2458284 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

七詩さんのHP

PR

全58件 (58件中 21-30件目)

< 1 2 3 4 5 6 >

格差社会

2008年06月03日
XML
カテゴリ:格差社会
今の日本の最大の懸案・・・それは格差と貧困の問題ではないのだろうか。
格差といったって上の方が高収入を得ているのは別に問題ではない。
問題なのは下の方、つまり貧困層がどんどんと増加していることである。
21世紀の平成の貧困はかっての貧困とは違う。

かっては貧困層といえども家族がいた。
貧乏者の子沢山というように貧しくとも子供の扶養はできたのである。
ところが今の貧困者は結婚もできない。
それどころか親に扶養をしてもらっている人だっている。
健康な人間が真面目に働いて自分の口も養えないような貧困なんてかってあっただろうか。
独身という生き方を否定はしないが、多くの人が結婚したくてもできないような社会は確実に不安定になる。
急激な社会の変革変動など子供を持っていれば望まないのだが、独身者はそうでもないだろうからである。

そしてもう一つは前述のことにも関係するが貧困層と貧困階級は別ということである。
古来人間の貧困はほとんどの場合「生まれ」とセットになっていた。
賤民の子は賤民、貧乏人の子は貧乏人というように・・・。
もちろん貧困の再生産ということは今の時代にもあるだろうし、それはそれで問題である。
ただ平成の今は、貧困層に落ちるかどうかについて、「生まれ」が必ずしも決定的要素ではないように思う。
ごくごく普通に生きてきた人間が、ある日、失職したりすればそのまま社会の底に沈んでいくような、そんな怖さが現代の貧困にはあるのではないか。
要するに多くの人にとって貧困は他人事ではない。

たぶんこうした貧困層の声を救いあげ、貧困層と連帯する政治勢力がでてきたら大躍進するであろう。
どうしたらこうした層に訴え、支持を得ることができるか。
簡単なことである。
同じ目線にたって様々なスローガンや施策を検証してみればよいのである。
少子化問題といったって、今後うまれてくる赤ん坊よりも今生活に苦しんでいる人をなんとかしてほしいと思うだろう。それに20代や30代の感覚では結婚もでき、子供もいる人なんてのはある種の勝ち組だろう。
子育て世帯優遇なんてのはありていにいえば勝ち組優遇、高いところに土を盛る施策にしかみえない。
男女共同参画だって同様。男性の中に、そして女性の中に凄まじい格差が生じているのに、いまさら女性を参画させろでもないだろう。それに育児休業や保育所などの施策も結局は恩恵を受けるのは大企業で安定的に働いている女性だけだろう。
ましてや途上国の貧困や国際貢献などといわれたら、オレの貧困をなんとかしてくれといいたくなるだろうし、宗教のような9条賛美や平和念仏などは遠い木霊としか聞こえないのではないか。

蟹工船がベストセラーになり、貧困問題を扱った本が売れるなど、ゆきすぎた市場原理主義にストップをかけ、真面目に生きている人が人間らしい生活をおくれるような施策を唱える政治勢力に対する期待はすごく高まっている。
そうした意味で次の選挙は蟹・工・選挙。
有権者の期待を担い大躍進するのはどんな政治勢力なのだろうか。






最終更新日  2008年06月03日 06時29分12秒
コメント(4) | コメントを書く


2008年06月01日
カテゴリ:格差社会
どっかの国の諺に「這っていく人の上を飛んでいく人がいる」という表現があるという。
人の能力差の大きいことを表した諺である。
スポーツや音楽の才の差については子供の頃から誰でも実感するのだが、学業だって実は同じようなものではないか。
さらにいえば人の上にたち人を動かしていく能力や組織を運営していく能力。
こうしたものだってかなり天賦のものである。
もちろん努力や研鑽は重要だし、自分には能力がないといってみたところでよいことなど何一つない。ましてやあいつには能力がないというように人の能力云々を決め付けるのも傲慢というものだろう。
ただ、そうしたものを踏まえても人の能力には天地ほどの差がある。
これはどうも否定しようがない。

