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テーマ:ニュース(99427)
カテゴリ:マスコミ
この頃はニュースがないんだねえ…。
NHKの夜のニュースをみながら家族がこんなことを言っていた。 ちょうど「オオスナモグリ」なる絶滅したとされる甲殻類の一種が発見されたということを延々と報道していたときだ。 これは、ニュースがないのではなく、ニュースにしていないだけではないのか。 「オオスナモグリ」が絶滅したかどうかよりも、もっと日々の生活に重要なことはたくさんある。 老後の生活に2000万円の貯金が必要だと蔵相がいったことなども本来なら「大ニュース」だろう。その後、蔵相は、老後の生活ではなく、「豊かな老後」のために必要なのだと言い直しているようだが、「豊か」などは主観的表現なので、それでは前の発言はなんなのだと思う。将来に不安があれば、皆必死に消費を控えて貯蓄に励むだろう。自動車や海外旅行どころか子供を持つという気にもならないだろうし、そうなれば国は急速に縮小していく。本来ならえっと驚くニュースなのだが、その割にはニュースとしての扱いは大きくないように思う。 こんなニュースとしての扱いの大きさだけではない。 ネットを含めた論調にも不思議に思う点がある。 元次官が息子を殺害した報道について、元次官に同情的な意見が非常に多い。それはわかるのだが、じゃあ、殺害された息子は殺されて当然の人間だったのだろうか。真偽のほどはわからないが、息子はネット上で自身の精神障害を告白し「呪われた身体」と書いていた。これが本当なら息子は障碍者ということになり、連想はどうしても障碍者施設で起きた大量殺人事件へとむかう。 あの障碍者施設の殺人事件では「殺されてよい命など一つもない」とか「障碍者の命の輝き」といったような言説が世にあふれ、少しでも反論するとナチだの危険思想だのといわれかねないいきおいだった。いったい障碍者施設で殺害された人々の命と元次官の息子の命とはどう違うのだろうか。 このあたりも、親が殺害するのなら「同情に値する」のだが、他人が殺害するのはいくら批判しても批判しきれないほどの悪行となるのだろうか。それならそれはそれでわかりやすい。多くの場合、人は理屈ではなく、心のどっかで子は親の所有物であり、親は子の存在自体に対して無限の責任を負うべきものと考えているのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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