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2019年08月19日
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カテゴリ:映画
歴史というのは特定の人間によってではなく無名の多くの人々によって作られていくのではないか。歴史上の人物は川に浮かぶ木の葉のようなもので、その川の流れはその時代の多くの人々の作る歴史の潮流といったものである。どんな時代にもその時代を生きた普通の人々がいて、そうした普通の人々の暮らしや想いに想像力を働かせることも歴史の見方として重要であろう。
「この世界の片隅に」は戦中から戦後にかけての、ちょっとぼおっとした女性の目で歴史の流れを描いたものである。時代の雰囲気などがよく描けていて、この時代を生きた人々はこうだったのかなあ…と思わせる。実写ならこれだけの映像はCGでも難しいし、人気俳優や女優の風貌などはどうしてもこぎれいな現代風になってしまうだろう。ただ、それでも、アニメには描けないものがある。それはその時代の空気である。子供の頃にはハエや蚊がそこらを飛んでいるのは普通だったし、ごみの匂いやトイレの匂いなど様々な匂いが生活の中に普通にあった。主人公が被曝してしばらくたった広島の街を歩く場面があるが、真夏に万単位の死者がでたからには、まだまだ死者の匂いは強烈にあったのではないか。
主人公もそうなのだが、周囲の人々も時代の流れとともに淡々と生きてゆく。空襲や核爆弾の惨禍の後でも、進駐軍に対する反感のようなものは一切ない。進駐軍の残飯をごちそうとしていただき、チョコレートを貰って喜んでいたくらいなのだから。大切なものは日々の暮らし。そんなものなのかもしれない。
そういえば戦争中でも戦争の終結を求める民衆のデモや暴動が起きたという話はきかないし、進駐軍(占領軍)がやって来た時も、進駐軍に対する反抗行為があったという話もきかない。そして占領期に日本独立を求めるデモというのもなかったようだし、平和条約発効で主権が回復したときもそれで喜んだという話もきかない。
歴史は大勢の無名の人々によってつくられるとはいっても、その人々は受け身でいることの方が多かったようである。だからだろうか。変にものがわかって戦争や軍隊に批判的な主人公をすえるよりも、ぼおっとした平凡な女性を主人公にした方がリアリティがある。





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最終更新日  2019年08月19日 08時00分44秒
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Re:この世界のかたすみに(08/19)   tckyn3707 さん
来年で戦後75年になりますが、私的には戦後〇〇年という言い方も薄れていくのではと思います。実際に75歳以上の人は人口比13.8%でリアルな戦争記憶があると思う85歳以上は4.3%終戦時成人だった95歳以上は0.4%です。

今を生きる日本人の99.6%の人達には戦争責任がないと私は断言できます。日本の戦争責任についてぐだぐだ言ってくるのは特亜と自虐史観の左翼だけです。他の国にとっては通り過ぎた過去でしかありません。しかも日本はきちんと二国間条約をもって賠償と謝罪を済ませて来ています。

もう戦中以前については、時代劇となっていくのではないかなと思う次第です。回想するのはいっこうにかまわないと思いますが、もう日本人として昭和20年前の評価は歴史家にまかせてもいいかなと思います。

エンターテイメントかノスタルジーでいいのではないでしょうか。恐らくこれから生まれる令和の世代は、昭和の出来事を話してもおとぎ話のような感じになると思います。昭和の世代が戊辰戦争を知らないように、令和の世代は太平洋戦争を知らないになっていくと私は思いますね。 (2019年08月19日 15時43分38秒)

