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格差社会

2008年02月24日
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テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
1933年2月20日は小林多喜二が拷問死した日だという。
あれから75年。
悲惨なプロレタリアの実態を描いた蟹工船の時代から我々はどのくらい進歩したのだろうか。
規制緩和の名の下での格差拡大…。
労働市場の自由化は折口のような小才ある者にのしあがるチャンスを与えた反面、多くの人々をプロレタリア文学が描いたような悲惨な境遇においやっただけではないか。
小説「OUT」の冒頭の弁当工場の実態などは、平成のプロレタリア文学という感があるし、当人がどこでどのように働くかわからないという二重派遣や労災隠しとなると、もうこれは小林多喜二の世界とはまた違った悲惨さがある。

思えばプロレタリア文学が人気を博した時代、海の向こうには労働者の祖国「ソ連」という国があった。
そして蟹工船の労働者が目覚めるきっかけとなったのも、そんなソ連の漁船員を通じてだったかと記憶する。
社会主義の理想は多くの労働者に希望を与えたし、支配者階層には脅威も与えた。
そうした中で、福祉政策、労働政策も徐々にすすめられ、労働者階級の惨状というのは過去の実態となっていったのではないか。
そう考えると、社会主義体制の崩壊と格差拡大というのは無関係ではない。

企業は団塊世代の大量退職にもかかわらず、新卒採用には抑制的だという。
個々の企業の利益を考えれば、手間をかけて育成し、解雇もままならない正社員よりも、派遣などを利用した方が合理的だろう。
しかし、これからの社会を考えたとき、派遣やフリーターのような大量の貧困予備軍をかかえる社会というのはどうなのだろうか。
社会が安定して幸福な人が多いほど、その中に存在する企業もまた栄えていくのだと思うのだが。






最終更新日  2008年02月24日 13時21分28秒
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2008年02月11日
テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
ニュースというものには、だいたい3種類あるのではないか。
本来の意味でのニュース。
もともとあったことだけど今の時点でニュースにしているもの。
ニュースではないもの。

中国からの輸入食品の殺虫剤混入や力士暴行事件などはどうも、もともとあったものを今あらためてニュースにしているだけという気がしてならない。
3年ほど前、食品に虫が混入していた、金属片が混入していたといって何千という製品が廃棄されたことがあったが、あれと同じような構図である。
殺虫剤は一時重態になった子供までいてたしかに問題だが、一方ではこんなに騒いでいるとそのうち食べるものがなくなってしまうのではないかという危機感も感じる。

昨今の食品偽装告発騒ぎをみるまでもなく、会社にいても帰属意識をもてない就業者は増えている。
非正規労働者を使い捨て、正社員には残業を押し付け、成果主義だのリストラだのとむきだしの弱肉強食の競争を押し付ける。
そんな中で反抗を試みる労働者がでてきたっておかしくない。
何がいいたいかというと、中国の工場で起きているようなことは、日本の工場で起きたってなんの不思議がない。

世界には様々な文明、いろいろな文化があるのだが、日本の文化の特徴を一言でいえば、共同体重視の文化ということにつきるのではないか。
よい意味での競争はあったかもしれないが、基本的には勝者も敗者もなく、支配者のとてつもない贅沢や暴政もないし、被支配者の奴隷化もない。
どうも争いを好まず、格差を嫌うDNAのようなものが日本人の中にはあるのかもしれない。
だから昨今の格差拡大や弱肉競争賛美は共同体としての日本のよさを壊してしまうのではないかと危惧する。
そしてそんな格差拡大や競争賛美が大人だけではなく、子供の世界にまで入ってきているようでなんともやな感じだ。
某自治体で行っている公立中学での「できる子限定」の課外授業や給食費を未納している家庭の子供への給食拒否などは、非常に問題だと思う。






最終更新日  2008年02月11日 10時31分20秒
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2008年01月29日
テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
高校生の頃、社会主義についての話をしているとよくこんなことをいう人がいた。
「マルクスなんて時代遅れだよ、だってもうそんな労働者はいないのだから」と。
当時増えつつあったホワイトカラー層はたしかにサヨク本の描くプロレタリアのイメージとは異なっていた。
悲惨な長時間労働は過去の話だし、飲み会やレジャーのような娯楽も一般化して生活水準も向上していた。
中には社内持ち株制度などで、労働者どころか資本家の一員になっている気でいるものもいたくらいだ。

