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格差社会

2007年11月22日
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テーマ:ニュース(80988)
カテゴリ:格差社会
厚生労働省では学識者を集めて生活保護基準についての見直しを行っていたが、やはり保護基準の引き下げという報告書がだされたらしい。
始めに結論ありき…という感がしないでもないが、マスコミの扱いはいやに小さい。
まあ、そうなるような報道発表の仕方だったのかもしれないけど。

この生活保護基準引き下げの理由というのはこうだ。
働いても生活保護基準以下の給料したもらえない人々も大勢いるからそうした人達の勤労意欲をそがないため。

たしかに今の日本そうした保護基準以下の賃金の人たちも大勢いる。
でも、それは日本の最低賃金が他国に比べても低くなっているせいではないか。もともと主婦や学生などは夫や親に扶養されているという前提の下で定められていたが、今やそれだけで暮らす人が増えたため大問題になっている。なにしろ賃金が低くて親に扶養されている中年男性だっているくらいなのだから。
ならば議論すべきは、生活保護基準ではなく、最低賃金ではないか。
生活保護基準は生活保護基準として、これが「健康で文化的な最低限度の生活」といえるものかどうか、過不足がないかどうかを独立して議論すべきであろう。

だいたいこの議論に加わった「学識者」は1ヶ月でも生活保護基準で実際に生活してみる体験をしたのだろうか。そうでなくとも実際の福祉の現場や受給者の生活についてどのていど知っていたのだろうか。「学識者」といっても大学の先生ばかりで、生活保護受給者と接しているような人は一人も入っていない。
最近、石油価格の上昇を受けて物価が値上がりしている。それもちくわとか納豆とかといった我が家でよく買うようなものに限って値上がりしている。こうした中で最低賃金との比較だけで保護基準が削られていく。

ある大学で行われた憲法についての討論会では第9条よりも第25条の方にはるかに関心が集まったという。
そりゃそうだろう。
平和憲法といったって国際関係は相手があることだから、いくら戦争を放棄したって先方がミサイルをぶちこんでこないなんていう保障はどこにもない。
これに対して25条は多くの人にとって実は身近な問題である。
今、勤めていたって、明日にでも人事から電話がかかってきて退職を強要されないとも限らない。拒否すればパワハラ、モラハラ、集団無視などの職場いじめがありそうである。うつ病にだってなるかもしれない。そして仕事をやめたらあっという間に生活に困るだろう。
サラリーマンの中でイチローや松坂のように個人の能力で勝負できる人材などごく一握りである。
規制緩和の正体は実はこうした労働ビッグバンで、雇用の多様化といえばきこえはよいが、実態はその日暮らし社員と残業奴隷との二極化で、ほとんどの人は幸福にはなっていない。
景気はよいといったって潤っているのは少数の勝ち組だけで、普通の人には恩恵はきていない。
いやそれどころか、雇用不安定下の中で、かえって貧困を身近に感じている人も多いのではないか。
憲法9条よりも25条の方にこそ目をむける時期ではないか。
参考10月21日の日記http://plaza.rakuten.co.jp/aisya96/diary/200710210000/






最終更新日  2007年11月22日 20時13分44秒
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2007年11月18日
カテゴリ:格差社会
女性週刊誌をみていたら、大勢の女性の顔写真が掲載してある広告頁があった。
女性週刊誌のはずなのになぜ風俗の広告が…と怪訝に思ったが、よくみると女性の中には明らかに年配の人やそれっぽくない人もいる。で、よくよくみたらなんとみな占い師の広告であった。
霊感占い、水晶占い、タロット占い等々占いの種類の多さにも驚くが、こうしたものを信じ、大枚をはたく女性もまた多いのだろう。
昨今の格差社会を妙齢の女性の側から考えると、占いにはしりたくなる気持ちもなんかわかる。
「愛さえあれば」なんていう台詞は一億総中流の時代だからこそ言えるのであって、どんな男と結婚するかで女性の人生は天国と地獄ほどの違いがある。そしてそのどんな男と結婚するかなんてことは運しだいというか神のみぞ知る。人間界だったら占い師にも頼りたくもなる。
今日の朝日新聞の朝刊に救急車の搬送拒否の背景に検診を受けない妊婦が増えていることを指摘した記事があった。定期的な妊婦検診なども金がなくて受けられないという妊婦も多いだろう。たとえ金銭的な助成があったとしても仕事が不安定ではそうそう休んでもいられない。
全盲患者公園置き去りの背景にも医療費を払えない患者の存在があるようだし、格差社会がいよいよ生命の格差の領域にまで及んできているようだ。
金のある男性と結婚したら豊かな経済生活が享受できるが、貧乏男性と結婚したら安全な妊娠出産の保障もないというのでは、女性も必死になるわけである。

