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テーマ:ニュース(99377)
カテゴリ:格差社会
格差についてこんなことを言っている人がいるという。
真の格差とは「能力も努力も同じなのにそれでも差のつく場合をいう」のだと。 能力や努力によって差のつくのは当然で、そういう差ならいくらあってよい…この人の意見はそう聞こえる。 本当にそうなのだろうか。 今起きている格差というのは、決して身分とか親の経済力によるものではない。 まさに能力によって格差が広がっているのではないか。 ※ 能力による格差というと顔をしかめる人も多いかと思うが、そういう人は能力イコール人間の価値と思っているのだろうか。 でも能力なんてものは絶対的なものではなく、しょせん時代によってその内容も異なってくるのではないか。 大鏡には古今和歌集の和歌すべてを暗記した女御が大変な才女として描かれているが、今、そういう人がいても誰も才女とはよばないだろう。 江戸時代だったら習字と算盤ができるのが寺子屋秀才の条件だったし、農村社会での最も重要な能力は健康とか協調性とかといったものだったろう。 そして現代ではその能力自体が二極化している。 一方には高級技術者や起業家などの余人をもって変えがたい資質を要する職業があり、他の一方には誰にでもできる代替可能な仕事がある。 そしてこの能力、仕事の格差がそのまま経済力や収入の格差になっている。 ※ 能力の高い人を優遇するのは当然だろうし、それは否定しない。 しかし一方で能力の低い人を最低水準以下の生活に放置してよいかとなると別の問題である。 社会は能力の高い人だけでなりたっているわけではない。 格差という言葉がさかんに言われるが、その正体というのは貧困問題ではないか。 今でも年収200万円以下の層やワーキングプアとよばれる人々が相当数いる。 こうした貧困層は今後も増えていくことだろう。 なぜなら今でも30代、40代の非正規雇用やニートの者で親に扶養されていたり、親の家に住んでいる人が相当数いるのだが、やがては親の死や自身の健康悪化をきっかけにこうした層も貧困層に参入してくるはずだからである。 ※ このままでは、やぶれかぶれの貧困層の反乱だって将来は起きるのではないか。 持たざるものによる貧者の革命は資本主義の究極に発達した社会で起きると、かのマルクスもそう言っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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