2008/06/08(日)18:59
貧困の自己責任論を問う
冷戦が崩壊したとき、多くの人は共産主義は過去のものになったと思った。
当時様々な人が共産主義理論の欠陥をあげつらったが、最も多くいわれたのは次のような点ではないか。
人には能力の差がある。
それなのに結果の平等を唱える理論はおかしい。
能力に差があれば結果に差があってあたりまえではないか・・・と。
また、平等には機会の平等と結果の平等とがあって、機会の平等は崇高な理念だが、結果の平等は「悪平等」だという人もいた。
この結果の平等イコール悪平等、機会の平等は保障するが結果の平等が補償すべきでないという理屈が、今日でもよく言われる貧困の自己責任論と地続きになっているように思う。
機会の平等はあったにもかかわらず、貧困に落ち込んだ。
それは自己責任じゃないのというわけである。
※
本当にそうなのだろうか。
そもそも機会の平等と結果の平等とは、それほど別のものなのだろうか。
だいたい人は生まれを選べない。
古典的な身分社会が過去のものであったとしても、家庭の経済力や環境で人生が左右されることは否定しない。
そしてたぶんそれ以上に生まれ持った身体条件や能力、そして運によってでも人生は変わってくる。
そうした意味で厳密な機会の平等なんてありえないということになる。
機会の平等さえ確保すれば、結果の平等はどうでもよいという考え方はやはり間違っているのではないのだろうか。
現代、貧困にあえいでいる多くの人は自分を責めているという。
そうではない。
自己責任論からは進歩は生まれない。
貧困を生み出す社会のしくみに異議をいうときではないのだろうか。