三菱商事 (東証一部 : 8058) - 「遵法第一」柔軟に対話を重ねる説得力
小島順彦●三菱商事社長1941年、東京都生まれ。65年東京大学工学部を卒業後、三菱商事に入社、重機部に配属される。78年サウジアラビア出向、85年ニューヨーク駐在、 92年社長室会事務局部長、95年取締役、97年常務、2000年新機能事業グループCEO、01年副社長、04年より現職。 東京出身で、照れ屋でスマートさを好むシティーボーイ。そんな小島順彦さんの経営手法は「柔」の代表といえる。前述の3人は商いの本場・関西の出身で、「剛」そのもののリーダーシップを発揮する。対照的だ。その小島さんの第一の手法は対話。「説得力」が武器だ。 三菱商事のような総合商社と言えば、「向こう傷を恐れるな」「刑務所の塀の上に登っても、内側に落ちなければいい」と、かなりのリスクも承知で取引を獲りにいく文化だった。だが、小島さんは違う。「塀の上に登るな」どころか「塀に近づきすぎるな」と説く。 無論、コンプライアンス(法令遵守)は「剛」の3人の企業でも、厳しく律している。ただ、いまや、商社の収益は口銭を集めるだけでは、得られない。リスクを取って新しいプロジェクトや交易を開発し、そこから生まれる収穫の分配を手にする時代だ。となれば、「権力」に近づく際どいアプローチをしがちになる。 それが危ない。犯罪どころか、悪い評判が立てば、個人の「向こう傷」にとどまらず、会社自体がダメージを受ける。だから、世界中の拠点を巡って、「たとえ賄賂が当たり前の地でも、ルール違反は絶対にするな」と説いて回る。『三国志』には、「智は禍を免るるを貴ぶ」との言葉もある。問題は、起こさないことが大事。小島流が重なる教えだ。 若いころ、製鉄設備などを扱う重機部で、長くすごした。70年、新日鉄が海底作業プロジェクトで使う大型海洋作業船二隻の受注を争った。小島さんは、作業現場を担う面々が勧めた米国製を推す。だが、競争相手の三菱重工は「過去の実績」から別の製品を挙げた。結局、重工が受注し、72年に1隻目が完成したが、クレーンがうまく使えない。そこで、現場重視の「説得力」が甦る。3年後にできた2隻目は、米国製に切り替わった。 重工が強く反発し、「出入り禁止」となった。通算3回目だ。でも、平気。後輩たちには「重工と張り合うなら、必ず勝て。商事は重工の売り子ではない。お客さんにとって一番いいものを提供するのが仕事だ」と教えた。 85年10月から約5年間、ニューヨークに駐在する。あるとき、米国三菱商事の社長だった槙原稔さん(現・相談役)が「会議を英語でやる」と言い出した。米国人幹部もいたし、英語の国では英語でという考えだったが、強く反対する。駐在員全員が意見を書いて出すよう求められ、「英語ができりゃ、仕事ができるわけではない」と、かなりきつく書いた。最も重要な投融資諮問委員会まで英語にしようというので、いくら英語が話せても、駐在員の間に誤解ができるリスクが高い。そう思ったから、抵抗した。 後日談がある。まもなく、槙原さんが本社の社長に内定した。ニューヨークを訪れた友人は、小島さんから「ああ、これで、おれは日本に帰れないだろうな」との愚痴を聞く。だが、槙原新社長は、小島さんを直属の社長室会事務局部長に呼んだ。上司にも逆らう「説得力」は、否定されなかった。 08年12月6、7日、年1回の首脳陣による「経営戦略会議」を開いた。「塀に近づくことのない」新事業の芽を出し合い、金融危機で萎縮する世界経済を克服する道を探った。会議は、泊まり込み。夜になれば、自由な論議が飛び交う。グラスを片手に、「説得力」をどう発揮したか。次の機会に、ぜひ聞いてみたい。プレジデントロイター - 2009年 2月 06日