いい映画です。   赤いオーケストラ荒木 さん
まず、戦前は不幸な時代ではありません。今の時代も戦前もあまり変わらないごく普通の生活があった。そしてごく普通の幸せがあった時代です。いままで特殊な、暗い世界じゃなくて、当たり前に笑って生きていた人たちがいて、つらいこととかあっても、ごく普通の生活ができたことか認識できた映画でしょう。一部不幸なことがあっても、人びとには明るさがあった。震災で不幸があり、気を重くされる方も自分の周りはありましたが、それでも明るく生きていけた。いままで不幸な時代といわれた昭和の初期でも明るく、変わらないと認識できた映画です。 (2019年08月19日 23時38分56秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   カーク船長4761 さん
性格が受け身で、何とも優しい女性が、戦時中の日常生活を生きて行く姿を、淡々と綴っているストーリー、爆撃で手を飛ばされ且つ姪を亡くしてしまい、戦後も原爆症に慄く姉妹の姿も出て来て、それでもめげずに生きて行く姿に共感が持てました。
別に反戦映画では無いのが、不思議ではありましたし、嘗てアイドルだった能年さんが、本名も使えず「のん」と言う名で、声優として活躍していることも気になって観た映画でした。

昨年、封切りの際、下高井戸シネマに観に行きましたが、七詩さんの解説も賛同できるものがありました!

私は3月10日の東京大空襲時、母親に背負われて錦糸町界隈を逃げ回り、兄が怖がって走り回るのを追いかけ、遂には諦めて死を覚悟して自宅に戻って死のうとしたのですが、焼け落ちていたので助かったと言う話を、よく母親から聞きました!
火の暑さを避けて川に逃げた人たちは、煙に負かれて助かった人はいなかったとのことでした!
兄と母が行動しなければ、私は1945年に焼死していたのだと、思っています。 (2019年08月20日 21時29分32秒)

Re[1]:この世界のかたすみに(08/19)   七詩 さん
tckyn3707さんへ
好む好まざるにかかわらず「歴史」になっていくと思います。
「この世界のかたすみに」も体験記ではなく、数々の記録などを基にした想像の産物です。 (2019年08月21日 00時10分50秒)

Re:いい映画です。(08/19)   七詩 さん
赤いオーケストラ荒木さんへ
基本的には戦争の悲劇を描いた映画なのですが、悲劇だけではなく、そこには市井の人々の哀歓があった。等身大の人間の日常生活を描くことで、結果的に大きな戦争の不幸も描いている。そんな作品だと思います。
(2019年08月21日 00時13分42秒)

Re[1]:この世界のかたすみに(08/19)   七詩 さん
カーク船長4761さんへ
戦争に行った人もどこに行ったかで生存率がずいぶん違う。
沖縄や南方にいくところ、船がなくなったことにより、激戦地を免れた人もいる。ほんのわずかのことで生死が変わる。
そうした時代だったのですね。


(2019年08月21日 00時16分49秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   h1212jp さん
「歴史というのは特定の人間によってではなく無名の多くの人々によって作られていくのではないか」・・・・そうだろうか?  そうではないだろう。

あの悲惨な侵略戦争は、ヒロヒトの名のもとに宣戦布告され、何百万の日本人、何千万のアジア民衆が、殺戮された。

特定の人間が、全体主義の頂点に立った時に、どれだけ多くの人民が、災禍に会うことか・・・歴史とはそういうものではないか?

今、世界の直近の脅威は、全体主義(=共産主義)の中国、北朝鮮の脅威だろう。あの中国の覇権主義、軍国主義や北朝鮮の先軍政治、一党独裁の専制政治を、誰も抑え込むことができないでいる。

(地球の未来は、果てしなく暗い)・・・というフレーズは、僕のブログで、いつも使わせてもらっている。

このアニメ映画の弱点は、「戦争は繰り返しません」「戦争は残酷だ」「戦争反対」ばかりを叫ぶリベラルたちの欠陥とオーバーラップする。戦犯ヒロヒトの戦争責任に触れないで、どうして(戦争を知る)ことが、できるのだろうか?
七誌さんは、大変、傍観者的な書き方をされていて、こんな調子で、僕は、語ってほしくない。

