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2006/07/27(木)11:09

睡蓮

YOGA(40)

不忍池の蓮がほころび始めた。 泥の中から這い出てきて、あれほどまでに美しい花を咲かせるその「凛」とした姿は、俗世の汚濁に塗れもんどりうってる私達には眩しいほど高貴に映る。楚々としたたおやかさの中にある強さ、その絶妙のバランスが私達を惹きつける理由かもしれない。 ちょっとやそっとの事には動じないくらい、強くなりたい。 逃げたり投げ出したりする弱虫から脱皮したい。 自分を守るために人を傷つけることを終わりにしたい。 自分の心に宿った愛に素直になりたい。 虚勢や意地でガチゴチにしちゃった結び目をほどきたい。 結局、自分・自分・自分…とエゴが大行進していて いつもおんなじ問答をグルグル繰り返しては いつも違った方向へゴロリゴロリと転がってる達磨みたいだ。 先日ヨガの朝練で、特定のアサナ(ポーズ)ができないのは体型的に不向きであるからだ、そのポーズをとりたかったらかなり痩せるくらいしかない、とキッパリ言われた。 アシュタンガヨガをやるということは「先へ、先へ」進みたい欲望との戦いだ。すべてのポーズのシークェンス(順番)が決まっているため、ひとつのポーズができたら次のポーズができるようになりたくなる。上達したい、でも、なんのために?自己満足?達成感?自慢?優越感?体力と柔軟性があればジムナスティック的に上手くできる人はたくさんいる。そんな人達を傍目で見ては羨望の念にかられ、マットの上で心をガジガジにして苦しんでる自分が情けない。じゃぁ、なんでYOGAをやってるの?っていう根本的な部分へ、結局また戻ってきちゃう。 「アナタはチビでデブで短足短腕だから、高度なポーズは無理なんじゃないの?」 なんてハッキリ言ってくれる人は少ない。たいていが 「One day will come、頑張り過ぎず、あきらめず、でいきましょう」 って感じだ。私はこれまでそういうマッタリしたノリの中でゆるーくヨガをやってきた。だから、ちょっと、ガツン!とやられたなー、というのが正直なところ。 でも反対に変なモヤモヤがクリアになって 「あー、なんか私って(ポーズをとることに)かなり執着してるよなぁ、(そのために)すっごく無理してるよなぁ」 って、本当に痛感した。 いいじゃん、できるようになるのが来世でも、くらいの軽さで、外部に惑わされず芯をしっかりキープしていきたい、本当はね。アタマでは分かってるけど、でも実際は難しいよね。このあたりの自分のグラつきや弱さが、私の現在の課題なんだろうなぁ。

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