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この本はZOOMを使って三回にわたって行われた緊急ミーティングの話し合いをもとに作られている。
その最も直接的なきっかけになったのは京都ALS嘱託殺人事件の発覚。また三回の緊急ミーティングの開催は、コロナの流行の先行きが最も心配されいた時期だといえる。 コロナの医療崩壊が一部で起こり、またさらなる崩壊が強く懸念されていた時期であった。 そのため人口呼吸器トリアージ(足りないとき、どのような判断、線引きで優先順位を決定するか)が緊喫の問題として、提言や議論の背景に影を落としている。 日本においてコロナの流行がやや落ち着いている現在の時点で見ると、あの頃の異様なまでの緊張感はやや緩和している。 また、コロナという現象そのもに対する認識や、ワクチンの有効性に対する認識、イベルメクチンなどの特効薬とされるものの効果に対する認識も様々な議論を経て、それぞれの認識を持つに至っている今の時点から見ると、たとえば私の持つに至った観点から見ると、まだコロナのことがよくわからないままに行われていた議論という側面はある。 しかし、それはだから意味を減じるというわけではなく、それだけの緊迫感の中だったからこそ、いずれにしろ考えなければならない問題が、まさしく緊急課題として突きつけられている中で深められた機会だったということができる。 もしも、コロナという目前の緊迫した状況がなくても、ナチスのT4政策と呼ばれた安楽死政策で殺されていった障碍者たちという歴史的事実。 ヨーロッパを中心に安楽死・尊厳死・終末期などという言葉が十分に検討されないままに進行していた<いのち>の線引きという問題。 これらについて、障碍の当事者や、ケアする側の当事者や、人文科学的な立場から思想的な切込みをするべき立場から、考え詰めなければ問題はいずれにしろ、多岐にわたっており、一つ一つが一筋縄ではいかない側面を孕んでいた。 この場合、一筋縄でいかないというのは、それ自体が大切な要素である。 一筋縄で合理的な判断が下され、さらにはそれがすべり坂を下って、いつのまにか拡大されいくこと。 そのことへの懸念が本書の全体を通底している。 それぞれの論者、提言者は自分の立場を踏まえて意見を述べている。 が、そこでたとえば安楽死・尊厳死について、賛成反対くっきりとした意見を言ってすませるのではなく、 その線引きでいいのか、それはさらにすべり坂をすべって拡大していかないか、そういった懸念や躊躇、迷いや苦しみがそのままに語られているといっていいだろう。 具体的には年齢で区切って「延命治療」を無駄と見る施策をとる国への疑問。 「終末期」であるという判断を専門家が行い、そうでないと判断されたものと<いのち>の扱いに事実上の線引きが行われてしまうことへの疑問。 重病や重度障碍などの状態にある人について、最大限のケアなしに、QOLが低すぎるから死んだほうが幸せではないかと考えたり、「自己決定」の名のもとに「本人が望んでいるから」と死について「医療援助」することへの疑問。 などなどである。 たくさんの言葉に「 」を付けざるを得なかったのであるが、これらの言葉の使用方法そのものの中にすでに罠があり、十分に検討されたうえで用いられているのではないという問題意識も強い。 結局、割り切れないままのものを割り切らないで思想的な営為を継続するという(はっきりしない?)立場が強いといえなくはない。 しかし、とりあえず、上からの「合理主義」でほかならぬ<いのち>そのものが選別されてしまうよりは、ここでもあそこでも「ちょっと待ってください」と再考を促すこの本の立場に私は基本的に賛同する。 まただからといって、すべてにおいて、何が何でも命を守れと叫んでいるわけではなく、最大限の自覚を失うなと静かに促しているのが、この本の立場だといえる気がする。 私自身に関していえば、13分間の心肺停止を経て、意識回復せずに死ぬと言われていた10日間の経験に想いを馳せずにはいられない。 人工呼吸器は口から入れている場合、感染症にかかりやすい。ゆえに長期的な延命を企図するなら気道切開をしてつなぐのが望ましい。長い植物人間状態の末に結局意識を回復せずに死ぬことが予想されるが、気道切開しますか?と家族は問われていた。 もっと医療現場が逼迫している状態なら、「諦めたほうがいい」という有形・無形のプレッシャーが強くかかってもおかしくないような病態であったと言えるだろう。 しかし、私は意識を回復し、低酸素脳症後遺症としての身体障碍は残ったものの、こうして本を読んだり、レビューを書いたりするまでに至っている。 実のところ、蘇生してからの十年弱の間に三冊の書籍を書き、一冊の旧著(絶版)の改訂増補版をnoteに発表したりもしている。 いや、本を書いたり、仕事をしたり、なんらかの活動ができるように至ったから生きていてよかったのだとするのも、おかしい。 誰かと少しでも意志疎通をし、泣いたり、笑ったり、愛し合ったりする瞬間があるだけでも、それがたとえ言葉を介さぬ一瞬の目くばせであっても、<いのち>には見捨てられない「価値」「意味」があるのではないか。 そのような個人的な思いを記し、<いのち>についての合理的な線引きには最大限の自覚で思想的営みが続けられなければならないという言明を改めて行って、この本のレビューを閉じたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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