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ABECCO-NARARA

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「ならまち」を考える

2011.08.29
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「奈良町小寺巡礼」に参加しました。

奈良まほろばソムリエの松本さん( @yumeyamato )は、奈良のあちこちを案内するツアーを主催されています。8月の最終の土日(27日、28日)には、奈良町の南西部(南風呂、南城戸、鳴川、木辻あたり)に点在する、比較的地味なお寺10ヶ所あまりをめぐるツアーを開催していただきました。

ツアーの全体については、28日に参加された奈良倶楽部さんのブログで紹介されていますので、そちらの方をごらんいただくのが良いかと思います。近くに住んで、普段前を通ったりはしていても、境内やお堂の中に入る機会はめったにありませんので、本当に良い機会となりました。観光寺院ではないお寺に、事前のコンタクトをとっていただいた松本さんのご苦労に感謝したいと思います。

中将姫所縁のお寺が多いのですが。

中将姫が開いた最初の庵という「安養寺」、生誕の地で産湯の井戸もある「誕生寺」、父藤原豊成卿の古墳がある尼寺「高林寺」、父娘の墓や姫が継子いじめにあった話に出てくる「雪責めの松」や突き落とされた崖があるという「徳融寺」など、もと藤原豊成卿の屋敷があったという一帯には、中将姫所縁のお寺が並んでいます。

ただ高林寺の前住職、珠慶尼さまの思いとしては「継子いじめ」を芝居などで面白おかしく強調されるのは、中将姫(法如尼)にとっても本意ではなかろうというお話でした。

さて、最後にお邪魔した徳融寺さんでは、赤ん坊をだいた子安観音や極彩色のお地蔵さまなど、本来のお寺の仏さまの他に目についたのが、この石像でした。

 

奈良町徳融寺にいた「吉村長慶」氏の石像

 「このオジサン、いったい何者?」というところですが、御霊神社近くの薬師堂町の出身で、のちに「きたまち」に「長慶橋」や「長慶寺」を設置したという「吉村長慶」氏の石像なのだそうです。

で、ちょっと角度が難しくて見にくいのですが、こちらの写真2枚もこの方が作られたもの。

 
徳融寺境内の吉村長慶作「大日如来像」
 
吉村長慶「釈迦とキリストを揺すり起こす」石像

 大日如来像と、世界二聖を揺すり起こす吉村長慶なのだそうです。ここは案内板を読んでいただきましょう。

 

徳融寺境内の「吉村長慶」に関する案内板

 

226事件の後の昭和12年に、「軍馬のいななきはすなわち国を亡ぼす」という文言を刻んだというのは、やはりそれだけの世界観を持った人物だったのでしょう。近年、吉村長慶については「宇宙菴 吉村長慶」という評伝が刊行され、奈良が生んだ「奇豪」として知られるようになってきているようです。

キリストと釈迦を揺すり起こして、この世の乱れに対するように促すというのは、まさに奇豪の発想と言うしかないように思われます。







Last updated  2011.09.18 18:05:39
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2011.08.08

お地蔵さんは、子供を守って下さいますが

「お産」の手伝いという話は、あまり聞きませんね。

瑜伽山ふもとの子安地蔵

きっかけは、三ヶ所で行われた写真展でした。そのうち、奈良町物語館で展示されていた17年前の「わたしの奈良写真」の作者の方々のいちばん端に、見覚えのあるお名前を発見しました。(実は、別の一ヶ所での展示作品の作者、桂修平さんの実のお祖母さまでした。)

民家の軒先のような所に立つお地蔵さまですが、周りには花がたくさんあって大切にされている感じです。いったいどこだろうとお話を伺って、「あれはお産を手伝ったお地蔵さんですよ」と教えていただきました。ネットでその話が載っていましたので転記します。

● 騎馬で助産に出る地蔵尊 奈良市
 奈良ホテルの東に、荒池子安の地蔵尊といって、すすぼけた石地蔵が、小堂に安置されて居る。昔、堂守の老婆が、夜中にふと目を覚ますと、お堂の中が何だか騒がしい。聞くと
「今夜は、忙しいのだ。これからお産の手伝いに行かねばならぬ。」
という話声がする。恐る恐る堂内を覗いてみると、地蔵尊が白装束で、白馬に跨って立って居られ、やがて何処かへ出て行かれた。
 翌朝地蔵尊を見ると、全身汗びっしょりとなって居られた。是から、安産を祈るものが段々ふえたが、出産のときには、いつも佛体がぬれるということである。
 (東蕗村)

