犬供養料課税の取り消しを求めた訴訟で、寺側の訴えが退けられた(朝日新聞05.3.24)。 ペット供養に関する司法の判断がはじめて、名古屋地裁であった。
アレと思ったのは、針供養や人形供養は宗教行為として無税扱いなのだ。
使いならした針や愛玩した人形と別れるのは、つらいこともあるだるだろうが、別れるかどうかは、その所有者が自分で決めることだ。つらく悲しいなら、何時までも気の済むまで手元において置けばよいことだ。
新しいものが欲しくなったから、古いものを整理するに過ぎない人が多い。
ところが、愛犬の死は飼い主の意思では防止できない。偉そうな顔をしている人間の無力を思い知らされる不可抗力の無情な摂理だ。
愛犬の死が突然訪れると、世の中のすべてのもが涙で見えなくなる。気が動転してどうすればいいのかわからないし、頭は芯まで痛くなる。食事もとったのか、とらなかったかさえわからなくなってしまう。
寝ているのか、起きているのか、悪夢なのか、うつつなのか、朦朧としてベットで反転を繰り返すだけだ。
確かに、犬は法律上は「物」」として扱われる。人にある人格権に相当する権利は認められない。いわゆる「物品」だから、それに関する供養は宗教行為ではないという司法の判断も、冷厳な法律の立場で言うと、やむを得ないことかとも思う。
しかし、針や人形の供養は宗教行為であると言われると、なぜだと思う。
そのことを理解出来る愛犬家がいるだろうか。
逆ではないか。常識的な判決なら、次のようになる。
針や人形の供養は「物」の供養だから、宗教行為とは認めない。従って、それから得た儲けには課税する。
犬は飼い主に忠実で、友人や伴侶のように愛玩されてきた特別な動物だから、その死に関する供養は宗教行為と認める。従って、その供養料は課税対象とはしない。
愛犬は飼い主によっては人生の友であり、伴侶であることもある。その死は、どの肉親の死よりも、どの失恋の苦しみよりも大きいと言う男もいる。
愛犬が無言で与えてくれる心の癒しは、計り知れないものがある。愛犬の死にに直面して言える言葉は「ありがとう」だけだ。
今でも、パピヨン初代登山犬のチビちゃんが永眠している庭の灯篭に向かって言う言葉は「ありがとう」の言葉しか思いつかない。心の奥の深い思いは言葉にはできないものだ。
日本では司法までが、犬を差別扱いするとは情けない。日本の犬に関する文化は後進国だ。寺側は控訴を検討しているとのこと。心だけだが、大いに応援する。
愛犬が針や人形以下の扱いを受けて、黙っておれるかと、名古屋地裁に言いたい。裁判所には異星人が住みついているのではないかと思うことがある。
今回の判決もそのひとつだ。