「鬼畜漫画家ピコニャン先生」1
※この物語はフィクションです。実在の人物、地名、団体等には一切関係ありません。第1話「新世界へ」 眠らない街と称される新宿。歓楽街に建ち並ぶ雑居ビルの一室で、数名の男女による会議が終了した。「では、第7代担当は彼ということでよろしいな? 諸君」「異議なし」「異議なし」「了解ですM」会議に参加した者たちは次々に席を立ち、順次通常業務へ戻った。 翌朝、犬井徳治はいつものように1時間あまりをかけて太刀川市から勤務先である新宿の鷲プロダクションに出社した。 築50年は経とうかというその雑居ビルの薄暗い階段を登りつつ、また上司たちに怒鳴られる一日の始まりを思い、ため息をついた。「鷲プロダクション」のプレートが貼られた重い鉄製のドアを開けると、室内の目が一斉に犬井に注がれた。皆、一様に無言であった。その不気味さに犬井は思わず息を飲んだ。「おはよう、犬井君」社内でMと呼ばれる社長が、まず犬井に微笑みかけた。 鷲プロダクションは社長以下10数名の小さな会社である。 20代前半の犬井は春から契約社員として働き始めたばかりの新人であった。俗に編集プロダクションと呼ばれるこの会社での仕事は激務の連続である。犬井はただひたすらに先輩から命じられた雑務や使い走りをこなすだけで毎日疲弊していた。「犬井君、今日は君に重要な辞令を伝えよう」Mはそう言って手招きし、犬井を別室に誘った。Mと二人きりになった犬井は緊張した。これまで雑用は命じられても、辞令という言葉を聞くのは初めてだった。契約社員とはいえ、まだ試用期間中の身である。解雇されるほどの失敗を自分が犯したかどうか、犬井の脳内はそればかりが駆け巡った。「犬井君。君にピコニャン先生の担当編集をやってもらうことが会議で決定した」 Mは静かに言って、任せたぞと言わんばかりに犬井の肩を強く叩いた。解雇すら覚悟していた犬井にとって、それはあまりに意外な言葉であった。「ピ、ピコニャン先生のた、担当ですか?」犬井は思わず聞き返してしまった。「そうだ。君が担当だ。来週には私と挨拶に行くんだ」そう断言されても、犬井にはまだ事態が飲み込めなかった。 ピコニャン先生は売れっ子漫画家である。漫画好きならばその名を知らぬ者はいないという程の大物だ。「犬井君、これから私が言うことをよく覚えたまえ。メモなど取ってはいけない。それほど難しいことではない。担当の心得として胸に刻み込むのだ」犬井は緊張と喜びで胸を一杯にしながらも、Mの言葉に一つ一つ頷いた。 ついに漫画家の担当編集になれるのだ。漫画好きが高じて鷲プロに就職した犬井にとって、これほど嬉しいことはなかった。同時に一抹の不安が胸をよぎった。まだ駆け出しの自分が、ピコニャン先生のような大物漫画家の担当などできるのだろうか。だが、いつまでも雑用係では鷲プロに就職した意味もない。これはチャンスなのだ。「……と、いったところだ」話を終えたMが犬井に再び微笑みかけた。浅黒いMの顔は笑っていても表情が読みにくい。「了解です社長」「犬井君、私は社長ではない、Mだ。それ以上でもそれ以下でもない」「了解しましたM」犬井は返事をして席を立った。 オフィスのメインルームに戻ると、社員たちが笑顔で犬井を迎えた。「おめでとう犬井。これで一人前だな」「ピコニャン先生はいい人よ。犬井君よかったわね」小さく拍手をする社員もいて、犬井は思わず照れた。「大抜擢だな犬井。お前はそれだけMに評価されてるってことだよ」ある先輩社員などは立ち上がって犬井を褒めた。 いつもは自分を怒鳴り散らす社員たちに祝福され、徐々に実感が湧いた犬井も笑顔になった。(来週からか。Mに言われた心得をよく覚えないとな)太刀川の自宅に帰る電車の中で、犬井はMに言われたことをじっくりと反芻した。 太刀川駅に着くと、犬井はまず構内の書店に寄ってピコニャン先生の著書「秘密のソノタ」を購入した。自腹であったが、そんなことよりも担当になるという自覚を持つために必要なことだった。犬井も雑誌で読んだことはあったが、深く読み込むのは初めてだった。しかも今度は単なる読者としてではなく、仕事として読むのだ。この感覚こそ、犬井が求めていたものだった。 駅から10分ほどの自宅へ帰ると、食事もせずに犬井は読みふけった。 週明け。高級住宅地と呼ばれる黒金台駅を降りた犬井とMはピコニャン先生の仕事場兼自宅を目指した。このあたりに住む婦人が俗にクロガネーゼと呼ばれるほどの高級住宅街を歩きながら、犬井は異世界に来たような違和感を覚えた。淡々と歩くMから離れぬよう、犬井は駅からの道順を必死で覚えた。「ここだ」目的地にたどり着くとMが素っ気なく言った。 見上げるような白亜の豪邸。少なくとも犬井が現実に目にしたのは初めてであった。映画やドラマに出てくるような立派な家が目の前にある。