場所は、奈良ホテル東側の天理街道(R169)を渡り、バス停留所のすぐ裏になります。
瑜伽山のふもとで、隣は奈良ホテルの臨時駐車場です。

このお地蔵さんの話は、「奈良町物語館」の命名の元になった「奈良まちづくりセンター」発行のパンフレット「奈良町物語」に横井紘一さんの挿絵入りで載っているのですが、現在は絶版となっています。奈良の町々の面白い話が載っている冊子、ぜひ復刻してほしいものです。

 

 







Last updated  2011.08.14 08:32:21
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2011.07.19

ということは、片方が判ればおしまいです。

なので今回で、一挙ネタあかしをします。

抜け路地2は、三条通りの専念寺とNTTのビルの間の路地、
これの出口は、抜け路地03でやすらぎの道・率川神社南側の路地となります。
ただし、こちらの他に北向町の常徳寺の横に出る道もあります。

※この辺は、三条通りの現状ともあわせてあらためて詳しく取上げるつもりです。

さてもう一組は、「奈良町」を案内する時におぼえているととても便利な路地です。

元興寺極楽坊を過ぎて、鵲町(かささぎ)を東へ曲がるとこの公納堂町(くのど)の景色。左側には吉野葛の「天極堂」さんが経営する「一福茶屋」、そして「ならまち工房」(実はここもちょっとした「抜け道」ですが)、さらに人気抜群の町家カフェ「カナカナ」などがならんでいます。

 

奈良町公納堂町の通り

 

そしてさらに東へすすむと、左手に菩提町のならまち大通りへぬける道がありますが、反対側に見えるのがこれ、興善寺の駐車場です。よく見ると、角のところにカフェの案内看板が出ていますね。

 

公納堂の通りに面した興善寺駐車場

 

上の写真、右奥に見えている興善寺の山門に行き当たって、東を向いたところが、抜け路地05の写真です。それを角度を少し変えて、よく見通せるようにしたのが、次の写真。

 

興善寺門前から路地を東へ向く

 

突き当たりは、奈良での「手打ち蕎麦」のお店としてかなり早くに有名になった「玄」の入り口。後ろには、今西家書院の向うに清酒「春鹿」の酒蔵などが見えます。左手の自転車の置いてある先あたりが、角に案内のあった雑貨&カフェ「チャポロ」さんのお店です。

実はこの先、突き当たりをまた右に曲がる道があります。それがこちら。ちゃんと抜けられます。

 

興善寺東側の路地を南へ向く

 

途中には、カレーとコーヒーの「香炉里」(こるり)さんのお店もある。写真の突き当たりが「チャポロ」さんで、右手が「玄」になります。

 

興善寺東の路地の中にあるカレーの店「香炉里」

 

そしてこの路地を抜けたところが、抜け路地6の写真ですね。違う角度からみるとこんな感じ。電気店の先、興善寺の南門へ入る通路をはさんで、十輪院さんの塀が続いています。

 

路地から出てきた十輪院の通り

 

十輪院のあたりからふり返ると、こんな感じ。右手の角にもなにやらお店の案内が出ています。

 

十輪院の通りを東にふり返ると紀寺中通りの角に看板が

 

角を曲がって、さっきの路地の続きにあたる「紀寺中通町」も覗いてみましょうか。途中からはそこそこ道幅があるようです。突き当たりは紀寺草小路町ですね。

 

紀寺中通町の通りを南に向く

 

こちらの通りにも、こんな雑貨のお店があったりします。

 

紀寺中通町のお店「ろあん」

 

で、知る人ぞ知る人気のお店が、こちらの「よつばカフェ」さん。

 

 

紀寺中通町の人気店「よつばカフェ」

 