(戦争反対)は、当たり前で、誰も反対しない。
問題の根幹は、理不尽な侵略を受けたときに、それに見合う「抑止力」を確保せずに対応できるのか?ということだ。

多くのリベラルたちに、代わりの抑止力があるのか?と聞いてきたが・・・誰も、答えられなかった。こんな無責任な(運動?)は、無いだろう。

先の戦争では、多くの国民一人一人の人生を大きく狂わせたという意味で、ヒロヒトの戦争責任は、計り知れないほど巨大である。

南洋の孤島で当てのない援軍や物資を待ち続け、餓死していった多くの兵隊たち。着の身着のまままで、空襲の中を逃げ回り続けた民衆や、敗戦後、親を失った子供たちが、駅周辺にたむろして、物乞いしたり、食べるものを求めて盗みを働いたり・・・そういう無責任の頂点にいたのが、戦犯ヒロヒトだった。日本人は、未来永劫、忘れないでほしいと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(ヒロヒトの勅命で実施されたインパール作戦・・・参考資料)
8/15の敗戦記念日・・・・バカな戦争で、多くの人命や財産が奪われた・・・という記念日だ。毎年、この時期になると、マスコミ上で、苦しかった戦争体験が紹介される・・・そのことを、語り伝え続けるという意味で、とても良いことで、戦争の愚かさを噛みしめることが、とても、大切だ・・・・と言ってきた。

戦争は、多くの惨禍をもたらすということで、誰も、喜ぶことではないハズだ。
しかし、歴史上、多くの人類は、利権争いにどっぷりつかった好戦的な為政者の宣伝と扇動により、戦争に駆り立てられていった。

そして、戦争の最高責任者、たとえば、戦犯ヒロヒトは、免罪され、ぬくぬくと、生涯を、生き永らえたものだ・・・社会の不合理さは際立っている。

天皇制社会というものは、そういう特権階級の損得がすべての社会でもあったと思う。
戦争の悲劇をもたらした、最大の責任者ヒロヒトは、結局、天皇制を利用して戦後統治を進めるべく、(方針転換)したGHQ、マッカーサーにより、訴追を免れて、絞首刑にされることはなかった・・・・

そう、苦しみの塗炭にまみれた、庶民の(恨み節)が、聞こえてくる。
皆さんは、どう思われるか?      (はんぺん)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
インパール作戦「日本兵かわいそう」地元が語り継ぐ歴史 2019-8-13 インパール=奈良部健 染田屋竜太 守真弓、乗京真知 朝日新聞

 「この幅わずか2~3メートルのニントウコン川を見て下さい。日本軍と英国軍との戦闘が、ここでありました」
 インド北東部インパール郊外。目印もない道ばたで、地元出身のガイド、ヤイパバ・カンジャムさん(32)が説明を始めた。

インパールでは第2次大戦中の1944年、英領ビルマ(現ミャンマー)を占領した日本軍と、インドを植民地にしていた英国軍との間で、激しい戦闘が起きた。連合国軍の補給ルート分断を狙った、日本軍の「インパール作戦」として知られ、日本側は食料や武器弾薬の不備などで3万人超の死者を出した。

(つづく) (2019年08月21日 13時47分29秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   h1212jp さん
インパール作戦「日本兵かわいそう」地元が語り継ぐ歴史 2019-8-13 (つづき)
「攻撃はいつも夜中でした。想像して下さい。真っ暗で豪雨の中、飢えや病気に苦しみながら戦ったんです」。カンジャムさんは当時の兵士らの手記をもとに、そう解説した。
「これは私たちの歴史」
 カンジャムさんは首都ニューデリーでの観光会社勤めを辞め、2013年にインパールで戦争関連の場所を巡る「戦跡観光」の会社を知人と立ち上げた。

 きっかけは、ずっと持ってきた違和感だ。学校では1947年に英国から独立した歴史は時間をかけて教わるのに、多数が巻き込まれた地元での戦闘については学ばなかった。インパールのあるマニプール州には過激な独立派がおり、政府は治安部隊を配置して警戒対象にしている。辺境にあるため、同州が報道で話題になることも少ない。