玄関に表札はなく、カメラ付きのインターホンがあった。 Mが無言でインターホンを押すと、しばらくしてオートロックが外される音がした。 門を通ると庭園があり、手入れの行き届いた庭木や池があった。犬井が思わず見とれていると、足元を一匹の猫が走り抜けた。門を通った後にさらに玄関があり、Mは無言でドアを開けた。「鷲プロのMです。先生、お邪魔いたします」静まりかえった廊下を歩き、Mは手招きをしながら薄暗い一室に入った。「ここが担当の部屋だ。まず私が先生に挨拶してくるからお前はここで待て」そこは六畳ほどの部屋だった。特に調度品などもなく、小さなパイプ椅子のほかには何もなかった。犬井は何もできず、ただ緊張してMが戻るのを待った。「犬井、来い。粗相のないようにな」犬井は無言で頷き、Mの後ろをそろそろと歩いた。 そこは応接室のようだった。担当の部屋とは打って変わって豪奢で広い部屋だった。いかにも高級そうなソファにMと二人で座った犬井は、すでに心臓が爆発しそうに高鳴っていた。「おつかれさまですMさんと新人さん」やがて応接室に現れたのは、おっとりとした感じの美女だった。(こ、この人がピコニャン先生……)初めて見る実在の漫画家の美しさに犬井は思わず見とれた。「初めまして新人さん」美女は微笑みながら名刺を差し出した。その笑顔に魅了されながら、犬井は深々と頭を下げてそれを両手で受け取った。「チーフアシスタント星野奈々」名刺にはそう記されていた。(あ、アシスタント? せ、先生じゃないのか……)拍子抜けしながらも、犬井は自分の名刺を差し出した。「あら、新人さんは犬井さんとおっしゃるの。犬井徳治さんね。なんだか先生と気が合いそうなお名前。ええと、犬井さんはおいくつくらいでいらっしゃるの?」自分の年齢を聞かれたと理解した犬井は正直に答えた。「あら、やっぱりお若いのね。先生も気に入るかもしれませんわ」そう言って奈々はクスクスと笑った。眼前の美女の微笑みに、犬井の胸は高鳴りを覚えた。(奈々さんか。俺と同い年くらいに見えるけど、どうなんだろう?)「あ、あのう。ほ、星野さんは……」「奈々でいいわよ犬井さん」「じゃ、じゃあ奈々さんは……」隣にいたMが犬井を肘で強く突いた。「なあに犬井さん」「いや、ええと、すみません。お手洗いは……」犬井が立ち上がると、同時にMも立ち上がり、犬井の手を引いて応接室を出た。その部屋は、トイレと呼ぶには広すぎる部屋だった。悠々四畳半ほどある個室にはさまざまな花が飾られ、壁には見事な絵画がいくつも並べられていた。犬井は用を足す気にもなれず、深呼吸して緊張を鎮めた。「おう犬井。てめえ調子乗って余計なことしゃべるなよ。相手の質問には簡潔に答えればいいんだよ。てめえから余計なこと聞くんじゃねえ。特にあの星野奈々には気をつけろ。あれは罠だ。これまでもな、色々あったんだよ。あの女が美人だからって油断した奴が何人もな……」「え、えっと。わ、わかりました」「返事は短く簡潔にだ、犬井!」「了解ですM」犬井とMの二人が応接室に戻ると、奈々の横に女性が一人座っていた。「初めまして犬井さん。私はサブチーフの里見綾子です。アーニャでいいですよ」屈託のない笑顔で自分に話しかける綾子は、奈々よりも若く見えた。顔は女子高生と言っていいくらい幼い感じだが、思わず見とれるほどの豊満なバストの持ち主だった。「あ、犬井さん。やっぱりアーニャの胸を見てますね。まあ、アーニャを初めて見る男性はみんなそうですわ。男の人って巨乳が好きなのね本当」形のいい眉をしかめながら奈々は言った。「ナーニャは美人だからいいじゃん。私なんか顔が子供っぽいから損してばっかりだよ本当」ケタケタ笑いながら綾子が言った。その間も、犬井の目は綾子の揺れるバストに釘付けになっていた。「犬井さん、けっこう男前じゃん。ねえ彼女とかいるの?」綾子が目を輝かせながら犬井に尋ねた。犬井はMに注意されたとおり、簡潔に答えることを意識した。「は、はい、一応」その答えに、奈々と綾子は一瞬黙り込んで、犬井をまじまじと見つめた。「よくないですわ、その答え方。男ならはっきり、いると答えるべきですわ。一応とか、そういう答え方は先生が一番嫌う言葉ですわ。犬井さん。よくって?」淡々と話す奈々の横で、綾子が頷いている。「了解です。彼女います俺」奈々と綾子はよしよし、と言いたげに頷いた。「それから犬井さん。俺という言い方は先生が嫌いますわ。僕と仰るほうがよろしいわ。よしなに」奈々は満足そうに微笑んで言った。「了解です。以後は気をつけます僕」「ところで、今日はネーム中ですか、先生は?」犬井の隣でイライラしていたMが言った。「そうですわMさん。ネーム室にこもりっきりでご機嫌斜めですわ先生は。だから今日の挨拶は無理ですわ。申し訳ありません。また後日ということで」「犬井さん、また来てね。ナーニャもアーニャも待ってるよ」(つづく)