先の十輪院の通りに戻れば、その門前にも、こんな町家フレンチのお店があったりします。「めしあがれ ボナペティ」さん。


十輪院斜め向いの町家フレンチ「めしあがれ」

さて、公納堂町から、法徳寺、十輪院、興善寺と、三軒のお寺が並んだ十輪院町に抜ける今回の路地、おぼえておくと絶対にお得です。周辺には結構イイお店もあるし、なによりも、二つの通りをワープできるのが便利です。

御霊神社から十輪院などを見て、カナカナや今西家へ行きたいという時に、いちいち毘沙門町・鵲町へ戻ったり、天理街道へ抜けたりしなくとも、平行移動ができますから、お客さん連れて奈良町を案内する際には絶対におぼえておくべきですね。

 







Last updated  2011.07.19 23:25:36
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2011.07.10

「春日曼荼羅」にはいくつかの種類があります。

明治39年1月の、奈良帝室博物館(現在の国立博物館)新年特別陳列では、奈良市内を中心に各町や社寺に伝わる「春日曼荼羅」を60点、20日間に渡って展示されたという記録があります。東城戸や南市所有に代表される「宮曼荼羅」(春日大社の境内図と五柱の神=仏を描いたもの)が14点、興福寺の諸堂・諸仏と組み合わせて表現された「社寺曼荼羅」が8点、西城戸町所有など鹿の背に五柱の神(仏)が乗った「鹿曼荼羅」が21点、鹿島立ちや浄土曼荼羅、地蔵曼荼羅など7点、そして、「春日赤童子像」が10点となっています。

実は、6月の押熊常光寺の聖天さんご開帳で拝見したたくさんの絵像の中に、お伊勢さんの「雨宝童子」とともに春日の「赤童子」もありました。奈良町に伝わる「赤童子」も見たいなと思っていましたら、「フルコト」さんの行き帰りに、こんなポスターを発見したのです。

 

東包永町「赤童子祭り」の手作りポスター

え?赤童子祭って、あの春日赤童子のお祭りなの。春日講とはちがうのかな。とにかく会所はどこだろう。山田熊夫先生の「奈良町風土記」には、東包永についてこう書いてありますね。「町内に弁財天をまつる。町有の春日赤童子像、三社託宣の掛軸もある。」

おっと、その前に「東包永町」ですが、これは「ひがしかねながちょう」と読みます。西包永町もあって、その南側に、東笹鉾町、西笹鉾町(ささぼこちょう)というのもあります。「包永」というのは刀匠の「手掻文殊鍛冶平三郎包永」が14世紀に住んでいたからとされていますが、この町を通る一条通の東の端は転害門(手貝、手掻)につながっています。

さて、東包永町の会所は、一条通から北へ入っていく道の先にあるということなので、9日の夕方おじゃましてみました。途中のちょっとしたスペースで「金魚すくい」や「みたらし」など子どもたちの喜びそうなお店が作られていましたが、その先に「会所」がありました。

東包永町会所での「赤童子祭り」

はやくも子どもたちが集まっていますが、会所の一番奥に祭壇、そして手前の部屋では、子どもたちの「くじ引き」の用意で、景品がひろげられていました。祭壇の写真の前に、いただいた由緒書きをスキャンしたものをご覧下さい。

東包永町赤童子祭由緒書き

 

どうやらこの記述によれば、明治になって奈良・大和に疫病が起こるようになり、この町内にも患者が発生したため、町の守り神として春日若宮を表わす赤童子をお祭りするようになったようですね。やはり一般的な「春日講」の拝礼とはちょっと違っているようです。

さて、声を掛けさせていただいて、祭壇の写真を撮りました。左に赤童子、右側は春日・伊勢・八幡の「三社託宣」(神様の言葉)の額です。特徴的なのは、お供えものに「赤童子」の名に相応しく「赤いお餅」が右側の三方に上がっていることです。そして、左側はスルメイカですが、中央にも米、塩とともに小豆が乗っています。

東包永町「赤童子祭り」祭壇の春日赤童子と三社託宣
 

赤いものには、天然痘などの厄除け効果があるという説もあるようですし、明治期の疫病から、大切な町内の子どもたちをまもるために赤童子をまつり、赤いものをお供えしたのでしょうか。お祭りの日程は、現在は7月の初旬の土曜日曜ということのようです。