だから教育の問題にしても格差の問題にしても、この能力の差を前提にしない議論はどこかむなしくうそ臭い。
また、この能力の差を最初から前提にしておかないと、逆にそれを結論にしてしまうことにもなりかねない。
能力に差があるのだから格差はあってあたりまえだというように。
また、能力の差をいうと、それをすぐに人間としての「価値の差」のようにとらえ、反発する人も多い。
運動能力や容姿の差を指摘しても、それで人の価値の優劣(女性の価値はともかくとして)が決まるなんて思う人は多くないのに、なぜ知的能力となるとすぐに人間の価値の差にむすびつけるのだろう。
それこそ不思議だ。
たしかに今の社会では知的能力が社会での成功の鍵を握る場合が多い。
もちろんこの知的能力というのは、組織運営能力、指導力、専門知識などで、学力などはそのごく一部にしかすぎないのだが。
でも、社会的成功というのなら、運動能力や容姿、音楽的才能などで成功する人もいるのだから、知的能力だけが特別というわけでもあるまい。

アフリカ開発会議のイベントで、「人間○」という人文字を作った写真があったが、格差や貧困の問題を考える上での発想もこれにつきるように思う。
能力などの様々な差にもかかわらず人間というものはそれだけで価値ある存在なのだという考え方である。
そしてまたそうした価値を認めない社会は結局はうまくいかないのではないか。
能力に差があるから格差は当然というのではなく、能力云々にかぎらず人間は価値あるもので、だからこそ誠実に真面目に生きている人が人間として生きるにたる人生を送ることができるようにすることこそ政治の役割なのではないか。
格差社会といって、多くの人が貧困や希望のない状態に追いやられているような社会は、結局は病んでいる。
憲法25条の精神もそこにあるのではないかと思う。
今、話題の蟹工船。ようやく書店で平積みになっているところから購入した。
感想はいずれ日記に書くこととする。

なお能力と社会的成功を結びつけるのは一般論であって、個別には運不運も含め様々な要素があるだろう。そういう意味で別に今の貧困者の一人ひとりが能力がないといっているわけではないし、そうした人々が再チャレンジの機会を持つことは重要だと思っている。
※※
アフリカ開発会議の関連でアサヒは何ページもさいてアフリカの貧困問題の記事を掲載していた。バブル時代ならともかく今の日本の現状を考えると違和感を感じてならない。
日本は、もはやゆたかな国ではなく、貧困や格差が急速に広がり、強盗殺人などの事件も毎日のように起きている。
アフリカ開発会議に使ったあの膨大な税金は、日本国内の貧困者のために使った方がよかったのではないか。






最終更新日  2008年06月01日 09時03分34秒
コメント(11) | コメントを書く
2008年05月30日
カテゴリ:格差社会
能力差を勘定に入れない議論というのはどうも嘘っぽい。
努力すれば何でもできるという努力信仰や親の経済力で学力は決まるという経済力信仰。
それも全く違うとはいわないけど、一番大事なのは能力ではないか。
なぜそんな自明なことを誰もいわない…。
同様に格差の議論だって、なぜか能力の差を避けたものが多い。
機会の平等さえ確保すればよい、結果の平等は自己責任なんていうのはその最たるものだ。
いくら再チャレンジをしたところで勝つ人と負ける人はだいたい決まっている。
再チャレンジの機会さえ与えれば格差が解決するなんて、人を騙すのもいいかげんにしろ。
格差の議論だって究極には能力差を認めたうえで格差をどうしましょうかという価値観の問題ではないか。
たぶん能力差にかかわらず結果がすべて平等、つまり「能力に応じて働き(機会の平等)、必要に応じて与えられる(結果の平等)」が絵空事だなんてのは皆が知っている。
じゃあ、能力差がある以上、それに基づく格差はいくらあってもよいのだろうか。
時々、人間の感情の中で、経済を動かすのは欲望という感情、そして政治を動かすのは嫉妬という感情ではないかと思うときがある。
嫉妬はしばしば自分を高めるよりも、相手を引き摺り下ろす方に向かう。
貧しく希望がもてない人が一定数に達するような社会では、そんな嫉妬の勘定が爆発することがあるのではないか。
クメールルージュの恐怖政治をよびよせた民衆だって、おそらくあれで国がよくなるなんて思ったわけではない。
ただ、今まで豊かに暮らしていたインテリが公開処刑されるところをみたかっただけではないか。
明日はわが身だとも考えずに・・・。
人間とはそれくらいおろかしい生き物だし、だからこそ、例えそれが能力によるものでも度をこした格差社会は危険だと思う。
ところで、最近何かと話題のマルクスも人間の能力差についてはあまりいっていない。
生産手段を所有する資本家と労働力以外に売るものがない労働者に人間を分けたが、現在ではその労働力の価値が能力やその結果としての技術によって天地ほどの差がついているのである。
そう考えるとマルクスの理論自体、科学技術が未発達で多くの人が単純労働についていた時代のものとしか思えない。
格差に克つ理論を構築するのなら、マルクスの焼き直しだけではたぶん無理だろう。