もっともこんな格差社会になる前だって、結婚が女性の人生の重大事であることには変わりはなかった。そういえば昔から占い大好きは男性よりも女性と相場が決まっていたように思う。
ただそんな傾向が格差拡大の中でますます激しくなってきたのかもしれない。






最終更新日  2007年11月18日 12時40分33秒
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2007年11月17日
カテゴリ:格差社会
こんな笑い話がある。
ある村で祭りに使うクリームが不足した。そこで知恵者の村長は「水をクリームと呼び、クリームを水と呼ぶ」というおふれをだした。そしたらその村では「クリーム不足」はたちどころに解決した…という話である。
こんな笑い話がしめすように言葉による解決は本当の解決ではない。
いやそれどころかかえって本当の解決から遠ざけてしまう効果すらある。

敗戦を終戦といいかえ、占領軍を進駐軍といいかえ、そして連合国を国連といいかえた時、現実の国際政治がいまだに第二次大戦の勝者敗者の枠組みを残している現実から目をそむけていないだろうか。
クソガキの大人顔負けの犯罪を「いじめ」と呼ぶことは、かえって必要な対策の手を縛っているのではないか。こんなのを「いじめ」とよんでいる限り、進学実績以外の理由で私立中学に行く子供は増加しつづけるだろうし、教職志望を躊躇する若者も増え続ける。
投身自殺を「人身事故」と呼ぶことで、本当はあったはならないことが日常のありふれた風景になり、人々の心もそれに慣れていく。

同じようなことが「格差」という言葉についてもいえる。
最近、そうも「格差」という言葉が、都市と農村との税収格差の問題に使われることが多くなっているようだ「格差」がこうした問題にすりかえられていけば、やがて最も本質的な貧困層の激増という問題はかすんでしまうのではないか。
人口が減少していけば、日本列島のすべての街の商店街が繁盛するなんてありえないことではないか。廃村も増えていくだろうし、税収減でなりたたなく自治体がでてくるのも理の当然である。やがては国-都道府県-市町村という3層構造を全国すべてに適用することだって見直さざるを得ないだろう。
そんな都市と農村の税収格差と個人間の格差を同じ「格差問題」という言葉でくくるのはおかしい。いや個人間の問題を「格差」という言葉でくくるのも、もしかしたら言葉による問題のすりかえかもしれない。
問題とすべきは、個人間の「格差」ではなく、下の方の問題、つまり「貧困層の激増」なのである。
かっては貧困というのは、障害者や崩壊家庭など、社会の一部分に特化していた感があった。
ところが今では普通の人間が定職につけない、あるいは定職を失うことによって即座に貧困層に転落する。そんな貧困の一般化が起きているようで、これこそ大問題だと思う。
かって会社は社員のための共同体であり、多くの人は会社の中で社会人として成長し、会社によって安定した生活を営んでいた。それが今では会社は投資家のためにあるのだそうだ。金のある富裕層はますます富み栄えるかもしれないが、本当にこれでよいのだろうか。
社員を大事にしない会社はいつかは衰退するし、普通の人が幸福になれない国はほろびるのではないか。