なおこちらのお祭りについても、調査と記録のために「奈良まちづくりセンター」の方が見えていました。







Last updated  2011.07.18 17:35:11
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2011.07.07

弁財天のお祭りでもあります。

奈良町では、餅飯殿にも東向にも弁財天がお祭りされて、7月の6・7日に祭礼が行われます。

<この間、更新が止まっていましたが、とりあえずこの辺からさかのぼって再開してみます。>

 

餅飯殿弁財天宗像神社

 

スーパー「オーケスト」の向かって右手、マンション入り口との間に、餅飯殿の弁天さん(宗像神社)がお祀りされています。吉野の天河弁財天より勧請された七弁財天の内五柱を正面の神殿に祀り、のち町家より一柱をこの場所に迎えたという。

 

餅飯殿聖宝理源大師堂

 

右手の聖宝理源大師堂も、お祀りの時には扉が開いて中を拝見することができます。 聖宝理源大師の御像に、神変大菩薩役行者像、「餅飯殿」のいわれとなった箱屋勘兵衛が祀られています。(上記2点の写真は以前に撮影したもので祭りの当日のものではありません)

理源大師は元々東大寺で修行され、のち吉野大峰山で修験道を修め、醍醐寺の開祖となった方。この春公開された東大寺本坊の持仏堂にも御像がいらっしゃいます。

今年は、猿沢遊歩道(率川を暗渠にした道路)に面したミツハシさんの空き店舗で、餅飯殿町財団のさまざまな「お宝」が公開されていました。(以前はマーチャントシードセンターの2Fで行われたこともあります。)外からガラス越しに見えるところに、「釈迦涅槃図」が掲げられていました。いろいろ映り込んでちょっと見にくいですが、色鮮やかで美しいものです。

 

餅飯殿財団所蔵の釈迦涅槃図

 

そして、こちらは「山上講」といえばこれという「吉野曼荼羅」。中央は蔵王権現さまですね。権現さまの足下右手には、神変大菩薩役行者が前鬼・後鬼とともに見上げている。左上が牛頭天王(スサノオ=祇園さん)、下から二段目は、左の勝手明神と右が子守明神だそうですが、毘沙門天と弁財天のようにも見えます。黒袍の4方は、金精明神など吉野山の神様たちのようです。上のほうに描かれた山の中には「八大童子」が点在しています。

 

餅飯殿財団所蔵の吉野曼荼羅図

 

とにかく、これだけの色鮮やかな曼荼羅が伝わっているというのはすごいですね。他にも、「餅飯殿」という名称のきっかけともなる山上講の縁起を記した古文書や、昔の餅飯殿町の戸別地図など貴重なものが展示されていました。また、そういう「お宝」を収めた箱なども相当な年代の文化財といえそうです。

現在「ならまちづくりセンター」の研究者の方が、奈良町の「会所」について調査・記録をすすめておられるようで、この餅飯殿の文化財についてもプロのカメラマンの方が丁寧に撮影をされていました。奈良の町の豊かな文化財を正確に伝えていくことは大いに意義のあることだと思います。







Last updated  2011.07.18 10:56:12
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2011.06.24

以前、中街道の「上村(井田)邸」を紹介しました。

その後、少し前に上村家が購入した、西隣の二軒分の敷地ともども売却されたことがわかりました。おそらくマンションなどが建てられるのではないかといわれていますが、町家そのものがどうなるのかはまだよく判りません。今回はその周辺をあらためて紹介したいと思います

 

登録有形文化財旧井田邸に向かう道1

 

まず、寺林の通りと中街道の四つ角から南へ向かいます。左にあるのが、もと「なかにし旅館」の建物。

 

中街道中西家新宅

 

その中西さんが新しく建てられたのがこのお家です。奈良らしくてイイですね。

 

中街道中西旅館の建物

 

もと旅館の方はこんな感じ。ちゃんと防火用の袖壁が突き出ているし、虫籠窓も美しい。

 

登録有形文化財旧井田邸に向かう道2

 