最終更新日  2008年05月31日 05時19分15秒
コメント(4) | コメントを書く
2008年05月28日
カテゴリ:格差社会
最近、格差にからんで「階級」という言葉をよく聞く。
しかしながら格差と階級は違う。
階級といえば、親の社会的地位が子に受け継がれた結果としての同質の社会的地位を有する集団をさす。
いわば機会の不平等の所産としての階級なるものがあるわけである。
しかしながら、今おきていることは、市場原理主義の下でのとてつもない結果の不平等であって、それとはちょっと別だ。
それに、どうも階級とか階級社会というと、ついつい地主の子は地主、労働者の子供は労働者といった社会が安定的で単純だった時代の匂いを感じてしまう。
「ダボハゼの子はダボハゼ、職工の子は職工」という台詞がなんかの映画にあったが、戦後の日本はそんな社会ではなかった。
職工の子で成績優秀なら県立第一高校から大学に行き、社会的地位を手に入れる機会はあったのである。
ちょうど日雇いの子が堂々たるエンジニアになったあのヨイトマケの唄のように…。
だいたい、「階級」という言葉を使うと、議論はつい機会の平等の確保だけに流れがちである。機会の平等はもちろん重要だが、でも、機会の平等さえあればよいというものでもあるまい。
低所得の人の中にも、今のところは親の扶養を受けていたり、親の家に住んでいるという人は多い。
しかし、彼らもやがては親の高齢化や死別とともに街にでてくる。
そうなったとき、本当に深刻な社会対立が起きるであろう。
ただそれは、古典的な階級闘争というのとは違うような気がする。






最終更新日  2008年05月28日 06時33分01秒
コメント(2) | コメントを書く
2008年05月25日
カテゴリ:格差社会
気になる言葉のひとつに「ロストジェネレーション」という言葉がある。
しばしばこの言葉は非正規雇用や若年者貧困の問題と同視され、この言葉を冠した雑誌まででている。
しかし格差や貧困の問題は決して特定の世代だけの問題ではないはずだ。
それを「ロストジェネレーション」という言葉を使うとあたかもそれが特定世代だけの問題と錯覚されてしまうかもしれない。
現実には、ロスジェネの上のバブル世代にだって、就職後、烈しいリストラ攻勢にさらされ、今ではアルバイトでようやく生活しているという人もいることだろう。

格差や貧困の問題は決して特定世代の問題ではなく、経営側が最大の利潤を生み出すために人件費を抑制しはじめたこと、いいかえれば資本主義の暴走がその背景にあるとしか思えない。
思えば、日本の企業は長らくムラ社会がそのまま企業に移ったような人事管理を行っていた。終身雇用制と年功序列賃金がその代表的なものである。
ところがある時期をさかいに、経営者達は、そんな家族的経営で社員を遇するよりも、人間だって機械や原材料と同じような発想で扱ったほうがはるかに利潤があがるということに気づいてしまった。
そんな中からでてきたのが格差や新しいタイプの貧困の問題である。
たぶん中高年のリストラが話題になった頃からこの傾向は始まり、その後、就職難、非正規雇用の激増、ワーキングプア、ネットカフェ難民と拡大していった。
最近では名ばかり管理職、職場いじめ、過労死など正社員の問題もでてきている。
成果主義や実績主義についても、今ではそれがあたかもよいものであるかのように言われているが、そのうち40代、50代で初任給並みの賃金のままで働く社員が激増し、これも問題になってくることだろう。