最終更新日  2007年11月17日 08時23分59秒
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2007年11月14日
テーマ:ニュース(80988)
カテゴリ:格差社会
最近、共感することの多い日経夕刊のコラム(柴田翔「あすへの話題」)でまたまたよいことを書いていた。
新幹線の車内清掃で中年女性従業員があっという間に車内を綺麗にしてゆく手際に感嘆しながら、社会というのは実はこうした多くの「普通の人の仕事」に支えられているのではないかとコラム子は言う。車内清掃一つとってもこうした仕事がきちんとなされるから、先端企業の社員も気持ちよく出張ができる。
そう考えると、実は格差社会の弊害の一つは「普通の人の普通の仕事」をだめにしていくことではないのだろうか。多くの仕事は、長時間の熟練を必要とするし、大なり小なりその職業に対する誇りがあってこそモラルが維持される。

もちろん高度の専門職と普通の人とが同じ給料待遇であるべきだなどというつもりはない。
しかし普通の人の普通の仕事を軽んじて、そういう人々を非正規職やワーキングプアにすれば社会は、やがてなりたたなくなっていく。
最近、郵便物の配達が面倒だといって郵便物を捨てた職員が解雇されたというニュースがあった。郵便配達を郵メイトという非正規職にまかせている限り、こうした事件というのは今後も起こるだろう。
事故や労災の頻発や職業モラルの崩壊…こうしたものを防ぐためにも、格差社会の是正は必要である。少なくとも非正規化という流れだけはとめなければならない。
※※
どうも世の中はますます非正規化、格差拡大に向かいそうである。
労働契約法にしてもこんな法律が成立したら労使合意の上で金銭で解雇できる仕組みが取り入れられることになろう。いくら合意といったって、使用者の立場に比べて被用者の立場はずっと弱いのだから。
そうなれば非正規雇用者の地位向上どころか、正規社員の実質フリーター化が始まる。
昨今の教育改革の議論にしても同様である。
教員の任期制とかフリーエージェント制とか、教師の身分の不安定によっていったい何をやりたいのだろうか。
教師の待遇低下やフリーター化は教育の質低下をもたらし、公教育を破壊してしまうことは明らかではないか。
いっそ教育再生会議は「教育破壊会議」と名を変えた方がよい。






最終更新日  2007年11月14日 23時09分37秒
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2007年11月08日
テーマ:ニュース(80988)
カテゴリ:格差社会
「労働契約法」という法律が衆議院の委員会を通過したという。
たぶんこの法律が成立したら日本社会は変わる。
さらなる競争社会、そしてさらなる格差社会に。
通常の民事関係と違って労働者と使用者はもとより対等の関係ではない。
その対等でない中で労働者の生活権を守るためにあるのが労働法制である。
そんな労働法制の中には明文にはないのだが、判例の積み重ねで認められてきたものもある。
解雇権濫用の法理…労働者を自由に解雇できないなんていうのもその一つだ。
こうした権利を得るためにどれだけ多くの悲劇や涙があったことだろうか。
それなのにそうしたものが失われていこうとしている。
「労働契約法」では雇用契約を明確にしておきさえすれば金銭で解雇することも自由になる。
たしかに解雇を争って訴訟にまでなったケースで元の職場に戻ったという例は少ないのだが、しかし解雇権濫用の法理があって、法廷にまで持ち込まれる(企業のイメージダウンになる)可能性があるということが、企業にしてみれば解雇に対するブレーキになっていたことは疑いもない。
なんのことはない。
「労働契約法」というのは勤労者のほとんどを明日をもしれないフリーターなどの非正規雇用者と同様の立場にしてしまう法律ではないか。
そういえば派遣法改正のときもマスコミはあまり問題視しなかった。
通訳やプログラマー以外の非専門職にまで派遣を拡げたら、今のような凄まじい格差がでてくるのは予想できたはずなのに。
「労働契約法」で正規雇用と非正規雇用の差は少なくなるだろう。
非正規雇用が正規雇用に近づくのではなく、正規雇用の非正規化という形で。
いよいよ日本も少数のエリートと多数の貧困層の途上国型の社会になっていくのだろうか。
いや、もしかしたら途上国よりももっと悪いのかもしれない。
だって日本には途上国の多くが持っているような共同体とか宗教とかそういったものがないのだから。

