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2007/11/07(水)04:42

格差社会のゆきつく先

格差社会(58)

昨日の日経新聞夕刊の一面に面白いコラムが載っていた。 社会主義体制の崩壊による冷戦の終結は本当に慶賀すべきことだったかというような趣旨のもので、社会主義がうまくいかなかったのは、結局、人間がそれほど立派なものではなかったというだけのことではないかということが書いてあった。 たしかにあの計画経済がうまくいくためにはとてつもない叡智が必要だし、結果の平等を建前とする社会でモラールを維持するためには、「一人は万人のために、万人は一人のために」という善良な人間性を前提にしなければならない。 社会主義は人間は神のような存在であることを前提とするが、資本主義は人間を欲望の塊と前提するといわれるゆえんである。だから社会主義が崩壊して資本主義が残ったとしても、それは「自由」とか「民主」とかいう高尚な理念が勝利したというわけではない。 ※ 思えば社会主義が生まれたのは、資本主義下の自由競争の結果、多くの敗者と悲惨が生まれたからではなかったか。揺籃期の資本主義の悲惨が思想ではマルクス、文学ではディケンズを産んだわけである。そして冷戦崩壊後の資本主義は、再び、そんなむき出しの弱肉強食の自由競争の方向に向かっているように思う。格差の議論になると、いつも格差拡大は世界規模の潮流でやむをえないという人がいるが、たしかにこうした競争の激化は世界規模で起きているのだろう。 ※ 弱肉強食の自由競争の行き着くはては多数の貧困者の絶対的窮乏と共同体の崩壊である。しかもこの新しい格差は、根源的には「能力の格差」を理由としているだけに、敗者にとってはより救いがない。19世紀、つまり初期資本主義にみられるような生産手段の所有と相続を理由とする格差、つまり資本家・地主階級と労働者・貧農階級との格差と今日の格差とはわけが違うのである。「機会の平等」や再チャレンジだけでは、決して今日の格差の処方箋にはならない。 この貧困者の窮乏と共同体の崩壊という現象はもうすでに起き始めている。 生活保護世帯の激増は多くの自治体で問題となっているし、北九州市の餓死事件は先進国の珍事としてニューヨークタイムズでも報道された。駅員への暴力など大小様々の犯罪は増えているし、モンスターペアレントの問題などもこの一環ではないか。 ※ 思えば日本というのは農村共同体の歴史が非常に長く続いてきた国である。 共同体の中では凄まじい格差はなかったし、農業というのも個人の能力の差がそんなにむき出しにはならない。自由競争の結果としての格差拡大…ということ自体、日本社会にとっては、もしかしたら初めての経験なのかもしれない。

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