小林多喜二がブームであるが、多喜二は宮沢賢治とほぼ同時代人であり、死んだ年(昭和8年)は奇しくも同じである。二人とも多感な時期にロシア革命のニュースに接している。
それが文学や思想に影響を与えたことは想像に難くないし、そう思ってみると宮沢賢治の作品にもプロレタリア文学的なものもある。
オッベルと象やカイロ団長などは搾取と被搾取の物語ともみえるし、他の童話にも社会主義の影響を指摘する研究者もいるという。
宮沢賢治は理想の農村共同体を作ろうとして羅須地人協会を創設したが、この羅須という言葉についてもロシアのもじりではないかという指摘もあるようだ。
岩手といえば賢治、賢治といえば岩手というよに岩手と賢治はつながりが深いが、岩手にはもう一人有力な政治家もいる。
彼も最近では生活重視とかいっているらしいが、彼の顔をみるといつもあの「なめとこ山の熊」にでてくる旦那を思い出す。彼もまた善良な猟師から金を搾り取る搾取者であった。






最終更新日  2008年05月25日 12時55分45秒
コメント(2) | コメントを書く
2008年05月23日
テーマ:ニュース(81120)
カテゴリ:格差社会
ついに週刊新潮もとりあげた多喜二ブーム。
でもそのタイトルが「多喜二はエリート銀行員だった」だなんて。
これって文学史に詳しい人なら誰でも知っている話でなんでこれが週刊誌の見出しになるの?
それに週刊新潮だから揶揄して書いてあるのかななんて思ったら、中味は絶賛と読書のすすめだ。
最後は何度も読まれるのは本物だから・・・という評論家の言葉でしめくくっている。
大見出しと3ページの紙面で自社の文庫本の宣伝をするなんて。

しかしついに多喜二ブームは週刊新潮にまでとりあげられるようになったか。
そういえば、時空はとぶけど、ヨーロッパでもキリスト教が普及する過程で民衆に訴えたのは異国の聖人よりも自国の殉教者の物語だった。
殉教者多喜二のブームは共産主義再評価につながるのだろうか。
昔と違って今は共産主義に対する抵抗感はない。
かっての「アカは怖い」式の感覚は、小学校から行われた国家神道の洗脳教育の成果だけではなく、人々が村社会や血縁共同体にどっぷりとくみこまれていたことにもよるのではないか。
ムラ共同体が日本を覆っていて、どこでも地主の総本家があって、日本全体の総本家が天皇家という構造である。
そんな中では共産主義思想などは共同体を破壊する異端思想として忌み嫌われたのも無理もない。
それに貧しい小作民だってムラの一員ではあったし(長塚節の「土」など)、都市の労働者も家族共同体はもっていた。
今のように貧困者が家族ももたず、定着した職場ももたずに浮遊している状態というのは歴史上初めてではないか。
そうした人々を中心に、やがては共産主義がカッコよい思想としてブームになっていくような気がする。
非合法時代と流血闘争の歴史をかかえた危険な匂い。
血をシンボルカラーとする赤旗。
自己責任や負け組などと弱者に対する嘲笑ばかりが聞こえてくる日本社会で「人間は平等だ。立ち上がれ。君たちには鉄鎖以外に失うものはなにもないのだから」というマルクスの声は新鮮で福音のように響くだろう。
大公園が赤旗で埋まり、インターナショナルやワルシャワ労働歌がこだまするなんていうときが案外近いうちにくるかもしれない。

労働者は分断され労組による地位向上も望むべくもない。
そして労働者の地位を守るはずの厚労省の役人が大企業に天下りする時代。
このままでは資本主義の暴走はとまらない。






最終更新日  2008年05月23日 06時43分21秒
コメント(8) | コメントを書く
2008年05月21日
テーマ:ニュース(81120)
カテゴリ:格差社会
最近、気になっているのは資本主義の暴走。
規制緩和、官より民、小さな政府・・・とそんな掛け声に踊っているうちに、いつのまにか日本は国内に膨大な貧困層やその予備軍をかかえる国になってしまった。
自分で自分の生計すらたてられず親に寄生したりネットカフェを泊まり歩く人が多勢いるなんていうのは普通じゃないだろう。
日本にはそこはかとない共同体の伝統があって戦後は企業がこの共同体の役割を引き継いできたのだが、企業がその役割を放棄し、株主や経営者のための企業となってから、世の中は変わってきたようだ。
30年代くらい前だったら多くの人に帰るべき故郷があった。
会社がだめなら親の畑を手伝えばよいという農村社会のセーフティネットである。
また国によっては信仰共同体のようなものがセーフティネットの役割を果たしているところもある。
でも、今の日本にはそんなセーフティネットはないし、最後のセーフティネットである市町村の福祉窓口すらも水際作戦などをやっている時代だ。
もう最近ではマルクスの亡霊にでも、もう一度でてきてもらわないと、この暴走、貧困者の量産という流れはとまらないのでは・・・と思ってしまう。
(同趣旨のHPがここにあるので参照 http://www33.ocn.ne.jp/~massan/bourei.htm)

