「Life」を求めて

2014/02/17(月)01:10

人間の離れ業の、功罪。

道具を使う動物は少なからずいるが、ほとんどの生物は自己の身体を変化させて環境に直接に対応している。 人間が道具を使うということは、それだけ世界と自分の身体に対して間接的であるということだ。 その点に関してだけ見ても、人間は世界から一歩引いた所からものを見ている。 現実から一歩身を引くという離れ業が言葉を生み出し、抽象的な思考を可能にした。 様々な記憶の蓄積、未来の予測、そして、哲学や科学という現実の把握の方法。 それだけで、人類は生存率を飛躍的に高め、 驚異的なスピードで文明を発展させた。 ただ、その人間の英知は、両刃の剣で、現実から一歩身を引くことで、人間特有の悩み苦しみも生み出した。 それは、「今、ここ、自分」をおろそかにし、そこを離れてしまうことだ。 未来のことや、過去のことにとらわれすぎて、今ここに生かされている生命を大切にできないことだ。 夢を持ちなさい。 目標をもって、それに向かって努力しなさい。 今に満足したら進歩はない。 あきらめたらそこで試合終了だよ。 等という言葉を我々は今まで耳にタコが出来るほど聞いてきた。 それが価値ある人生を送る方法論である。 それができなきゃ生きる意味がないと言わんばかりに教え込まれている。 目標を持つこと、夢を持つことは大切なことだ。 来るべき未来を肯定し、進むべき道を照らし出すこと。 でも下手をすると、それが「今ここの自分」を否定することにもなりかねない。 夢や目標が自分の思ったとおりにならないと自分や、他人や、世界を逆恨みしたりもする。 妻や子供、自分が健康に生きて、災害にも戦争にも犯罪にも直面せず、平々凡々な日常を送っている。そのことが、どれほど多くのご縁に支えられて在る奇跡のような状態なのか。 その当たり前で当たり前でない事実への、感謝、ありがたみ。 夢や目標は、下手をするとそれを忘れさせる。 人間的な目論見が、豊かな豊かな「今ここ」を貧しく抽象化してしまう。 豊かで無限の世界を、あえて抽象化し、限定して見ることに人間は慣れすぎてしまっている。 科学の視点、哲学の視点、経済学の視点、視点をある一点のみに限定すればするほど、豊かで無限の世界、今ここ自分は狭く小さくなってしまう。 修行に入る前からの問いであるが、いまだに引きずっている。 現実を離れること、 それと、 現実に徹すること。 夢目標を持つこと、 それと、 坐禅し今ここであること。 はたして、どちらがどちらなのであろうか。

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