「なかにし」さんの側から見るとこんな感じで、旧上村(井田)邸、田村眼科医院と続きます。

登録有形文化財旧井田邸2

登録有形文化財旧井田邸1

この2枚が、旧上村(井田)邸の表構えです。太い格子が、奈良町ならではの形ですね。

 

登録有形文化財旧井田邸と田村眼科医院

 

お隣の「田村眼科医院」の建物も古い医院の建物として貴重な存在だと思います。今は、主として向いの新しい建物で診療されています。 二軒とも大きさが違いますが袖壁がついています。

 

東城戸町寺田邸

 

その少し先にある「寺田邸」も小ぶりですが美しいお宅です。右に見えるのは、町家ではなくて景観形成のガイドラインに沿ってデザインされた「賃貸マンション」です。表からは町家に見えますが、中はエレベーターのついたマンション。その向いは、前に紹介した製墨の松寿堂さん。

 

東城戸町の松寿堂

 さて、井田康子先生の生前に、通院や介護など車の出入りの便をということで、宅地の裏側に隣接して、寺林通り側に面した二軒を買収されたのだそうです。実は、上村邸には裏に、かなり大きな畑地が二筆あり、東城戸の大国社(町会所)と接していましたが、さらにその西側に敷地が広がったことになります。次にそちらを確認してみます。

 

寺林通りに面した旧木下家と旧竹内家

 

まず中街道から西側を見たところです。寺林通りの北側に、少し傷んでいますが美しい町家が二軒並んでいます。

 

大国社向いの旧木下家、旧竹内家

 

それを正面から見たところ。ちょうど大国主命神社(東城戸町会所)の向い側です。餅飯殿の和菓子店「萬々堂」さんの持ち物だそうで、以前は社宅のように使われていたとか。

 

東城戸大国主命神社の西側

 

さて、その大国主命神社の西側と南側に「旧上村(井田)邸」の敷地が広がります。大国主命神社の社殿や、町会所の建物が塀越しに見えています。

 

旧井田邸の裏側には大きな土地が広がっている

 

左手が大国主命神社の敷地、そして地道のままでスロープの手前までが一軒分の敷地、右手の舗装された部分は、もう一軒ずっと奥まで細長い賃貸駐車場でした。

そして、奥に見える大きな木ともう一本、その手前のスロープなどの広い土地が、もともと上村(井田)邸に附属した畑地だったそうです。

ともかく、これだけのまとまった広い土地が、町家の敷地以外にあるようですし、なんとか登録有形文化財の「家屋部分」には手をつけずに「開発」ができるのではないかというのが希望的な見方です。購入されたのが、近くで事業をされている方だということも漏れ聞いていますし、これだけの敷地や建物を奈良町に相応しい方法でうまく活用していただきたいものです。 町家についても単に「保存」というだけではなしに、その魅力的な活用の方法も考えていく必要はありそうです。







Last updated  2011.06.25 18:36:13
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2011.06.19

奈良町ラビリンス解答編4は「きたまち」です。

あの地道の路地はどこやらわからんと、奈良町の住民にもいわれましたが、実は「きたまち」にある抜け路地でした。抜け路地5 と 抜け路地02 がそれです。

きたまちの東西に通るのは一条通、その東の突き当たりは転害門です。

 

抜け路地解答編3-1


その向い、一条通の南側にはお餅の店「威徳井屋」さんがあります。右が一条通。

抜け路地解答編3-2

 

少しすすむと「まんとくん饅頭」などでおなじみの「萬林堂」さん。師匠筋の萬々堂さんの「ぶと饅頭」に倣った商品を「春日二梅枝」という名称で作ってはります。例の「レインボーラムネ」が手にはいることもあるようです。

抜け路地解答編3-3

 

一条通をふり返るとこんな感じ。「ハタリ」というのは、鹿の角細工をされているお店で「まちかど博物館」にも指定されています。たしかご主人が「畑里さん」だったような。古~いジョン・ウェインの動物映画に「ハタリ!」というのがありましたね。

抜け路地解答編3-4

 

少し戻ると、こんな住宅地図の看板を見つけました。左上の方にあるのが、koharu cafe と フルコトさんのあるお家らしい。ムムッ、これは「抜けられる」ぞ。

 

抜け路地解答編3-5

 

ということで、カイロプラクティックの看板の所から路地に入ってきました。ふり返ると、両側のお家は緑が一杯、でもこれ、ちゃんと抜けられるの?