法律というものは社会を適正に維持し人の幸福に寄与するためにあるもので、そうならないとしたらそんな法律は早急に見直す必要があるだろう。
300日規定(婚姻解消後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する)などはまさにそれではないか。
女性は家にじっとしているもので、婚姻解消があるとしたら死別か夫の家から追い出される場合かのいずれしかない。そして貞女は二夫にまみえず・・・。
もちろん医学も未発達で、誰が誰の子かなんてことも容貌の類似などで見当をつけるしかない。
とまあ、こんな時代なら300日規定もそれなりに意味があったかもしれない。
しかし、今の時代は女性も積極的に動き、医学で正確な親子鑑定もできる時代だ。
前夫の子と推定するか否かが問題になるのは通常は後夫がいる場合だろう。
前夫と離別し、300日以内に再婚し子供が生まれたら常識的にはそれは後夫の子ではないか。
結婚生活が破綻した状態で離婚の直前で「子作り」をするなど普通はありえないことだからである。
こうした法律の条項が今も残っているのってすごく不思議だ。






最終更新日  2008年05月21日 06時48分17秒
コメント(2) | コメントを書く
2008年05月19日
カテゴリ:格差社会
格差には機会の格差と結果の格差とがある。
いいかえれば機会の平等と結果の平等ということになる。
どうも世の中をみてみると機会の平等を云々する議論の方が多い。
中には機会の平等は保障すべきだが結果の平等は問題でないかのような極論もある。
本当にそうなのだろうか。

今、起きていることはとてつもない結果の不平等の進行である。
もちろん今の貧困者の中には最初から機会も平等ではなかった人も多い。
しかしそうでない人も相当数いるのではないか。
そしてそんな中には、今のところは余裕のある親の扶養や庇護を受けているが、やがては貧困者として街に放り出されてくる人もいる。
機会の平等というと、普通は下から上にいく「機会」が平等にあることを想像するが、本当の意味の機会の平等とは上から下にいく「可能性」もまた平等であるという社会である。
そうした意味でまさに今の日本は機会の平等はかなり達成した社会であるといえる。
さて、そんな中で、貧しく育って今も貧しいという人と豊かに育って今は貧しいという人とでは、不満や不幸の程度はどちらが大きいのだろうか。
おそらくは後者の方だろう。
今のところ、彼らは蔓延する自己責任論の中で自分を責めているばかりなのかもしれないけど、やがては社会に目を向け、社会の変革を求めるようになるのではないか。
そして市場原理主義的な競争一辺倒の方向に異議をとなえるようになるのではないか。
いや、もうそうした動きは起こり始めているのかもしれない。

それにしても機会の格差と結果の格差の議論で、ともすれば機会の格差に目が向きがちなのはなぜだろうか。
たぶんそれは親の経済力で学歴や社会的地位が決まると思いたい人が多いからではないか。
親がもっと豊かであれば自分にはもっと高い学力や学歴が身についたはずだと。
本当は自分はもっと優秀で能力もあったはずだと。
自己評価というものは得てして客観的真実よりも高くなりがちだし、それもまた人間の性だろう。
でも人間には能力の差が厳然と存在する。
スポーツ選手の親にはスポーツマンが多いし、学力の優れた子供の親はやはり学力の優れた人が多い。
スポーツマンは高収入とはかぎらないが、学力の高い人は往々にして高収入の職についているので、東大生の親の年収が高いなんてあたりまえのことで機会の不平等の証明でもなんでもない。
そうではなく、人間はいくらスタートをおなじにしたところで能力や運による格差は必ずでるものだし、そうした結果の不平等をどう考えるかと言う議論こそが必要なのではないのだろうか。機会の平等は重要だが、機会の平等を保障すれば後は自己責任という議論もまた粗雑だと思うのである。