「地元はずっと軽視され、孤立してきた。同じように忘れられてきた戦争の記憶も残さないと、忘れ去られてしまう。これは私たちの歴史だから」
 ガイド業とは別に文献を読み、地元のお年寄りたちへの戦時体験の聞き取り調査を進めた。「日本兵から悪いことはされなかった」「日本兵の暴力は恐ろしかった」――。お年寄りにはそれぞれの体験があった。
 調査に応じたニマイチャランさん(87)は、幼少期に母が病死し、11歳だった43年には日本軍の空爆で父親を失って孤児に。それでも取材にこう語った。
 「日本兵はかわいそう。人を殺さなければいけない状況に追い込まれたのだから」
 カンジャムさんは、4年かけて戦時を知る約50人に聞き取り、6月に「日本戦争の忘れられた声たち」という本を出版した。戦跡ツアーに参加する人も増えており、本に載せた証言を紹介している。
 インド歴史研究協議会のサラディンドゥ・ムケルジさんは「インターネットの普及で情報を入手しやすくなったこともあり、若い世代が自分たちの歴史に敏感になっている」と話す。
「勝者と敗者、ではない」
 インパール作戦の激戦地レッドヒル(赤い丘)のふもとには、6月に平和資料館ができた。日本兵のヘルメットや銃弾など約500点の展示品の多くは、地元の会社員ユンナム・ラジェシュワルさん(42)ら若者が発掘したものだ。
 「戦時中に山中を逃げ惑った」という祖父母の話を聞いてきたラジェシュワルさん。細かいことまでは知らなかった。歴史への漠然とした興味から約10年前に発掘や資料集めを始め、仲間を増やし、その意義を考えるようになっていった。
 仲間らと最も議論したのは集めた成果をどう継承し、どう展示するか。「勝者と敗者の視点で展示すべきではない」「考えではなく事実を伝えよう」――。
 ラジェシュワルさんは言う。「合意したのは、二度と戦争を起こさない思いを、若い世代と共有できる展示にすることです」
 資料館を訪れたスシラ・ヒュイドロンさん(27)は「資料館ができてうれしい。私たちの過去も残すべきものだから」と話した。(インパール=奈良部健)
 アジア・太平洋戦争で日本は、「南方作戦」として東南アジアのほぼ全域に侵攻した。主な狙いは資源確保。1933年に国際連盟(当時)を脱退して孤立し、英米などから石油禁輸措置などを受けていたからだ。結果として、現地の人々に多大な被害を与えた。
 仏領インドシナの一部だったベトナムでは40年に北部へ進駐し、コメを低価格で強制買い取りした結果、多くの地元住民を餓死させたとされる。南部にも進軍。さらにラオス、カンボジアへ軍を進めた。
 41年12月、真珠湾攻撃とほぼ同時に英領だったマレー半島に上陸し、後にシンガポールも占領した。中国とのつながりのある「抗日勢力」などとして、多くの華人を殺害した。
 オランダ植民地だったインドネシアは資源が多く、42年3月に日本が全域を軍政下に置いた。東部ビアク島では連合国軍との間で激戦になった。
 米国の植民地だったフィリピンでは、42年1月にマニラを占領。
4月、捕虜を約100キロ歩かせる「バターン死の行進」を決行して多くの犠牲者を出した。
 英領だったミャンマーでは、反英の若者らを軍事訓練。この中にアウンサンスーチー国家顧問の父、アウンサン氏もいた。42年3月にラングーン(現ヤンゴン)を占領。44年にはミャンマーからインパール作戦を決行した。
 タイには41年12月に南部などから上陸。その際に衝突が起きたが、やがて同盟を結んでアジア侵攻の基地にした。インパール作戦のため、捕虜や近隣国から集めた「労務者」らを酷使して、ミャンマーに続く泰緬(たいめん)鉄道も敷設した。(つづく)

(2019年08月21日 13時50分42秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   h1212jp さん
(つどき)