奴隷同様の境遇におかれた悲惨なプロレタリア。そして鉄鎖以外は何一つ失うものも無い労働者。
そんなのは昔のことと思っていたが、どうやらこの21世紀の日本で増殖しているようだ。
名目だけ管理職として長時間労働を強いられていた外食産業の店長のニュースを聞くとそうとしか思えない。
非正規雇用者が増えていることはつとに指摘されているが、その非正規雇用の増大が正規雇用にどのような影響を及ぼしているかはあまり議論されていない。
業務の多くを非正規にまかせた故に正規雇用者に残業等のしわよせがいっている…ということは件の外食業界だけでなく、様々な場にみられるのではないか。
企業の論理からすれば人件費を減らすためには極力非正規でできる部分は非正規にまかせ、正規雇用者については残業も含めてそれを肩代わりする働きをしてもらった方がよいに決まっているのだから。
ホワイトカラーエグゼンプションなどというのもまさにそうした資本の論理からでてきたもので、それを残業が少なくなって一家団欒の時間が増えるなどとは詭弁もいいところである。

必要なことは弱いもののみが痛みを感じる「さらなる規制緩和」などではない。
「格差といっても日本の貧困はアフリカよりもまし」なんていっている連中が国の舵をとっていけば、そのうち本当に日本の貧困はアフリカなみになるだろう。
かっては資本主義の論理に対抗するものとして社会主義の論理や理想があった。
その現実の社会主義が崩壊してから、資本主義もまた変質していったのではないか。
むきだしの弱肉強食や自由競争では多くの人は幸福になれない。
明日の希望のない非正規就業や正規就業といったって残業奴隷のような生活を強いられる社会はもうごめんだ。
いまこそ思う。
社会主義の理想や理念というものは、もう一度見直されてもよいのではないか。
カムバック!レーニン。






最終更新日  2008年01月29日 20時33分39秒
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2008年01月11日
テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
週刊新潮にでていたこの言葉…なんと財界の某偉い人の言葉である。
アフリカでは多くの人が生存ぎりぎりの生活をしており、だからこそ万単位の餓死者がでている。それを持ち出して、「格差」といってもアフリカよりはマシなんていわれてもねえ。
こういう人にかかれば、生活保護を受けられずに餓死する人がでても、それが万単位でないからアフリカよりはマシだなんていうのだろうか。
記事を読むと、この人は「改革のスピードが減速している」と憂え、消費税の値上げなども主張している。
豆腐や納豆、ちくわなどの食料品や灯油が値上がりしている中で、消費税も上がったら、生活できない人が続出するだろう。それでも「アフリカよりもマシだから我慢しろ」となるのだろうか。
こうした感覚の人が国家の中枢にいてそれなりの発言力をもっているのってなにやら怖い気もする。

この人に限らない。
アフリカのような地球上の最貧地域を持ち出してこれと比較し、格差だの貧困だのといっても「日本人は本当の貧困を知らない」みたいな主張は某有名作家も行っている。
この田園調布在住の美人作家は世界のあちこちにでかけ、その流麗な筆で描かれる貧しい国々の描写には胸うたれるものが多い。
たしかに地球上には水、食料といった生活に必要な最低限のものすら確保できていないところも多いし、それどころか戦火が止まず明日の生命すら保証されないような地域もある。
それに比べれば日本のホームレスは安全だし、コンビニから賞味期限切れの弁当をもらうこともできる。
ましてやネットカフェなどは快適そのものではないかということだっていえそうだ。
じゃあ、だからといって日本の貧困をそのままにしていいかといえばそれはまた別の問題である。
先進国の中で比べれば、日本の最低賃金は低い。そしてOECD諸国の中でも、日本は米国と並んで貧困層の比率の高い国に分類されている。
最近とみにいわれるようになったアフリカまで持ち出しての「日本の貧困などはたいしたことはない」式の主張。なんかこれって地球規模での「上見て暮らすな下見て暮らせ」に思えてならない。






