Dreamy afternoon cafe

2008/11/02(日)01:07

◆沖縄ノート訴訟に思う◆

日々の雑感(258)

ノーベル賞作家である大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」における、軍部による沖縄県民への集団自決の強要があったのかどうかをめぐる裁判の判決が報じられましたね。 裁判の本質は、軍部の関与があったのかどうかだと思いますが、私は、その方向での議論よりもむしろ、当時の沖縄県民の方々の多くが、差し迫ってくる対戦国の軍隊を間近にした時、 どれ程の恐怖感や圧迫感、絶望感を抱いていらっしゃったことだろうと想像すると、本当に胸が痛みます。 結果として命を絶ったということ自体は事実としてはっきりしていて、その行為が人々の自発的な意思によるものか軍部の強要によるものかが争われているわけです。 客観的に見て、たまたま一人の人が自発的、発作的に死の選択をする場合は有り得ることですが、集団で100人とか300人とかが一斉に死を選ぶということは、あり得ないと私は思っています。 それは、日本人だからとか戦時状態だからということではなくて、そもそも生命を持った生き物は、自らの授かった命を全うし、子孫へとその命をつなぐことが本能であり、使命でもあります。 どんな集団にだって、必ず賛成派、反対派,中間層が存在していることは社会そのものを見ればわかりますね。 全員が本能に逆らうような形の死を選択するなどということは、たとえ戦時教育を受けてきた当時の日本人であっても、あり得ないと私は思います。 少し前の日記で、神風特攻隊のことを書きましたが、自ら志願して特攻を行った方であっても、「志願」という言葉自体が、強制の正当化のための言葉とさえ響きます。 彼らは、純粋に家族や国家のために命を捧げようという心をもっていたでしょう。しかし、死にたいなどとは決して思いはしなかったはずです。 選択肢を選べない環境であったことを理解してあげることが彼らを本当に理解することに繋がるはずだと思うのです。 家族愛や国家に対する尊厳や愛国心はあって当然ですし、それ自体はむしろいいことだと思います。 ただ、個人の意思がどうあれ、時代の大きなうねりの中に巻き込まれた個人は、現代の私たちと全く同じ人間としての感情なり生きたいという願望があったに違いないのに、 特殊な時代のうねりの中で個人の力ではどうにもならない圧力によって、あたかも自らの意志で行ったかに見えるようなことに引き込まれていかざるを得なかったに違いありません。 今を生きる私たちにとって大切なことは、不幸な時代を生きざるを得なかった先人たちが結果として命を投げうって願った家族愛や愛国心や平和な日本、平和な世界に向かって、そうした先人たちの願いをも担って一生懸命に生き抜くことだと思います。 一生懸命に生き抜く中で、世の中に対して何かプラスになるように積極的に自ら関わっていくことが一人一人にできるとても大切なことに違いないと、そう思うのです。   ブログ仲間のワンクリックに感謝!  お寄りいただきありがとうございます。 貴重なワンクリックに更なる感謝。 クリックするだけで、無料で募金ができます。 クリック募金とは、クリック募金サイト上の募金ボタンをクリックするだけで、無料で募金ができる仕組みです。 あなたに代わって、スポンサー企業が寄付をするのであなたには一切お金がかかりません。  左のオレンジ色のバナーをクリックしてその先に表示される案内に従って、クリックを頂けましたら幸いです。 こんな形で誰かの命が救われて笑顔が見れたら素敵なことですね。

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