アイデンティティー探る動き

 かつて日本が「南方作戦」などとして侵略したアジアの国々に残る、戦争の記録や記憶の数々。マレーシアでは、若手記者らが高齢者に戦争体験を聞く英字紙の企画が人気で、占領期を描く本の出版も相次ぐ。インドネシアでは、占領期の公文書目録を刊行したり、当時のポスターなどを集めたりする試みが始まった。

 背景にアイデンティティー探しの側面があると、跡見学園女子大の小川忠教授(現代アジア論)は言う。

 東南アジアの多くの国は戦争を経て独立した。戦時を知る人は激減したが、インターネットの普及やITの発展が、情報集めを容易にしている。
 小川教授は「東南アジアにとって、日本による占領は、独立やアイデンティティーの確立に関わる歴史であり、資料を残す機運が青年たちの間で高まっている」と指摘する。

 一方、近年の経済成長によって日本の援助の重要性が薄れたことも歴史認識に影響したと、早稲田大の早瀬晋三教授(東南アジア史)は言う。
 「戦争の記憶は各地に残っていたが、経済支援が優先された。それが経済的、政治的に安定して、遠慮せず過去に関する意見が出るようになった」

 早瀬教授が過去30年分の東南アジア10カ国の英字紙を分析したところ、2001年に小泉純一郎首相が靖国神社に参拝した頃から、社説で独自の見解を示すなど、自分たちを歴史の当事者として描く記事が急増していたという。

 来年は戦後75年。アジアはまた一つの節目を迎えることになる。 (2019年08月21日 13時51分38秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   maki5417 さん
「この世界の片隅に」は、市井の女性の主人公にした物語でしたね。
舞台が呉で、なつかしく見ました。
口コミで広がり、吉祥寺でも上映された異色作です。

この夏は、母に戦時中のことを聞きました。
空襲を受けなかったことは知っていましたが、防空壕もなかったそうです。
家は町中でしたが、周りの農家とも取引があり食べ物にも苦労しなかったと言っていました。
陸軍の基地があった軍都でしたので、町全体が羽振りが良かったのかもしれません。
焼けなかったので城下町の街並みや道路は、そのまま残りました。
軍の基地は、大学→自衛隊で、現在に至っています。

戦争というと、空襲、食糧不足、学童疎開というイメージですが、それぞれの戦中があったように感じました。

(2019年08月21日 17時19分41秒)

Re[1]:この世界のかたすみに(08/19)   七詩 さん
h1212jpさんへ
沖縄も戦場になったが、アジアの国々も戦場になり多くの被害を受けた。
結果的にアジア独立につながったとしても、それもまた事実です。
そしてまた、昭和30年代か40年代くらいまでは、日本にもアジア蔑視の風潮があったように思います。
ですから建前としてはアジア解放があったとしても、それだけではすまない歴史もあります。
天皇はいろいろな見方がありますし、英明な君主であり、マッカーサーがお人柄にうたれたというのも真実かもしれない。けれどもそれはきちんとした資料があるわけではなく、検証のしようもありません。
自分の首が不安で、ソ連侵攻後即終戦を決断したのは、自分の身に危険が迫ったからだと想像していますが、それも真実かどうかはわかりません。ソ連侵攻が終戦の決断の契機になったというのはどうやら本当のようですけど。
(2019年08月21日 20時29分41秒)

Re[1]:この世界のかたすみに(08/19)   七詩 さん
maki5417さんへ
東京にいた親族から、空襲については目の前で部屋の半分が焼け落ちたという話を聞いたことがあります。ただそれ以上は聞きませんし、語りたがりもしませんでした。一方、母の住んでいた地方都市は空襲はなかったのですが、終戦後、ソ連軍が上陸してもうすぐやってくるという噂がとびかいパニックになったという話をきいています。いろいろなデマがあったのでしょう。
空襲というと焼け野原の写真がでますが、実際にはかなりの部分は農村に住んでいて空襲は関係ないという人も多かったのかもしれません。 (2019年08月21日 20時35分00秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   h1212jp さん
先の戦争では、戦争の悲劇は、数知れずに・・・このアニメ「この世界のかたすみに」は、戦争責任の問題をあいまいにしているという意味で、不満が残る。   この対馬丸の記事は、ご存じの方も多いが、若い世代では、語り伝えられないで、消えていくのかも・・・僕のブログから紹介する
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この対馬丸の悲劇は、よく記事にされる。
先の戦争では、多くの女性、子供、老人が、殺された。総力戦の時代だから、天皇の帝国(日本)は、国民を総動員して、戦争に駆り立てた。