 

抜け路地解答編3-7

 

途中で、畑のような所とか、造成中の空き地とかがありますが省略して、とりあえず「koharu cafe」さんの真っ白い壁です。 端っこに「フルコト」の看板も。

抜け路地解答編3-8

 

「フルコト」さん、「二階」というのでてっきり「koharu cafe」の二階かと思ったら、さらに奥にもう一軒お家があってその二階なんですね。ビックリ。一階は「器人器人」さんというのが入るらしい。

抜け路地解答編3-9


フルコトさんに上がって、窓から眺めると、この辺がぬけてきた路地かなあ。フルコトさんのお店の様子については、奈良倶楽部さん、nara nakaさんが詳しく書いておられますので、そちらをどうぞ。

 

抜け路地解答編3-10

 

そして、若草中学=多聞城跡へ続く道に出てくるとこういう看板があります。出題の写真の頃と比べると、看板が変わっていますね。

 

抜け路地解答編3-11

 

一条通との交差点。まあ、普通はこちらの道から進んで、右へはいるんですけどね。その先には、若草公民館、若草橋を渡ると多聞町、北へすすめば若草中学ですが西へ行くと聖武天皇陵・仁正皇后陵があります。(光明皇后というのは通称で、正式のおくりなは仁正皇后なのだそうです)

 

抜け路地解答編3-12

 

最近、「きたまち」は、ユニークなお店がいろいろと増えてきています。「ならまち」が満杯になってきてるのでしょうか。にしても、きたまちの「入り口」ともいうべき初宮神社さんもうちょっとキレイにならないかなあ。春日大社の「もちもの」らしいですけど、式年遷宮でお金がないのか知らん。今は、なんか崩れてしまいそうな塀とか社殿だし。







Last updated  2011.06.22 12:33:38
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2011.06.18

「三条村」も、奈良町なんです。

30年ほど前の奈良の地図では、国鉄奈良駅の周辺に「三条町」と書かれて、三桁の地番が記された地域が大きく広がっていました。旧国道から西の方では、現在すべて住居表示が施行されて、三条添川町、三条栄町、三条桧町、三条宮前町、三条本町、三条大宮町などとなっています。一方、東の方は、正式地番は未だに三桁のままで、三条池町、三条細川町、三条横町、三条三綱田町、三条今井町の他、三条通り2丁目、三条通り1丁目(油阪地方町、大宮町1丁目の一部含む)などの通称町名=自治会名が使用されています。

明治22年に、奈良市の原型となる自治体「奈良町」が成立した時には、「上三条町」「下三条町」とともに「三条村」が加わっています。同様の例は、紀寺村と紀寺町、京終村と京終町、京終地方西側町、京終地方東側町、木辻村と木辻町、油阪村と油阪地方町などにみられます。

少し、奈良町の歴史をかじった方なら、「そうか、奈良奉行の支配する奈良廻り八ヶ村というのがあったし、三条村もその一つか」と思うところなのですが、どっこい「奈良廻り」には、三条村は入っていません。八ヶ村は、城戸(現・大森町など)、油阪(現・大宮町)、杉ヶ、芝辻、法蓮、京終、川上、野田(登大路など)となっています。

それどころか、江戸時代の奈良町絵図には、上三条丁、下三条丁の他に、 三綱田、今井丁、横丁、ほそ川などの、現在は「通称町名」として扱われているような町名がちゃんと出てきます。つまり「旧三条村」という三条横町、三条細川町、三綱田町、三条今井町なども、もともとは奈良町に含まれていたということです。

とはいえ、旧三条村には、大きな農家らしい建物が今も残っています。高架になったJR奈良駅のすぐ近くに、こういう建物があるということはおぼえておいて損はないと思います。

まずは、三条細川町あたりの家屋の写真から。

旧三条村福村家1
 
上の続き
 
旧三条村福村家2
 
その向い側

旧三条村松田家

 

