|
カテゴリ:信仰と教会
140330四旬節第4主日 主題:主の変容 2コリント4:1-6 1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 もう一箇所お読みいたします。 マルコ9:2-10 2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 このマルコ福音書の箇所には二つの意味があると思う。 その1は「これはわたしの愛する子」という言葉。マルコ1章にも出てくる。1章ではヨハネから洗礼を受け水から上がったあと、聖霊が鳩のように降った時に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。この後イエスさまは伝道の生涯に入られます。9章の方は高い山の上にいたら雲が彼らを覆い「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が聞こえた。雲は神さまの臨在を表します。この時から十字架と復活による救いの成就へと歩んで行かれます。そのことは、「人の子が死者の中から復活するまでは…」といった言葉からも見て取ることができる。 第2の意味は、十字架に死んで復活したイエスさまの栄光の御姿を、弟子たちが予め垣間見ることが許された。これは「垣間見た」という程度だった。エリヤとモーセは旧約を代表する人物だ。その二人が現れてイエスさまと親しく語り合っている。しかも、イエスさまのお姿は真っ白に輝いている。モーセが神の山ホレブに登り十戒の板をいただいて山を降りてくると「イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた」。エリヤもまた天から火を呼び降し神の栄光を顕した人物です。この旧約の代表者を前にしてイエスさまが輝いている。弟子たちは呆気にとられたというしかなかった。この時はこの出来事が何を意味するのか理解できなかった。 私たちは出会った出来事の一つ一つ、すべてその場で意味がわかるわけではない。ずっと後になって、あああの時の出来事はこういうことだったのかと納得できることがある。ペトロはこの時は何が何だかわからず「小屋を三つ建てましょう」などとトンチンカンなことを言っている。しかし後に第2の手紙の中で 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。」(2ペトロ1:16-19) と述べている。彼は闇の時代をキリストの光によって生きていくべきことと、キリストがやがて来られることをこの時の体験から後に理解した。 パウロはペトロと違って、この世で生きておられたイエスさまと出会っていない。しかし、この出来事はパウロにも伝えられていただろう。 パウロはホレブから光り輝いてきたモーセが、人びとと会うときには顔に覆いを掛けていたことを念頭に置いて、 「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」という。 私たちはこの世の神に目をくらまされ、キリストの光を見失ってはいないだろうか?キリストに従うことよりも大切な何かを隠し持ってはいないだろうか?そのようなものがあるなら、悔い改めて立ち帰ろう。 神の前に出るとき、私たちは土の器だ。人は土の塵から取られて作られた。やがて再び土に帰るものだ。もろく壊れやすい。しかし、神は土の器にすばらしい宝を入れてくださったとパウロは言う。 「わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」 少しややこしい言い回しかもしれない。 4節では「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」という言葉もある。 キリストは神の似姿である。だから神の栄光がキリストにはある。実は人間は神によって神の姿に似せて作られたはずだが、私たちには罪があり、罪によって私たちは暗くなってしまっている。神の栄光を持つイエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架に死んでくださったことによって、私たちの罪とその暗さはイエス・キリストに転嫁され、十字架の上で処分された。 代わって私たちに与えられたのはキリストの栄光の福音、言い換えるなら、キリストが持っておられた栄光の光が私たちに与えられた。 私たちがキリストを信じるとき、信じて自分を全くキリストに委ねきってしまうとき、私たちの暗さはキリストのうちに取り去られ、キリストの顔の輝きが私たちの顔に顕れる。そういう生き方は 「わたしたちは落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」 そのような生き方をしましょう。神はそうしてくださる。 祈りましょう。 天におられる父なる神さま、あなたは土の器である私たちに、イエス・キリストの御顔に輝く栄光を見せてくださり、私たちもまたその栄光のうちに生きることができるようにしてくださいます。 どうか私たち鈴鹿教会に集う一人一人がそのような歩みをすることができるようにしてください。み言葉を曲げず、正直に、愛をもって隣人と共に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[信仰と教会] カテゴリの最新記事
前奏
招詞 詩編51:19 讃美歌 第二編194 「おおみ神をほめまつれ」 さんび ミクタム1 102 「我が望みの主」 出処不明 「一つを」 祈祷 主の祈り 交読 詩編27:7-14 聖書 2コリント4:1-6 牧会祈祷 讃美歌 262「十字架のもとぞ」 説教 「御顔に輝く神の栄光」 祈祷 讃美歌 25「夜を守る月に」(切らずに続けて)「主の栄光宮に」(ミクタム1 75) 使徒信条 献金 さんび「栄光の御名」(出処不明) 頌栄 讃美歌 544「あまつみたみも」 祝祷 後奏 (March 30, 2014 08:30:11 PM) |