文句を言うものは(非国民)というレッテルを張られて、捕まえられて、壮絶な拷問を受けている。

多くの国民を戦争に駆り立て、悲惨な人生を強いた(戦争責任)を、いつも考える。ヒロヒトの名で、宣戦布告がなされたが、それ以前から、満州事変という戦争は、始まっていて、多くの兵隊たちは、(聖戦)という美名に騙されて、悲劇が始まっていた。

戦争の最終責任者は、ヒロヒトだ。彼の命令が無ければ、満州事変も、太平洋戦争も、なかったのだから。勅命(天皇の命令)が、この国の最高命令だった。
戦争最高指導者のトップにあった天皇ヒロヒトは、東条英機の前に、真っ先に絞首刑にされるべきであった・・・ことは、間違いない。

この事実から、目をふさぎ、「天皇は平和主義者だった」などという、ふざけてデマを拡散する政治家や学者がいるのは知っている。歴史を偽造する所業であるといわざるを得ない。

国民の生死は、「運」以外の何物でもなかった。独裁者は、国民を道具として利用して支配を続ける・・・前時代的国家が、それ以後も、地球上に続々と立ち現れてきた。

救いの無い人類の歴史を・・・・勉強している。   (はんぺん)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「お前だけ生きてうちの子は死んだ」石を投げつけられ…船沈没から生き延びた少年、遺族の目、避け続け      2019-8-20   琉球新報
 終戦翌年の1946年夏、疎開先の宮崎県から引き揚げると、那覇市内の民家を訪ねた。一緒に対馬丸に乗った同級生の死を伝えるためだった。出迎えた母親はにらみつけてこう言った。「お前だけ生きて、うちの子は死んだというのか」。玄関先の石を何度も何度も投げつけられた。

 大嶺正次郎さん(88)=那覇市=は当時のことを鮮明に覚えている。同級生の母親からは乗船前に「兄弟のようにしてくれ。万一のときは助け合って」と念を押されていた。この一件以来、対馬丸との関わりはほとんど避けてきた。

 那覇国民学校高等科2年生だった13歳のとき、対馬丸に乗船した。当時、既に沖縄近海の制海権は米軍が握っているとのうわさは市民にも伝わっていた。ただ「長めの遠足。1カ月くらいで帰れるだろうと思っていた」。家族の反対を押し切って疎開を決めた。

 自分は強運だと思う。被弾した船倉内では、乗船者が逃げ惑う中で、偶然見つけたはしごを使って難なく甲板に出られた。海に飛び込むと手の届くところに救命ボートが浮かび上がった。漂流して数日、偵察機に発見され、知らせを受けた漁船に救助された。

 かん口令が敷かれ、憲兵や警察に監視される中、故郷の母と祖母には「カネヲクレ」と電報を打ち「無事」を伝えた。疎開先で国民学校を卒業すると朝鮮鉄道で働いた。終戦後、朝鮮から引き揚げてくる時も海難事故に遭ったが、乗船者の中で唯一助かった。再び疎開先の宮崎に戻り、住み込みで働いた。家の主人はかつて沖縄に住んでいたことがあり、かわいがってくれた。母と祖母は沖縄戦を生き延びた。

 戦後は給料の良い仕事にありつき家も建てられた。結婚し子宝にも恵まれ、子は3人、孫6人、ひ孫も4人いる。対馬丸には疎開者1661人と船員ら127人の計1788人が乗ったとされ、名前が判明している犠牲者は1484人。「私は助かった約300人の一人。運以外の何物でもない」

