さる方のブログに記述してあったこと、そして映画が公開されたということで、この有名なSFを読んでみることとした。さっそく図書館でさがしたのだが、なんと20人以上の予約待ちとのこと、そこで早速予約をしたのだが、往々にしてあることで、上巻よりも中巻の方が先に届いた。本来ならこうしたものは上巻から読むべきなのだが、予約の期限もあるので中巻を読み始めた。
…というわけで、物語は主人公と母の砂漠の逃避行で始まった。
こうしたSFの難しさは、砂漠も地球上にないわけではないので、いかにして異世界の雰囲気をだすかである。同じような感じはSF「闇の左手」で主人公たちが氷雪の中を彷徨する場面でも感じた。小説でも映像でも、そこが上手くいかないと単なる地球上の冒険ものと変わらなくなる。「砂の惑星」は映画化されており、映画の予告編や画像もネットで見ることができるので、映画場面を想像しながら読んだ。そう思って読むと、悪役や母、恋人?の人物設定などいかにも映画という感じであるし、能力が覚醒していく少年という設定は「スターウォーズ」にも通じる。そして砂漠にうごめく巨大な虫…これはナウシカにもでてくる。まあ、SFには共通のアイディアや設定は珍しくないし、上巻、あるいは下巻を読むのが楽しみだ。
それにしても、こうしたSFは、なぜ現代を超える科学的知見や技術を描きながら、政治体制は皇帝だの貴族だの姫だのと古めかしい設定が多いのだろう。「銀河英雄伝説」でも、いくら時を経ても人間の営みは変わらないという言葉がでてくるが、変わらなすぎだろう。
つまり、SFでは、どこかの惑星系の異世界など想像力の翼を広げているのだが、人間の社会や政治体制についてはあまり想像力を使っていない。もしあるとしたら「1984年」のようなディストピア小説か「ガリヴァー旅行記」のような寓意ファンタジー小説かなんかなのだろう…いやもうひとつあった。「アンドロメダ星雲」という早川SF全集に入っていたソ連の小説だ。社会主義社会が究極に発達した遠い未来の人類の宇宙旅行を描いた物語なのだが、そこは差別(なぜか人種の差は残っていた)も軋轢もない世界で、したがって、物語は退屈そのものだった。高校生の頃に読んで、途中リタイアしたのだが、二度と手にとることはないだろう。町の図書館の開架棚には置いてあるけれども。
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