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カテゴリ:雑感
はじめて親ガチャという言葉を聞いた時なんともいえない嫌な感じがした。 なぜいやだったのかというのは当初はわからなかったが、どうやらこの言葉に含まれる他責志向というものに嫌悪を感じたのだと思う。 親ガチャという言葉を好んで使う人には共通点がある。 子供ではなく十分に成長した大人であること。そもそも子供はこんな言葉をあまり使わない。 つぎに親ガチャに当たったというよりも外れたという文脈で使われることが多いこと。 健康に生まれて無事に大人になっただけで、親には感謝すべきなのだと思うのだが、「親ガチャ」という言葉を使う人はもっと金持ちの親だったらとか、もっと社会的地位のある親だったらとか考えるらしい。自分の思い通りにならない人生を親のせいにするのは一種の他責志向だろう。 他責志向だけでなく、依存心の強い人も増えたようだ。 事件の加害者ではなく被害者なのだが、かの農水省次官の息子は「親は最期の一分一秒まで子供に責任を持つべきだ」と言っていたというが、ひきこもりやニートの中にはこういう精神構造の人もいるらしい。「産んでくれと頼んだわけではない」と言うが頼んで産まれてくる人などこの世にいない。平塚の両親殺害50歳ニート(事件の続報なし)は親に対する強い恨みがあったというし、駅構内切り付け男43歳は子供の頃に親に試験の成績が悪いと怒られたのが犯行の動機だという。 その一方では、貧困や低所得といった問題については、自己責任論が声高に言われている。ロスジェネの問題にしても、年越し派遣村騒動などで、社会問題として可視化されたかと思ったら、「甘えるな」の自己責任論や本人のスキルの問題とされて見えなくなっていったように思う。ロスジェネがいよいよ50歳を過ぎて生活保護に大挙なだれこみそうになって、いまさらながらにロスジェネ対策などといっているが、too lateというものだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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