最終更新日  2008年05月19日 06時52分24秒
コメント(6) | コメントを書く
2008年05月14日
カテゴリ:格差社会
ときならぬ「蟹工船」ブームだという。
文庫本が増刷しても追いつかないほど売れているという。
それもカラマーゾフと違って若い人が買っていくという。
ひろがる一方の格差、そして貧困があの多喜二の世界とシンクロするのだろうか。
今の貧困は昔の貧困と違う。
昔の貧困はたいてい子沢山、老人、病気の妻など扶養負担とセットになっていた。
でも今は健康な男が家族も持たない、酒やギャンブルもやらないのに、自分の生計もたてられないでいる。
こんなタイプの貧困はかってはなかったのではないか。
もう一つ昔と今とで違うところがある。
よいとか悪いとかではなく昔は貧困に階級のようなものがあった。
貧困な家庭に生まれた人が貧困層に落ちる可能性が高いというような・・・。
でも今は違う。
中流家庭で大学をでた若者がワーキングプアになっていく。
機会の平等とはいうけれども、どうやらそれは貧困の可能性の平等という意味でもあるらしい。
そんな貧困者に対して自己責任をいう人は多い。
スキルをみがかないせいだとか、努力をしないせいだとかと。
そしてまた格差は乗り越えられる、乗り越えられないのならあんたが悪いと。
貧困者の側も自分を責めて自信や誇りを失っていっているようにも見える。
本当にそうなのだろうか。
貧困といったって明日のわが身。
格差の烈しい社会は多くの人にとって生きにくい社会なのではないか。
自分ばかり責め、自信を失っていた若者が、あの蟹工船のように誇りある労働者として立ち上がってくれれば、そうなったら社会も変わっていくのではないか。
changeというのは米国大統領選挙だけの話ではない。






最終更新日  2008年05月15日 01時09分45秒
コメント(2) | コメントを書く
2008年05月13日
テーマ:ニュース(81120)
カテゴリ:格差社会
非正規化の流れの中で医療保険に入れない人が急増している。
所得格差、生活格差は、やがては医療格差、生命格差という形に変わっていくだろう。
20代や30代のうちはまだよい。
40代を超えると様々な健康障害がでてくる。
そうしたものが重大な事態に至らないのは、健康診断や医療を受ける機会が普及したせいではないか。
血圧が高ければ医師の指導を受け降圧剤を服用する。
血糖値が高い場合も同様の処方を受ける。
しかし、健康診断すらも受ける機会のない人が急増していったらどうなるのだろうか。
高血圧も高血糖も最初は自覚症状などはない。
いまや30代男性の2割が臨時雇用者。
臨時雇用というのは契約期間が1年以下ということなどで、非正規就労一般となればこの比率はさらに高まるであろう。
健康診断の機会もなく、あっても医療を受ける金がないという人が相当数いるわけである。
10年、20年後の近未来の日本。
高齢化も深刻だけれども、それと同時に40代で倒れて半身不随、糖尿病による失明、足切断・・・こうした中途障害者が続出しそうである。

格差、これは貧困者の増大といいかえた方がむしろよいのではと思うのだが、まず社会モラルの低下や犯罪の頻発という形ででてくる。
そしてまた犯罪の近縁でもあるが社会との無理心中ともいうべき周囲巻き込み型自殺の増加。
図書館の本の毀損や授業料、給食費の滞納、通り魔殺人、硫化水素自殺、「人身事故」による電車の乱れ、商品への針や殺虫剤混入、花壇の花の摘み取りなど、今起きているのがその段階である。
次には人材の質低下や健康低下がそれに続くだろう。
職業人として成長する機会もなく、健康へのケアもない人々が中高年となってくるからである。

さらに、社会に対する不満や富裕層への反発をいだく人々が相当数に達すれば、それを受け止める政治勢力がこの国を支配するようになるかもしれない。
なんか楽しみのようなそうでないような…。
ふと共産革命を夢見て、ロンドンで不況のたびに祝杯をあげていたマルクスの気持ちを想像してみたりもする。






最終更新日  2008年05月18日 21時11分46秒
コメント(10) | コメントを書く

全58件 (58件中 21-30件目)

< 1 2 3 4 5 6 >


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.