こちらは、三綱田町の方、母屋の姿がよく見えませんが。

旧三条村三綱田町の大西家

 その一軒おいて並びです。

旧三条村三綱田町の飯田家

三綱田の道は「瓜屋辻子」に行き当たりますがその角です。

旧三条村、三綱田町の松田家

このあたり「松田」「福村」「飯田」というお宅が何軒もあります。

ちなみに、三条通りから南に延びる横道ですが、西から順に「瓜屋辻子」(奈良銘品館・柿の葉寿司のところ)、「(三条)横町」(もと近畿大阪銀行)、「(下三条町)新道」(喫茶ピノキオ)と古絵図では記されています。この三条横町ですが、落語「鹿政談」に出てくる豆腐屋のあった「さんじょう、よこまち」と同一なのかどうかはよくわかりません。とりあえず現在豆腐屋さんはありません。

江戸時代に「丁」切りされていたにもかかわらず、なぜ「三条村」として明治を迎えたのかの大きな原因は、やはり「農家」だったことが大きいのではないでしょうか。西の方に田畑を持って農業を続ける上で、水利などを維持するためには「村」のまとまりが必要だったのだろうと思われます。その水利組合の石碑が、「旧三条池」あとのマンションの傍らに、「三条会館」「不動堂」とともに立っています。

三条農家組合石碑
 
不動堂には、三条通り角の「多田屋食堂」にあった弥勒石仏なども安置されています。
 
不動堂弥勒仏説明板
 
旧三条村の不動堂

 







Last updated  2011.06.20 08:40:34
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2011.06.17

「奈良町ラビリンス」解答編その3は、「四の室辻子」

その3は、けっこう知る人も多いところ、抜け路地1抜け路地04ですが、この写真をまずご覧下さい。

四之室八王子神社の説明札

 

 抜け路地04の写真にも「四ノ室辻子」の文字が見えるように、この間の路地には名前がついています。今は元林院町で一つの社にまつられている四之室神社と八王子神社ですが、おそらくこの路地の方に四之室神社があったことから、四之室辻子と呼ばれるようになったのでしょう。この看板では「よのむろ」と読まれていますが「しのむろ」と読む方もある。「むろ」が訓読みですので、そろえるなら「よ」なのでしょうけど。

 

元林院から三条通りへの出口

 四之室・八王子神社のある元林院の通りへは、三条通りの樽井町からこの道を入ります。車の駐まっているあたりに石の欄干が見えますが、かつて菩提川にかかる「絵屋橋」があった名残り。かつてこのあたりに絵師が住んでいたことから付いた名前だそうですが、いまは暗渠になってその上が「猿沢遊歩道」と呼ばれています。この遊歩道が樽井町と元林院町との境目ですね。映画の「沙羅双樹」では、娘の「夕」も加わっているバサラ祭りの様子を、この角から樋口可南子さんたちが見ているシーンがありました。右のカメラ店は変わりませんが、左の方には当時喫茶店(二階はショットバー)でした。

 
元林院町のまんぎょくあたり
 

絵屋橋を越えた先の元林院の通りのようす。「いずみ」の先に「まんぎょく」の看板が見えます。その少し先の向い側に、現在の「八王子四之室神社」が祀られています。今も、花街の名残の町家が残る、しっとりした雰囲気の通りです。「まんぎょく」は、「鹿男あをによし」のドラマで、小川先生とマドンナこと長岡先生がシゲさんの個展(@テンテンカフェ)を見たあと食事したレストランのロケ地になりました。

抜け路地08


そして、ここから右に入った先が本当の抜け路地「四之室辻子」になります。この角にはいろんなお店の看板が出されています。

元林院検番でお稽古中
 

路地に入って少し行くと右手から、三味線の音が聞こえてきました。ここは、元林院花街の検番です。本来は芸妓さん舞妓さんの「元締め」の事務所ですが、今も音曲や踊りの稽古が続けられています。

建築家山下さんの元林院写真ギャラリー
 

検番事務所のとなりには、建築家の山下さんがご自分の事務所に元林院花街の様子を伝える写真を展示した「元林院写真ギャラリー」があります。そして、もう少しすすむと左側にあるのが、奈良でのエスニック雑貨店としてはたぶん最も古いのではないかと思われる「諸国民芸雑貨MARUMARU」さん。実は、後に2軒お隣にインド料理屋さんもできたので間違われることが多いようですが。

