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七詩さんのHP

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全182件 (182件中 1-10件目)

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読んだ本

2022年07月05日
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カテゴリ:読んだ本
オウム事件直後おびただしい量の事件関連書籍があふれた。
日本史上においても稀有な大事件であり、おまけに犯罪に至った実行犯の心理はまるで理解不能だった。
そしてほどなくマスコミの寵児となった数人のオウムウォッチャーと言われる評論家、弁護士がマインドコントロールなるものをさかんに唱え始めた。カルト宗教はマインドコントロールという技法を使い、信者をコントロールする。実行犯は麻原にマインドコントロールされた被害者だというのが、その概ねの論旨だった。ただ、そうしたオウムウォッチャー達の言説を聞いてみると、高学歴の実行犯や幹部に対するものと、そうでない幹部に対するものとでは温度差があり、「マインドコントロール」論は主に前者について言われているようであった。それにマインドコントロールの内容も、もしそんな技法があるのなら大発見なのであるが、カルトとはそういうものだというようなトートロジーのような説明が多かった。
「マインドコントロール」されたということに説得力はないのであれば、いったい実行犯は何を考えていたのだろうか。このあたり林郁夫の「オウムと私」や、広瀬健一の「悔悟」を読んだのだが、それでもよくわからなかった。
「さよなら、サイレント・ネイビー」はオウム関連出版ブームが終わった後の2006年に出た本であり、著者は実行犯の一人豊田亨の大学大学院時代を通じての友人である。結論としては「マインドコントロール」であるが、薬物の作用や不快な刺激と脳活性化の実験等にふれた上で、オウムの出家信者のような環境ではいかに本来の倫理観に反した行動が行われうるかを検証しており説得力がある。おそらくこれが、いくら考えても謎すぎるオウム実行犯の心理に一番肉薄しているのではないか。
ただそのうえで思う。もしこうしたことであれば、その「マインドコントロール」に一番責任を負うべきはずの人物、薬物使用を始めた人物や教義の作成に関与した人物は、仕方のないこととはいえ、刑事責任に問われなかったり微罪で済んだりしている。マインドコントロールにより実行犯は犯行に及んだ…ということになると、先の大戦同様にごく限られた人にしか責任を問えなくなる。オウム事件で言えば教祖以外は皆被害者というあの理屈である。いや教祖だって、もしかしたらあの集団で一番深くマインドコントロールされていたということになるのかもしれない。
作者はこのような事件が再度起きることを防ぐためにも実行犯の死刑は行うべきではないと主張する。実際に死刑が執行された今となっては言ってもしかたないのだが、実行犯に経験を語らせることが再発予防になるのだろうか。事件が「マインドコントロール」によるものであったと仮定しても、実行犯自身はそうは思っていないし、少なくともそうは思いたくない。広瀬健一の「悔悟」では明確にマインドコントロールは否定している。実行犯は重刑に処せられたが、それ以外の者は微罪以下ですんだ者も多く、中には評論家のように本を出したりマスコミに出ていた者もいた。これで実行犯も罪一等減となったら、それこそ禍根を残したのではないか。
「さよなら、サイレント・ネイビー」は著者が女子大生の相棒(おそらくはイマジナリーフレンドで創作)に発見を語り掛けるという構成を随所にとっている。とにかく文章もうまく、著者が非常に頭脳明晰な方というのはよくわかるのであるが、読者としてはそれがちょっと鼻につく。それに刑務所の看守が、東大助教授の名刺を渡した著者に対し「私たちは学があるわけじゃないし…」と話しかける場面があるが、いまどき、これはないだろう。「女子大生の相棒」のザ・一般人という発言もそうだが、大衆をバカにしすぎじゃあないのだろうか。