経済産業省は企業を守る。
農林水産業は農民を守る(だろう)。
でも厚生労働省は弱者も労働者も守らないし、そのつもりもない。






最終更新日  2007年11月08日 22時52分59秒
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2007年11月06日
カテゴリ:格差社会
昨日の日経新聞夕刊の一面に面白いコラムが載っていた。
社会主義体制の崩壊による冷戦の終結は本当に慶賀すべきことだったかというような趣旨のもので、社会主義がうまくいかなかったのは、結局、人間がそれほど立派なものではなかったというだけのことではないかということが書いてあった。
たしかにあの計画経済がうまくいくためにはとてつもない叡智が必要だし、結果の平等を建前とする社会でモラールを維持するためには、「一人は万人のために、万人は一人のために」という善良な人間性を前提にしなければならない。
社会主義は人間は神のような存在であることを前提とするが、資本主義は人間を欲望の塊と前提するといわれるゆえんである。だから社会主義が崩壊して資本主義が残ったとしても、それは「自由」とか「民主」とかいう高尚な理念が勝利したというわけではない。

思えば社会主義が生まれたのは、資本主義下の自由競争の結果、多くの敗者と悲惨が生まれたからではなかったか。揺籃期の資本主義の悲惨が思想ではマルクス、文学ではディケンズを産んだわけである。そして冷戦崩壊後の資本主義は、再び、そんなむき出しの弱肉強食の自由競争の方向に向かっているように思う。格差の議論になると、いつも格差拡大は世界規模の潮流でやむをえないという人がいるが、たしかにこうした競争の激化は世界規模で起きているのだろう。

弱肉強食の自由競争の行き着くはては多数の貧困者の絶対的窮乏と共同体の崩壊である。しかもこの新しい格差は、根源的には「能力の格差」を理由としているだけに、敗者にとってはより救いがない。19世紀、つまり初期資本主義にみられるような生産手段の所有と相続を理由とする格差、つまり資本家・地主階級と労働者・貧農階級との格差と今日の格差とはわけが違うのである。「機会の平等」や再チャレンジだけでは、決して今日の格差の処方箋にはならない。
この貧困者の窮乏と共同体の崩壊という現象はもうすでに起き始めている。
生活保護世帯の激増は多くの自治体で問題となっているし、北九州市の餓死事件は先進国の珍事としてニューヨークタイムズでも報道された。駅員への暴力など大小様々の犯罪は増えているし、モンスターペアレントの問題などもこの一環ではないか。

思えば日本というのは農村共同体の歴史が非常に長く続いてきた国である。
共同体の中では凄まじい格差はなかったし、農業というのも個人の能力の差がそんなにむき出しにはならない。自由競争の結果としての格差拡大…ということ自体、日本社会にとっては、もしかしたら初めての経験なのかもしれない。






最終更新日  2007年11月07日 04時42分03秒
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2007年11月01日
テーマ:ニュース(80988)
カテゴリ:格差社会
企業は収益を上げ、景気はよいというが、そんな実感がさっぱりないのはなぜなのだろうか。
それはその収益が給与という形で多くの人に分配されないためである。昔の○○景気では、会社が儲かると、給料が上がり、皆が金を使い、さらにそれが会社の収益をあげていくという循環があった。ところが今の「好景気」では、逆に民間の給料は下がっている。
企業は社員の非正規化や正社員の長時間残業などで人件費をぎりぎりまで削り、その結果としてあげた収益という果実を配当という形で投資家に分配したり、高額の役員報酬に向けたりする。かってと違い、今の好景気なるものは格差社会拡大を推進するばかりである。

一億総中流なんていわれていたよい時代はもう来ないのだろうか。
あの頃、会社はムラ社会で、そこではスーダラ社員もダメオヤジも明日の心配をしないで生きていけた。そして皆がウチの会社が儲かれば生活がよくなると素朴に信じて働いた。でも、今の世の中、「ウチの会社」がいくら儲かっていても、明日にはリストラされるかもしれない。いや、「ウチの会社」を持たず、部品や機会のようにあっちの会社、こっちの会社とわたりあるく人も珍しくない。

