「デイヴィッド・コパフィールド」を読んでいる。もうすぐ読み終わるので全体の感想はそのときに書くこととするが、読み進むにつれてとにかく面白い。特に最初の頃にでてきた伏線が回収されていく後半部が面白いので、ありそうもない奇人変人ばかりの出てくる最初の部分で投げ出すのはもったいない。
この小説については、長い間、孤児の主人公の名が題名になっていることから「オリバー・ツイスト」と同じようなものかと思っていたのだが(なんたる無知)、幼少期に両親を亡くした主人公が作家となり家庭を築くまでを描いた.小説で趣が違う。自伝的小説ともいわれるが、登場人物はかなりデフォルメされ、主人公の生涯も実際の作者のそれよりもずっと波乱万丈に描かれている。
ところで、最近、「デイヴィッド・コパフィールド」は「どん底作家の人生に幸あれ」という題で映画化されている。映画はみていないのだが、紹介サイトをみると、これは波乱万丈な主人公の人生をさらに波乱万丈にしているだけでなく、主人公の俳優はインド系、ヒロインは黒人、その父はアジア系の俳優が演じており、こうなると、もう原作を離れた別の作品と見た方がよい。映画では、白人の登場人物をアフリカ系やアジア系にする場合があり、おそらく人種平等や多様性への理解ということなのかもしれないが、ちょっと違うように思う。
今まで読みすすんで印象的なのは作中の三人のヒロインに対する主人公のかかわり方だ。初恋の少女エミリーは忠実な女中の親族であり、「身分違い」を認識している主人公はそれ以上に深い仲にはならない。翻訳では中産階級以上と労働者階級の言葉遣いは区別されており、当時の階級社会の強固さがうかがわれる。主人公の妻となるドーラは可愛らしく幼女のような女性で、デフォルメされた描写ではほとんど知的障害のようなのだが、主人公は出会ってたちまち「虜になる」。母親も実務能力のない頼りない女性で、そうした母親の面影をドーラの中にみたのかもしれない。ドーラは病気で若くして亡くなる(ご都合主義的展開)のだが、男女の仲についての洞察では主人公よりも鋭いところもある。ドーラは自分に知性が足りないことを自覚しており、いずれは夫に愛されなくなっていくことを不安に思っているし、おそらくその不安はあたっていた。実際に主人公の心のどこかにも結婚を悔いる気持ちがめばえはじめていた。若い日の恋と結婚は違う。生活が進む中で食い違っていく男女の仲というものもあるのだろう。最後のヒロインアグニスは美しく賢い理想的女性なのだが、主人公が浮浪児同然の境遇にあるとき姉のように世話をした女性でもある。そのためもあり、主人公は長い間彼女を女性としては見なかったのであるが、妻ドーラを亡くした悲しみから立ち直った後(これも外国旅行で大自然の美に癒されるという今では月並みな展開)、女性としての彼女を見直す。背景には主人公の社会的成功も含めた成長があったからだろう。