最終更新日  2022年07月05日 01時41分27秒
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2022年07月01日
カテゴリ:読んだ本
デイヴィッド・コパフィールドを読み終えた。幼少期に幼くして父を亡くし、母の再婚でやってきた継父とその姉には虐待を受け、母の死後は家から出されて工場で働き…という不運な境遇にあった主人公が、様々な人々の助けや出会いを経て社会的成功と幸福な家庭を手に入れるという成長物語である。最初は誇張されデフォルメされた奇妙奇態な登場人物がなかなか受け入れにくかったが、これもエンタメと割り切ってみれば、非常に上質な娯楽小説であるといえる。ストーリーテラーとしての作者の才に、登場人物の一人の台詞のように「上手いもんだ」と感心するばかり。文筆家としての文筆家としてのその裏の苦労や努力はほとんど描かれず、物語のかなりの部分は主人公よりも主人公の身近な友人知人の人生浮沈の挿話になっている。強烈な人物の多い中では、主人公デイヴィッドは、恋にはのぼせやすいという面はあっても、きわめてまともだし、むしろ狂言回しのようでもある。
舞台は19世紀の英国。登場人物も市民以上の階級と労働者階級に色分けされ、主人公の行動もそうした階級意識が色濃く反映されている。初恋の少女は女中の親族なのだが、幼い恋は「身分違い」でそれ以上は深まらず、工場で出会う労働者の子供とも友人という関係にはならない。主人公と忠義な女中やその親族など労働者階級の人間との交友はあるのだが、それは忠実で気持ちのよい人たちとしての友情や信頼であり、同種類の人間のそれとは距離があるようにみえる。「奥様」になるのを夢見ていた初恋の少女は船大工の好青年との結婚を前に主人公の友人と駆け落ちをするし、小説に出てくる悪役はいずれも下層から手段を択ばず上層に上ろうとした人間であるというのも面白い。
そしてまたこの時代の英国は、植民地帝国でもあった。今もそうなのかもしれないが、人々には「移民」という人生の選択もあった。駆け落ち後に男と別れた傷心の娘やその親族、あるいは事業に失敗して人生の捲土重来を期す一家などは、物語の終盤で豪州に向かう。英国は階級社会であったが、一方で移民の道も開かれており、こうした風通しのよさがかなり救いになっていたのかもしれない。小説と関係ないがマルクスは英国労働者の悲惨な実態を見て、英国で必ず社会主義革命が起きることを信じ、不況のたびに友人エンゲルスと祝杯をあげたという。実際にはそんなことにならなかったのは、新天地を求めて植民地に渡っていった労働者階級の者がかなりいたのだろう。
文庫本にしても全四巻からなるかなり長い小説なのだが、終盤では様々な登場人物にまつわる伏線も回収され、さらに最終章では登場人物達の後日談も語られる。途中で読むのを止めたら、この小説の本当の面白さはわからないように思う。
最後にお気に入りの登場人物をあげるとしたら、だんぜん主人公の伯母と誠実な友人である。伯母は主人公を保護し導く大変な女傑なのだが、それでも若い頃は変な男にひっかかり結婚に失敗している。世の中、そんなこともあるのかもしれない。






最終更新日  2022年07月01日 18時00分06秒
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2022年06月30日
カテゴリ:読んだ本

