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『かぐや姫の物語』高畑勲監督スタジオジブリDVDで観た。
この脚本のアニメに照らし返されると、もともとの原作の『竹取物語』は解脱パラダイムの物語であることが改めてよくわかる。どんな貴公子も帝の求愛さえも拒否して月へ還るかぐや姫は、歓びも悲しみもない生死を超えた世界へと解脱する。この原作自体すごい話だけれども、ただひとつ、それじゃあ、なんでわざわざ地球に来たの?ということがわからない。 しかし『かぐや姫の物語』の前半の、「鳥虫獣とともに暮らし、幼なじみと素朴な恋もする、田舎での少女時代」は、なぜこの星に来たのかというその問いに応えてくれていた。こんな風に生きるために生まれてきた(月から地球に来た)のだということを切実に感じさせてくれた。ここは部族シャーマニズムの世界である。 しかし、都に上り、五人の貴公子や帝に求愛されて難題をふきかけて断るおなじみの展開は国家的段階のシーンである。帝の求愛すら断るのは、原作でもそうだが、まことにかっこいい。しかし、原作ではそれはあくまでも月という超越的次元を見定めてのことだ。 ところが、このアニメではむしろ、鳥虫獣とともに暮らす大地とともにある暮らしを懐かしむがゆえに都での「虚しい華やかさ」を拒否するのだ。しかし「虚しい華やかさ」の極点、帝にセクハラされた瞬間にかぐや姫は月に「迎えにきて」と願ってしまう。往生を発願してしまうのだ。だが、それをまた後悔もする。もう一度田舎に戻って鳥虫獣そして彼とともに暮らしたい。そのために地球に来たのだから。 でももう往生を発願してしまったことは取り消せない。月からの迎えは阿弥陀如来の来迎にあまりにもそっくりである。天の羽衣を羽織った瞬間、かぐや姫は歓びも悲しみも忘れ、完全に透明に空(くう)に解脱する。しかし、魂の底の底にかすかに残る「かなしみ」。地球に生まれ、鳥虫獣、彼と共に生ききりたかったという「心残り」。 このアニメは宗教的に観て、部族シャーマニズム、国家的段階、超越性宗教(解脱パラダイム)のすべてを含み、それを物語化している。今まで観たすべてのアニメの中で『千と千尋の神隠し』に匹敵するぐらいすごいできばえだと思った。『君の名は』などは、これには遠く及ばない。 都での暮らしのシーンや貴公子たちの求婚とそれが破綻していくおなじみのシーンが退屈だったが、それを言うと一緒に見てた人らが、「生きることに退屈な部分があることを描かないと全体にならへんやん。本当にわがままやなあ」と言っていた。(^0^) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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反権力の視点は???
(2017.09.10 16:59:41)
まー(シモパ)さんへ
田舎での自然とともにある生活をしにこの星に来た。 都での生活は虚しくどんな貴公子も帝の求婚も断り、月へ還る。 というのは、反権力だと思いますよ。 月へ還るのではなく、田舎に戻るのが本当の願いだったかもしれないと最後まで逡巡しますが、 田舎も反権力、月も反権力。 都での生活だけが、権力とともにある生活を表現していたと思います。 (2017.09.26 03:33:39)
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