もちろん人間には能力の差があるし、努力の多寡や運のよしあしもある。その意味で、平等な社会というのは幻想だろうが、それでも社会の軸足としては競争に重きを置く社会と結果の平等に重きを置く社会とがある。小さな政府と大きな政府である。
アメリカなどは典型的な前者であるし、北欧などは後者に近い。
世界中から人材を集めて発展するような移民国家では前者をとらざるをえないのだが、共同体としての国家機能を重視する場合にはむしろ後者に近くなる。北欧に安定した立憲君主制の国家が多いのは偶然ではない。
この二つのタイプを考えた場合、日本の向かう方向として、はたしてどちらがよいのだろうか。






最終更新日  2007年11月01日 06時28分06秒
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2007年10月29日
テーマ:ニュース(80988)
カテゴリ:格差社会
学力テストなどについての報道では必ずでてくる議論がある。それは親の経済力と子供の成績との関連を述べ、親に経済力がないと子供は十分に学力を伸ばすことができないと問題視する議論である。こんな議論をきくといつも違和感を感じてならない。

だってもしこれが学力ではなくスポーツなどだったらどうであろうか。スポーツ選手の親にはママさんバレーや職場野球の愛好者が多いという調査結果があったとしても、親がママさんバレーを熱心にやれば子供はスポーツ選手になるかもしれないなんていうことをいう人はたぶんほとんどいない。スポーツ向きのDNAが親から子に受け継がれて、それが親子それぞれでスポーツが好きで得意という形であらわれているだけとみるのが普通であろう。
親の経済力と子供の学力との関係だって、これと似たようなものであろう。封建社会や身分社会ならともかく、今の世の中では、子供の頃学力の高かった人はそうでない人に比べて収入の多い職業についているケースが多いだろう。そうだとしたらがそうした親の子供はやはり勉強に向いたDNAを受け継いで学力優秀なケースが多い、というそれだけのことである。

なんでこんなことを書くかといえば教育の問題にしても、そして格差の問題にしても「能力」にふれることをタブー視した議論というのは偽善という感じがしてならないからである。
格差についての議論で一頃政治家はよく「努力した人がそれだけの成果を得るのは当然だ」ということをいっていた。世の中の勝ち組といわれる人はそれこそ努力をしてきたのだろうけど、じゃあ、この間、九州で生活保護を断られて餓死した50代男性は努力が足りなかったのだろうか。不安定雇用で生活苦の人達には再チャレンジの機会を与えればよいのだろうか。酷なようだが、チャレンジの機会がいくらあっても、勝ち続ける人は勝ち続けるし、そうでない人はそうでない。

世の中には様々な能力の人がいるということを前提にした上で「格差」の問題だって考えていかなくてはならないのではないか。能力があり、成果をあげた人を優遇するのは当然としても、そうでもない(多くの人がこっちに属するだろうが)人々を貧困ラインに放置することが社会のあり方として、はたしてよいのだろうか。再チャレンジの機会を社会で用意することは重要だし、その意義は否定しない。しかし格差の問題の解決はそれにとどまらないこともまた銘記すべきである。
※※
能力云々と書いたが、こうした能力差は社会全体を考える上では必要だと思うが、個人レベルではそれに拘泥する必要はない。なぜなら自分は能力がないといってみたところで人生にとってよいことなど一つもないし、神ならぬ身で他人様の能力がないなどと決め付けることも不遜というものであろう。また、能力は親から子供に受け継がれる例が多いといっても、それはあくまでも確率の問題で、同じ兄弟でも能力に天地ほどの開きがある例だって少なくない。そして同じ程度の学力なら、親が優秀というよりも、親からみれば自慢の息子(娘)という方が親子ともども当人の幸福度は高い。世の中考えようである。






最終更新日  2007年10月30日 05時25分58秒
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