四室辻子の中にあるインド雑貨のお店マルマル

 
そして、一段と道が狭くなるあたりにあるのが、創作料理とお酒の店「樹樹」さん。大阪生まれだけど奈良が大好きという元モデルのママさんのお店には、奈良の博物館やお寺の仏像や奈良町のお店などの情報がいろいろと集まっています。(鳥や獣肉は自身が嫌いなので出さないのだそうです)

四室辻子にある飲食店「樹樹」
 
餅飯殿の四室辻子入り口はこのあたり


そして、普通の傘は、ひろげたままではとても通れないという狭い路地を抜けると、餅飯殿のアーケード街です。アーケード柱の根方に出された何枚かの看板がなければ、そこに路地があることすら気づきにくいのではないでしょうか。実はこの「四之室辻子」という地名は、江戸時代にいろいろと刊行された「奈良町絵図」にもちゃんと掲載されている「歴史ある」路地なのです。3月6日の記事で取上げた「和州奈良之図」(天保十五年)では、今回の場所は「えや丁」「志のむろ」などとして表示されています。

元林院花街は古典文学などにも登場してきます。落語では、冬場の元林院で泊まり続けた大阪の若旦那が退屈紛れに野施行にでかけ、その縁で狐が恩返しにやってきてうどん屋を手伝うという「吉野狐」という話などもあります。

上の「樹樹」の写真で、お向かいの家の壁がかなり大きいことが判ると思いますが、実はそこは「桔梗屋」という大きな旅館だったそうです。餅飯殿の古い写真にも「桔梗屋」の看板が見えます。ただ、この路地はある意味で「異界」だったようで、「子供は入っていったらアカンで」といわれていたそうですが。







Last updated  2011.06.18 19:38:59
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2011.06.15

「奈良町ラビリンス」解答編その2

さて、二つめの解答は、こちらにしましょうか。

抜け路地3抜け路地06 ですね。でもこれ、06の方は「あ、見覚えが」という方もあるかも知れませんが、3の方は、知らない方が多いでしょうね。

ということで、まずはこの写真から。

奈良町解答編2-1

でも、これでも判らないかも。ここは、西新屋町の南の端です。手前の方の右手に、小塔院への入り口や、「こんどう豆腐」や奈良オリエント館などがあります。左へ曲がると、御霊神社の方へ行けますね。

 

奈良町解答編2-2

 

上の写真の突き当たり(ここは抜けられません)を右へ折れるとこんな風景です。白い塀は「聖光寺」のもの。映画「沙羅双樹」では、このお寺での「数珠繰り」の光景が出ていたはずです。黒板の看板が出ているところが、抜け路地の「入り口」なのですが・・・・・・・・・・・・・

実は「沙羅双樹」では「俊」の双子の兄が、このあたりで「神隠し」に遭ってしまうのです。この塀の内側の巨樹は、そのシーンで印象的に使われていました。

 
奈良町解答編2-3

「茶の湯」というリラクゼーションのお店が路地に面してあるようです。「神隠し」のシーンは、乳母車にカメラを乗せてこの辺の路地をガタガタと走らせていたので、見る側にとってはちょっとキツイものがありましたね。手前の門は「白山神社」です。中の写真は、こんな感じ。↓聖光寺の屋根が見えています。

抜け路地解答編2-4

ここの路地はちょっとキツイ(そりゃ神隠しが起きるぐらいw)です。家の軒先をかすめて通りますので、やはりちょっと遠慮がちに通り抜けることに。

そして出てくるのは、三棟町の誕生寺の横(抜け路地06)です。誕生寺は、中将姫が生まれたところということになっています。その前は、もう東木辻町で、昔の遊郭街。下の写真の建物や、右手の「静観荘」などは典型的な遊郭建築の名残です。

 

抜け路地解答編2-5

「奈良町ラビリンス」解答編、まずは映画「沙羅双樹」絡みの二ヶ所をご紹介しました。そりゃ「迷宮」だから「神隠し」もありますわねえ。ご訪問のときはくれぐれもお気をつけて(笑。







Last updated  2011.06.16 14:48:46
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