「デイヴィッド・コパフィールド」を読んでいる。もうすぐ読み終わるので全体の感想はそのときに書くこととするが、読み進むにつれてとにかく面白い。特に最初の頃にでてきた伏線が回収されていく後半部が面白いので、ありそうもない奇人変人ばかりの出てくる最初の部分で投げ出すのはもったいない。
この小説については、長い間、孤児の主人公の名が題名になっていることから「オリバー・ツイスト」と同じようなものかと思っていたのだが(なんたる無知)、幼少期に両親を亡くした主人公が作家となり家庭を築くまでを描いた.小説で趣が違う。自伝的小説ともいわれるが、登場人物はかなりデフォルメされ、主人公の生涯も実際の作者のそれよりもずっと波乱万丈に描かれている。
ところで、最近、「デイヴィッド・コパフィールド」は「どん底作家の人生に幸あれ」という題で映画化されている。映画はみていないのだが、紹介サイトをみると、これは波乱万丈な主人公の人生をさらに波乱万丈にしているだけでなく、主人公の俳優はインド系、ヒロインは黒人、その父はアジア系の俳優が演じており、こうなると、もう原作を離れた別の作品と見た方がよい。映画では、白人の登場人物をアフリカ系やアジア系にする場合があり、おそらく人種平等や多様性への理解ということなのかもしれないが、ちょっと違うように思う。
今まで読みすすんで印象的なのは作中の三人のヒロインに対する主人公のかかわり方だ。初恋の少女エミリーは忠実な女中の親族であり、「身分違い」を認識している主人公はそれ以上に深い仲にはならない。翻訳では中産階級以上と労働者階級の言葉遣いは区別されており、当時の階級社会の強固さがうかがわれる。主人公の妻となるドーラは可愛らしく幼女のような女性で、デフォルメされた描写ではほとんど知的障害のようなのだが、主人公は出会ってたちまち「虜になる」。母親も実務能力のない頼りない女性で、そうした母親の面影をドーラの中にみたのかもしれない。ドーラは病気で若くして亡くなる(ご都合主義的展開)のだが、男女の仲についての洞察では主人公よりも鋭いところもある。ドーラは自分に知性が足りないことを自覚しており、いずれは夫に愛されなくなっていくことを不安に思っているし、おそらくその不安はあたっていた。実際に主人公の心のどこかにも結婚を悔いる気持ちがめばえはじめていた。若い日の恋と結婚は違う。生活が進む中で食い違っていく男女の仲というものもあるのだろう。最後のヒロインアグニスは美しく賢い理想的女性なのだが、主人公が浮浪児同然の境遇にあるとき姉のように世話をした女性でもある。そのためもあり、主人公は長い間彼女を女性としては見なかったのであるが、妻ドーラを亡くした悲しみから立ち直った後(これも外国旅行で大自然の美に癒されるという今では月並みな展開)、女性としての彼女を見直す。背景には主人公の社会的成功も含めた成長があったからだろう。







最終更新日  2022年06月30日 06時56分39秒
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2022年06月01日
カテゴリ:読んだ本
最初にこの著者を知ったのは受験勉強の効用についての一連の教育評論だったかと思う。当時、受験競争の弊害はさんざん言われていたので受験を肯定的にとらえたいわば「逆ばり」の論客だったのだが、文章は読み易く、言っていることももっともと思わせるものがあった。さらに勉強法についての著作、「受験のシンデレラ」という受験勉強を肯定的にとらえた映画の監督などもやっていて、そうした分野の専門家かと思っていて、精神科医というのは知っていたのだが、高齢者専門だとは知らなかった。
名の売れた論客が、「高齢者医療の専門家」を前面に出して、高齢期の生き方を書く…となれば、ベストセラーになるのは最初から約束されたようなものだろう。たまたま貸してくれる人がいて読んだのだが、文章は読み易く、おまけに高齢者を意識して字も大きい。そして読んだ後は「元気をもらった気」にもなれる。要するに、最近、売れている著名人が高齢期の生き方を指南する本と同じようなパターンである。書いている方は高齢でも仕事と金がありあまっている方だし、読むほうも金がないわけではない高齢者やその予備軍なのだから、ちょうどよいのだろう。
ただ、この本は、高齢になったら好きなことをやろう、脳を使おう、老化を肯定的に考えようというだけではなく、数値は気にするな、薬は飲み過ぎるなと書いているのが目あたらしい。そして子供のために金を遺すなとも言っている。
そうした目で見ると、今のネットというのはこれからの高齢者のためにあるようなツールなのかもしれない。リアルな付き合いの代わりになるかどうかは知らないが、ネットによって様々な人とつながることができる。そして動画サイトも含めて、気の向いたときに興味をもったことを勉強しようとすれば、様々なものが用意されてある。さらに興味を持てば図書館で本を探せばよい。よくおじゃまする受験算数のサイトなど、コメントをみると主流は勉強熱心な小学生ではなく、脳トレ目的でやってくる年配者ばかりのようである。
はなしはそれたが、「80歳の壁」は読む機会があったら読んでみて損はない。