最終更新日  2008年01月11日 07時25分28秒
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2008年01月07日
テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
昨日の朝日新聞に対談記事があったが、その中で妙に印象に残った箇所がある。
日本では規範の源泉になっているのは共同体なのだがそれが崩れている。
その中で規範を維持できたら、それが一つの社会モデルになる…といった趣旨のくだりである。

規範の源泉が共同体意識にあるということは「恥の文化」としてつとに指摘されているところであるが、その共同体の消滅によって大小さまざまの犯罪や逸脱行為がでてきていることは、多くの人が感じているのではないか。
農村の衰退によって村という共同体が消滅し、それを基盤とした親族という共同体も消滅した。カイシャという共同体も終身雇用制の崩壊や非正規化の中で崩れてきている。
今の時代、最後に残っている共同体といったら夫婦や親子くらいしかないのではないか。
かくして親が重荷になれば子に、子が重荷になれば親にもろに負担がかかっていく。
2007年は大事件こそなかったが、貧困を背景とした犯罪、特に親族間の犯罪がめだった年だったように思う。
経済力のない子供が親と同居し、介護負担がかかってきた結果としての介護殺人。
定職がなく暴力をふるう息子や病気の娘を思い余った親が殺した殺人事件。
社会の底に澱のように貧困がひろがり、その負担がごく近い親族におおいかぶさっていく。
根無し草のような貧困者が増えれば犯罪はいやおうなく増えていくだろう。
親族間の惨劇だけではない。
刑務所しかセーフティネットがなければ刑罰だって怖くない。
自暴自棄で自殺するつもりなら人をまきこむのもなんともない。

恥の文化の国で共同体が崩れていけば規範なんて維持できるわけはない。
朝日の討論記事にあったような社会モデルの創設なんてできるわけないのである。
そしてそれより、このまま貧困者が増えていったら、もしかしたら犯罪の頻発以上のことが起きるかもしれない。
共産主義のような思想が復活して燎原の火のようにひろがっていくか、それともカルト宗教のようなものがはやっていくのか…。
いったい社会はどういう方向に向かっていくのか、今年あたりが分水嶺なのかもしれない。






最終更新日  2008年01月07日 23時27分11秒
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2007年12月22日
カテゴリ:格差社会
今の日本の政治状況についての最大の問題は経済的弱者の声を代表する政党がないということではないか。
格差拡大、福祉切捨て…という流れの中で、増加しつづける貧困層こそが、今後日本の最大の政治課題ではないかと思う。
それなのに貧困の問題は、「格差の問題」といいかえられ、そしてその「格差」という言葉も最近では都市と地方との税収格差に使われているように、どんどん問題の矮小化やすり替えが行われているように思う。
普通の住宅地でも、ホームレスを見かけることは珍しくなくなったし、結婚どころか自分の口を養うこともできない若者も街にあふれている。
それなのに政府は相変わらず財界よりの政策を続け、野党第一党の政党も弱者の側にたつどころか与党と権力をわけあうことを考える始末…。
そして経済的弱者の声を代表する政党としてもっとがんばってほしいところは、どうもいまいちやる気がない。
だいたいこのHPのつまらなさ、センスのなさはなんなのだろうか。
http://www.jcp.or.jp/
これじゃあネットカフェのお兄ちゃんが自分からすすんで読もうという気にはならないではないか。
荒らされてもよいから掲示板くらいつくればよいのに。
今の世の中、貧困は決して特定の人たちだけの問題ではない。
多くの人々がすぐ隣にある問題として考えているのではないのだろうか。
このままいくと日本は本当に少数の富者と大多数の貧困者の途上国型社会になってしまうが、そうなってはならないと思う。