(つづく)
(2019年08月22日 11時38分28秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   h1212jp さん
(つづき)

ただ、対馬丸から生還したことが、良いことだとは決して思えなかった。
石を投げつけた同級生の母親だけでなく、生存者であることを知る対馬丸の遺族からは「あなたは結婚して子どもをつくったけど、うちの子は…」と何度も言われた。「遺族の顔を見ると心が苦しい。本当に苦しかった」。毎年8月22日の慰霊祭には参加してこなかった。

 4、5年前、病気で入院していた対馬丸生存者の同級生を見舞いに行った。生き残り同士、つらい経験をしてきたこと。その一方で、夢をかなえられずに犠牲になった学童たちのこと…。「今の子どもには同じ経験をさせたくない」と、対馬丸記念館の活動に参加するようになった。

 自宅玄関の壁には、大きく引き伸ばした対馬丸の写真を額に入れて飾っている。「私の人生の原点ですから。残り短い命だけど、生きているうちに、できるだけ対馬丸の悲劇と教訓を世の中に残していきたい」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 学童や一般の疎開者を乗せた対馬丸が米軍の潜水艦に撃沈されて22日で75年を迎える。生存者や遺族ら対馬丸をめぐる人々は何を思い、何を背負って生きたのか。それぞれの“航跡”をたどった。 (2019年08月22日 11時39分01秒)

Re[1]:この世界のかたすみに(08/19)   七詩 さん
h1212jpさんへ
戦争責任の問題をあいまいにしたのは天皇についての責任の議論が起きるのを避けたかったからでしょうね。A級戦犯として処刑された人々はどっかで天皇の身代わりになったという意識があったのでしょうし、愛知県に殉国七士の碑がありますが、これも国に殉じたというよりは天皇に殉じたということでしょう。敗戦を契機に共和政体や大統領制に変わっても国自体は存続したでしょうから。
でもそうした戦争責任をあいまいにしたことがずっと尾をひいているのですね。一億総懺悔というのはありていにいえば「誰も悪くない」「誰も責任をとらなくてよい」ということなのですから。
(2019年08月22日 12時11分24秒)

Re:この世界のかたすみに(08/19)   ・曙光 さん
>戦争責任の問題をあいまいにしたのは天皇についての責任の議論が起きるのを避けたかったからでしょうね。

戦争とは戦勝国はどんな悪行を重ねても、勝てば官軍、勝てば総どり、負ければ殲滅である。ナチスの悪行よりも酷い原爆投下が戦勝国であれば、誰も責めを負う事はない。
戦争責任などナンセンスの極みだろう。敗戦国に莫大な補償金を科すなど、水に墜ちた犬を叩くと同様のナンセンスさである。

天皇についていえば、GHQが連合国総司令官マッカーサーですら天皇を罪人にできなかった。そしてそれが誤りでなかったことを実証できるのが戦後の全国巡幸、行脚での圧倒的大多数の日本国民からの天皇への熱烈歓迎ぶりである。

マッカーサーと天皇の会談で、命乞いをすると想定していたマッカーサーに対して天皇は「私は、戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また、私は、日本の名においてなされた、すべての軍事司令官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います。しかしながら、罪なき8千万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と述べたのである。
どうせ命乞いに来るのだろうと思っていたのに、自らの命と引き換えに、自国民を救って欲しいと願い出る国王など、世界の歴史上殆どおらず、想定外の驚きであり、これにより、それまでパイプ片手に尊大にふるまっていたマッカーサーの態度は一変し尊敬と畏怖を思って天皇に接するように変わったのである。

世界で類を見ない約2860年の伝統的系譜を持ち、現在世界で唯一エンペラーと称せられる天皇を日本国民はみっとも無くも天皇を呼び捨てにしたりせず、誇りと敬愛を以って天皇を大事にするべきであろう。
(2019年08月23日 23時37分20秒)


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