水村美苗の「本格小説」という小説を読んでいる。
まだ、半分くらいなのだが、作者の投影とも思われる「私」がこの小説を書くにいたる経緯(この部分も小説の一部なのだが)が、序盤のかなり長い部分を占めており、それにより、この小説に「本格小説」というタイトルをつけた理由を想像してみる。米国で日本文学の教鞭をとる「私」は日本文学には私小説的なるものが大いにあるとみており、これに対して海外文学に見られるような作者を神の視点に置いた小説が少ないとしている。そうした私小説的なるものから脱却した主節として「本格小説」と銘打ったのではないか…たぶんあたっていると思う。作者の分身である「私」が退場し、それこそ私小説部分が終わった後、「本格小説」の世界が始まる。
軽井沢の友人の別荘に行った若者が。自転車で道に迷い古い別荘の生け垣に衝突したことで、別荘の所有者である風変わりな男とそこに仕える女中と称する女に出会う。若者は女中や女中を通じて知り合った別荘族の老女たちから男にまつわる物語を聞く。男は、もとは別荘を所有していた上流階級に仕える車夫の孤児であり、米国に渡って財をなして日本に戻って来たのだという。「私」は米国に居住していた頃、男が住み込みの運転手からベンチャー企業の社長となり巨富になるまでを知っていたというわけである。
文章は読み易いだけでなく、はっとするような情景描写の名文もあり、しかも「私」は世代的にもそんなに若くはなさそうだ。作者紹介をみると、なんでこうした作者を今まで知らなかったのか不思議に思う。「私」が最初に言っているように、物語のプロットはある古典的な名作に酷似している。非常に気に入った名作がある場合、小説家はそうしたものを自分の世界に移し替え、自分の筆で書きたいと思うのだろう。登場人物のドラマが始まるのは。これからなので、作者がいかにあの名作を自分流に作り直すかも興味深い。
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