最近このような貧困問題にかかわる議論で気になるところがある。
困窮者が問題になれば、それに対する対策としては、こうした人の経済状態を改善する方策を探るのが常道であろう。
ところが昨今では、それとは全く逆の困窮者の側に合わせれば問題が解決するかのようなおかしな議論が幅をきかせている。
皆が貧しくなれば貧しさも気にならないとでもいうのだろうか。
生活保護基準を「それ以下の層」にあわせるなんていう議論もそうだが、非正規雇用の問題を正規雇用が「恵まれすぎて既得権化している」なんていう議論もそうだろう。
そして結論は非正規雇用の処遇改善よりも、正規雇用者の「痛み」だとか「労働市場のさらなる規制緩和」だとかにながれていく。
まさに労働市場の規制緩和こそが今の深刻な貧困を生み出したことを忘れているのだろうか。
こうした議論は貧困問題を解決するどころか、正規雇用者の下層部分を非正規雇用者に近づけ、貧困者を増やすだけの愚策としか思えない。






最終更新日  2007年12月22日 09時17分00秒
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2007年12月14日
テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
格差についてこんなことを言っている人がいるという。
真の格差とは「能力も努力も同じなのにそれでも差のつく場合をいう」のだと。
能力や努力によって差のつくのは当然で、そういう差ならいくらあってよい…この人の意見はそう聞こえる。
本当にそうなのだろうか。
今起きている格差というのは、決して身分とか親の経済力によるものではない。
まさに能力によって格差が広がっているのではないか。

能力による格差というと顔をしかめる人も多いかと思うが、そういう人は能力イコール人間の価値と思っているのだろうか。
でも能力なんてものは絶対的なものではなく、しょせん時代によってその内容も異なってくるのではないか。
大鏡には古今和歌集の和歌すべてを暗記した女御が大変な才女として描かれているが、今、そういう人がいても誰も才女とはよばないだろう。
江戸時代だったら習字と算盤ができるのが寺子屋秀才の条件だったし、農村社会での最も重要な能力は健康とか協調性とかといったものだったろう。
そして現代ではその能力自体が二極化している。
一方には高級技術者や起業家などの余人をもって変えがたい資質を要する職業があり、他の一方には誰にでもできる代替可能な仕事がある。
そしてこの能力、仕事の格差がそのまま経済力や収入の格差になっている。

能力の高い人を優遇するのは当然だろうし、それは否定しない。
しかし一方で能力の低い人を最低水準以下の生活に放置してよいかとなると別の問題である。
社会は能力の高い人だけでなりたっているわけではない。
格差という言葉がさかんに言われるが、その正体というのは貧困問題ではないか。
今でも年収200万円以下の層やワーキングプアとよばれる人々が相当数いる。
こうした貧困層は今後も増えていくことだろう。
なぜなら今でも30代、40代の非正規雇用やニートの者で親に扶養されていたり、親の家に住んでいる人が相当数いるのだが、やがては親の死や自身の健康悪化をきっかけにこうした層も貧困層に参入してくるはずだからである。

このままでは、やぶれかぶれの貧困層の反乱だって将来は起きるのではないか。
持たざるものによる貧者の革命は資本主義の究極に発達した社会で起きると、かのマルクスもそう言っている。






最終更新日  2007年12月15日 00時24分21秒
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2007年12月11日
テーマ:ニュース(81307)
カテゴリ:格差社会
昭和30年代、40年代のサラリーマンものの映画をみていると妙な懐かしさを感じる。
別にその時代にサラリーマンをやっていた経験はないのだが、全体の雰囲気が会社というよりも家族やムラのような感じなのである。
サラリーマンは気楽な稼業というのが流行語になり、スチャラカ社員もダメオヤジも会社の中でとりあえずは明日の心配なく妻子を養っていた。
たぶんこうした共同体的雰囲気は会社だけではなく、商店街や地域社会にもあったのではないか。
よくある会社の社訓に「人生の幸福は会社の繁栄とともに」というのがあったというが、同様に「我が家の繁栄は商店街の発展とともに」という感覚だってあったに違いない。
映画「3丁目の夕日」に代表されるような昭和30年代が人気を得ているのもそうした共同体に対する郷愁がきっとあるのだろう。
おとといの産経の1面にこうした共同体の崩壊についてのコラムがあり興味深く読んだ。
終身雇用制の崩壊はゆっくりと進んできたのだが、決定的になったのは90年代に非正規雇用化の流れが強まってからだという。
そして成果主義や競争原理の導入でそうした流れはいっそう強まってきている。
たぶん日本にはアメリカのようなむき出しの競争社会は似合わない。
競争社会になったとしてもアメリカのように世界中から人材があつまる移民国家とはわけが違う。
明治以降の急速な近代化はムラやイエという共同体あってのものだっただろうし、戦後の急激な復興もカイシャという共同体が原動力になった。
共同体を壊していけば、日本はただ衰退するのみではないのだろうか。







