2011.09.25

高山右近は大和・宇陀にいた。

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カテゴリ:奈良

榛原に「高山右近の碑」があります。

先の旧「伊那佐郵便局」へ立ち寄ったのは、実は、高山右近の碑へ行った途でした。但し以下の写真は、その時ではなくて今年の1月のものです。

 

宇陀市榛原の「高山右近の碑」

 

宇陀市の榛原のうちでも旧伊那佐村の澤、大貝というあたりに、「高山右近の碑」と右近親子の城「沢城跡」があります。
榛原の町から大宇陀に向かう宇陀川沿いではなくて、菟田野に向かう芳野川沿いに、県道31号をさかのぼり、比布で県道を外れて伊那佐文化センターを過ぎて川を右岸へ渡りしばらく行くと、この写真の「高山右近の碑」があります。

昨年12月、NHKの「歴史秘話ヒストリア」の放送の中で「高山右近がキリスト教の洗礼を受けた城」として、大和宇陀の沢城が紹介されました。 その時までは、キリシタン大名と奈良との関わりなど思いも寄らないことでしたので、早速、現地を確認に赴いたのでした。

 

宇陀市榛原の沢城「下城」あと

 

先の「右近の碑」から、少し南へ行くと「沢城跡」「沢」を示す矢印があって東へ進む道を示しています。その先にあったのが上の写真と、下のような表示板です。

榛原沢城の居館「下城」の案内板

まり、沢城というのは「宇陀三将」の一人、沢氏の城なのですね。三将とは、沢氏の他、秋山氏(秋山城、のちの大宇陀松山城)、芳野氏(菟田野東郷、下芳野の芳野城)を指し、伊勢国司北畠氏のもとで宇陀を分割支配していたという。
高山右近らは、松永久秀が大和に侵入し宇陀をも支配した時に、その武将として父の高山久照(飛騨守図書)が沢城に入城したとされています。その後、久照は、松永久秀から奈良でのキリシタンと仏教との「討論」の審査役を命じられ、その際にキリスト教の教えに感銘して、宣教師を沢城に招いて自ら洗礼を受け、家族と共に入信したということです。もともと摂津の出身であった高山家は、のちに高槻に移り、沢城には再び沢氏が入りますが、豊臣の天下統一の頃には廃城となっていたようです。
宇陀の三将は、北畠氏のあと蒲生氏郷や藤堂氏などの配下に名前が見えるようですが、江戸期まで続いたかどうかはよく判りません。

 

榛原沢城跡を居館「下城」跡より望む

居館「下城」跡よりのぞむ、沢城跡の方向です。

大河ドラマのような「大大名」こそ生まれなかったものの、大和にはさまざまな武士たちの足跡があったのですね。
奈良は、情報戦の武器とも言える「墨」「筆」の産地であったと共に、武器そのものの「刀鍛冶」や「甲冑」の産地でもあったようです。ちなみに徳川幕府お抱えの三大甲冑師「岩井」「春田」「明珍」の三家は、すべて奈良の甲冑師だそうです。






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Last updated  2011.09.27 00:58:42
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