ハーブコア ♣ 高木肥料店

2015/12/09(水)18:38

サツマイモを伝えた甘藷翁(からいもおんじゃ)。

経営戦略(73)

サツマイモを伝えた甘藷翁(からいもおんじゃ)。 全国のサツマイモ生産量の約4割・・・といいますから年間約50万トン を生産するという日本一のさつまいも王国、鹿児島県。 その鹿児島県で 甘藷翁(からいもおんじゃ)として尊敬されているのが前田利右衛門です。 このかたが、琉球(沖縄)から唐イモ(サツマイモ)を持ち帰り薩摩の国 での栽培を広めたといわれていますよ。 ときに1705年(宝永2年)のことでした。これ以降、薩摩で大規模栽 培に成功したサツマイモは、その後  カライモ → リュウキュウイモ → そして サツマイモ と、その呼び名を変えながら、日本の全国区の作物へと普及していったと いうわけです。 ということは、この甘藷翁(からいもおんじゃ)なくして、その後の救荒 作物[飢饉時のありがたい食物]としてのサツマイモの活躍はなかったこ  ととあいなります。 そう、いまに伝わる  ● 1713年  瀬戸内(大三島)における 下見吉十郎  ● 1715年  長崎(対馬)における 原田三郎右衛門  ● 1716年  京都における 島利兵衛  ● 1733年  島根(大森)における 井戸正明  ● 1734年  東京(江戸)における 青木昆陽 などの、サツマイモで有名な方々の活躍[サツマイモを救荒作物として各 チで普及に努めた]もなかったはずなのです。そうなれば、1732年の 享保の飢饉・1782年の天明の飢饉・1832年の天保の飢饉の際には、 もっともっとたくさんの人命が失われていたにちがいありません。 そしてそれ以降も[第二次大戦前後にいたるまで]前田利右衛門は、ほん とうにたくさんの日本人を飢えから救ったことになりますよね。 もちろん飢饉のときだけではありません。 もしなんらかの歴史のいたずらで、このときにサツマイモが伝わらなかっ たと仮定すれば・・・ひょっとすると現代に生きるあなたが普段たべてい るヤキイモやチップスはもとより、ボタモチや イモ餡〔あん〕、そして あのおいしいスゥィートポテトはなかったかもしれない。 そうそう、あなたが秘蔵している大事な芋焼酎も、ひょっとすると存在し なかったかもしれない/笑。 そう考えると、人の行動がもたらすその後の事象というものには、なかな かに興味深いものがありますよね。 そしてその後の甘藷翁(からいもおんじゃ)。はからずも薩摩のみならず 日本の国の飢饉を救うことになった前田利右衛門。しかし 再び琉球に渡 るときに遭難して死亡します。 この利右衛門遭難の話を聞いたとき、彼に感謝していた薩摩の領民はお金 を持ち寄り、供養堂を建てました[現在、鹿児島県山川町岡児ヶ水の徳光 とっこう神社とされています/こちら]。また、この山川町内だけでなく、 その頌徳碑[感謝の意を刻んだ碑のこと]は薩摩半島だけでなく、大隅半 島の串良町など鹿児島県内の各地でも確認されているといいます。 ということで、今回はサツマイモ伝来に関係した薩摩の国の船乗りについ てのおはなしでした。  新しい作物を導入し・結果的に産業化した 利右衛門さん。   これは六次産業化の、ひとつの手本といえることかと。  「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜 」

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