最終更新日  2007年12月11日 21時13分11秒
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2007年11月30日
カテゴリ:格差社会
生活保護基準を切り下げるという方針をいよいよ政府は明言しだした。
その基準以下で働いている人が沢山いるというのがその理由だが、なんとも納得しがたい。
日本の最低賃金は諸外国に比べても低いのは周知のことで、なぜそんな低い最低賃金で問題にならなかったかといえば親族間の相互扶助が働いていたからだ。
つまり最低賃金で働く人の多くは夫に扶養されている主婦であったり、親に扶養されている子であったり、逆に子に扶養されている老親であったりしたからだ。
だからこそ、親族間扶助がほころびかけている昨今、低すぎる最低賃金が問題となっている。
だったら議論すべきは最低賃金の引き上げで、それにあわせて生活保護基準を引き下げるというのは本末転倒の議論ではないか。
生活保護基準は保護基準として「健康で文化的な最低限度の生活」という視点から見直すべきであろう。

生活保護基準が切り下げられれば最低賃金も低く抑えられる。
保護基準切下げは今の生活保護受給者だけではなく、実は多くの国民に関連した問題である。
保護基準ばかりではない。
不安定な身分の非正規雇用が問題になれば、逆に正規雇用者の身分を保護しすぎてけしからんと金で解雇できる仕組みの導入が議論される。
民間でリストラの風が吹いているのに身分の安定した公務員はけしからん、特に郵便局の内勤職員はけしからんといって郵政民営化を多くの国民が支持する。
そしてもう一つの身近な公務員である小中学校の教員についても給料が高すぎるだの、M教師がいすわっているだのという議論がまっさかりだ。
小中学校の教員は尊敬すべき職業だがいわゆるエリートというほどでもない。
庶民同士がたがいに足をひっぱりあい、そしてそんなことがどこからか巧みに誘導されているうちにどんどんと住みにくい世の中になっていく。

石油値上げや温暖化問題のあおりでバイオ燃料に熱い視線があつまっている。
米国では大豆に替えてトウモロコシ栽培がさかんになっているという。
風が吹けば桶屋が儲かるじゃないけど、大豆製品が値上げしている。
豆腐とか納豆とか安価な庶民の食材が上がっているわけである。
そんな中で生活保護基準引き下げなどするのは、瀕死の鳥の羽をむしるような所業ではないのだろうか。






最終更新日  2007年11月30日 20時59分21秒
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2007年11月24日
カテゴリ:格差社会
あの労働者派遣法の改正が行われたとき、それは決して大ニュース扱いにはならなかった。
たぶんその年の10大ニュースにだって入っていないだろう。
しかしその影響は強烈だった。
企業は待ってましたとばかり正社員採用を控え、派遣社員やアルバイトがとってかわるようになった。
そしてそれとともにワーキングプアやネットカフェ難民なども出現していく。
今までは学生や主婦、高齢者が主に担っていた非正規就労を、自分で生計をたてなければならない人達が担うようになってきたのだ。
「多様な働き方」といえば聞こえは良いが、実態は「企業に都合の良い働かせ方」であろう。
普通、人は学校で学んだ後も、社会人として成長をつづける。
その成長の場が企業であり、組織である。
だから雇用の非正規化は多くの人から成長の機会を奪い、国民全体のレベル低下をもたらすこととなる。
犯罪の頻発、社会モラルの低下、労災や事故の増加…皆、根は同じである。
そして労働契約法の成立。
これもやはり結局は正規雇用の地位を非正規雇用に近づけるだけで、今、日本で進行中の問題をさらに加速させるのではないか。
そんな危惧をいだいている。






最終更新日  2007年11月24日 15時10分54秒
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