の四つ角から北を向くと、右手にあるのがこの建物です。以前は手前の空き地になっている部分に同じような建物が並んでいたようです。昭和の住宅地図には「初音旅館」と書かれていますが、「北初音楼」という遊郭だったようです。このすぐ後ろは、中将姫ゆかりの「誕生寺」なのですが、いささか妙な感じですね。

 

旧木辻遊郭静観荘と鳴川の道

 その向いにあるのがこちら「静観荘」です。こちらは「本家岩谷楼」だったそうで、現在は素泊まりの旅館として営業されていますが、外国のお客様には遊郭の名残の豪華な内装が評判なのだそうです。

 

旧木辻遊郭静観荘(本家岩谷楼)


 この玄関、見覚えのある奈良ファンは多いかも知れませんね。ドラマ「鹿男あをによし」で、明日香村に出かけた小川先生と藤原クンが、おでん屋(実は奈良町の「蔵」さん)で飲み過ぎて、村の路地(実は知事公舎横の道)で藤原クンをおんぶしてやってきた旅館という設定でロケに使われました。

こちらの建物については、こういうページで紹介されていますのでご覧下さい。
  旅館静観荘
 Ryokan Seikan-so 

 ついでに言えば、こちらの木辻は「遊郭」で「娼妓」がいたところ。南市や元林院は「花街」で「芸妓」がいたところ。まあ「元林院と違て南市の方は転び芸者」で芸より身を売るといわれたりしたようですし、戦後の進駐軍がいた時代には「オンリーさん」になっていた芸者さんもあったそうですが。







Last updated  2011.06.04 18:47:26
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2011.05.17
カテゴリ:奈良

1300年祭のあと三条通りの工事も再開。

少し古い2月の写真ですが、下三条町付近は、拡幅がほぼ完了。

2011/02/15 下三条町の三条通り

ただ街路の上の施設はまだこれからですね。シラカシの植樹が進んできていますが、今後、電柱の地下埋設や歩車道分離のためのボラードなどが予定されています。次の「絵」は完成予想の一つですが、今後いろいろと変更はあるかもしれません。

三条通の完成イメージ
 
そして、この三条通りのキャラクターとして商店街が採用したのがこちらです。シカの白ちゃんキャラクターイラスト
以前に写真を紹介した「シカの白ちゃん」がこんなイラストになりました。
1000点近い中から選ばれたポイントは、交通安全・青信号の「目」だそうです。
そして手足の先は注意の黄色信号のイメージも。

一方、JR奈良駅近くの方は、同じ2月ごろはこんな感じでした。

 

2011/05/15三条通り一丁目

 

左のもと「マクドナルド」ととなりの「島岡洋品店」さんは、現在建物が撤去されてこんな感じ。
島岡さん宅の奥には、ずいぶんと立派な木が植わっていたのですね。
そしてとなりの建物には、「みむろ最中」白玉屋さんの仮店ができてます。

三条通りのマクドナルド&島岡洋品店の場所2011/05/12

 

2011/05/12みむろもなかの仮店

 ただ、このあたりで一番の問題は、上の写真中央にみえる南都銀行やスーパーホテルの入っている「旧いろはビル」のことです。この建物は、旧24号線=県道奈良橿原線の拡幅予定地にもかかっています。三条通側のセットバックと、県道側のセットバックと両方をやらねばなりません。ようやく県の事業も動き出したそうで、やっとJR奈良駅と三条通りとの「見通し」がよくなりそうですが、さて、いつ頃になるのか。一説では、ビルが古いので丸ごと解体新築するのだという話もあります。







Last updated  2011.05.17 15:10:55
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2011.05.12
カテゴリ:奈良

やっぱりこうなったら現地確認

ということで、県文化会館の裏へやってきました。

NHKもとは鋳物工場?映画館?

これが現在のNHK奈良放送局(放送会館)ですが、「古くて小さい映画館」の跡地としては大きすぎるような気もしますね。ここが「鍋屋町27番地」です。
鋳物工場ということで調べると、「山中鋳造所 鍋屋町22番地」というのが検索でかかり、電話番号も出ますが、地図には全く出てきません。(GoogleMapだと駐車場) 電話帳のデータだけがのこっているのでしょうか。

「NHKのところにあった鋳物工場は、小学生の社会見学などもあった」という話ですから、それなりの広さもあったのでしょう。奈良町の昔話でおなじみの増尾正子さんもNHKのある場所は「大きな鉄工所だった」と書かれています。

さて「今のNHKのもう一本裏」ということになると、昭和40年代の奈良を知る人間にとってはピンと来る建物があります。それこそ「いつ壊れてもおかしくない」ような建物ですが、一癖ありそうなテナントや住人で記憶に残るのがこの「半田アパート」です。

半田アパートの素性は、元劇場?
 
「電気館」疑惑の半田アパートを別の角度から

そもそもアパートといいながら、南側に洗濯物を干すような設備もなさそう。中街道の旧錦市場と似たような臭いがします。あちらの方も、元は劇場だったという話もあります。

そもそも、この中途半端な敷地面積が「古い小さな劇場」ぽいような気がします。 いずれ「きたまち」に詳しい方が決着させて下さることでしょう。

追記)意外と早く結論がでました。

どうも正解は、このあたりらしいです。

 

映画館「電気館」があったらしいところ

 

NHKのすぐ東の通りで、県庁の西側から北へきたところ。手前が半田アパートのある交差点になります。(道が狭いので、なかなか写真が撮りにくいです)
中央にあるのが産経新聞の奈良支局、駐車場、小さく見える瓦屋根の民家、そしてちょっと洒落たマンションと続きます。「電気館」があったのは、この家並みの一部だったようですが、その名残となるような建物の痕跡は見あたりません。
実は「電気館」は、もともと芝居小屋だったようで、そのとなりに銭湯があり、白塗りの「女形」さんが男湯に入ってきて男の子がビックリしたという話が伝わっているそうです。

木辻方面でも、もと劇場や映画館と思われるところがいくつかありますが、今回はこのぐらいにしておきます。ともかく、奈良の街の中に近年閉鎖となった三ヶ所(友楽の東西、観光会館地下)以外にも、多くの映画館があったということは記憶に残しておきたいところです。

テレビやビデオの時代について行けなかったといえばそれまでですが、今は逆にテレビがネットでの画像・動画配信の時代について行けなくなっている状況が生まれてきているのではないでしょうか。







Last updated  2011.05.14 17:45:56
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