最終更新日  2022年06月01日 17時35分14秒
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2022年05月23日
カテゴリ:読んだ本
古典中の古典の歌集なので「読み終えた」という表現が適当かどうかはわからないが、山家集を読んだ。あらためて解説を読むと、作者西行法師の生きた時代は保元平治の乱から、源平合戦(治承寿永の乱)に重なる。晩年には源頼朝とも会っているのだが、源平争乱に関する歌は全くない。それよりも出家前は武士として崇徳天皇に仕え、保元の乱に敗れて剃髪した崇徳院の下にもはせ参じているので、崇徳院との交流を歌った歌、そして崇徳院を偲ぶ歌が何首かみられるのが、歌集の中の歴史的事件の反映といえるのかもしれない。和歌の名手としての崇徳院を称え、そして崇徳院の亡き後には讃岐での跡を訪ね、無常を嘆じている。

よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん

それ以外にも、叙景歌や恋歌、仏道を詠ったものなど、収録されている歌は変化に富むのだが、やはり数が多いのは桜を詠んだ歌と月を詠んだ歌である。その意味でやはりこの歌集を一読した後、一番この歌集を代表するにふさわしい歌はあの「ねがわくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃」になるのではないか。満開の桜はすぐにでも散り始めるし、望月は欠けていく。一瞬の中に凄絶な美があるのだが、その背後には滅びの宿命がある。
西行法師の見ていた世の中もまた様々な人物が栄華を極めたかと思うと没落していった時代でもあった。

こうした源平動乱を背景にした歌集には「建礼門院右京太夫集」もある。こちらは作者の恋人が平資盛だったこともあって、女房の目から源平動乱を見ている。建礼門院右京太夫は、星についての以下のような和歌を遺しており、これと思い合わせると西行法師は月についてはあれほどの数の和歌を遺しているのに星についての歌がないのは不思議な気がする。まあ、近眼だったとかそういうつっこみはなしにしてだが。

月をこそ眺め慣れしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる






最終更新日  2022年05月23日 19時03分05秒
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2022年05月14日
カテゴリ:読んだ本
極端に背が低く醜怪な容貌の竹職人の下に美しい女が嫁いでくる。女は父のなじみの芸妓であり、墓参りが縁となってのことであった。職人は女に幼い頃に死んだ母の面影を見ており、女に対する愛は純粋であったが、それは母に対するような思慕であり、女に触れることはなかった。職人は女に対する憧れをひたすら竹人形作りに昇華する。そこに女の過去のなじみ客が卸先の商家の番頭としてやってきて、一時の過ちで女は妊娠する。女は職人知られずに胎児をなんとか処理しようとするのだが…という物語である。
(以下ネタバレ)



論説や評論ではいいにくいことも、小説という形式をとれば、案外ストンと胸におちることがある。
胎児の処理に困った女は、最初胎児の父親である男を訪ね、つぎにおばを頼るつもりで宇治川を渡っている途中で渡し船の中で早産をする。女の様子から事情を察していたらしい船頭は手早く嬰児を宇治川に捨て、汚物の処理も行う。そして女には「あの赤子はこの世とは縁がなかったんだねえ」という。女は船頭に感謝するとともに、このことは一生夫には言うまいと決めて、夫の下に帰っていく。この時の宇治川の夕焼けの描写が素晴らしく、酷薄ななじみ客に対比して、名も知れぬ船頭は神のように見える。
一般論で言えば船頭の行為は殺人であろう。しかし、ぎりぎりの状況では道徳的に責めることができない嬰児殺もあるのではないか。ときどき嬰児殺人の記事が新聞に載り、無軌道な行為を責める論調は多いが、一方で未熟児医療の進歩で中絶可能期間はどんどん短縮され、犯罪被害などで望まない妊娠をした女性が駆け込み的に公費で中絶する機関(外国にはそうした例があるという)についての議論は遅々としてすすまない。想像力に欠けた建前論ではなにも解決しないのに。そういえば、終戦まもない頃、引揚者の施設に勤務していた看護婦の体験談で、生きて生まれた赤ん坊を処理したという話があるが、この看護婦の行為を非難する人はまずいないだろう。
女は赤ん坊を処理したことは夫には生涯秘密にすることを決めて夫の待つ家に帰っていく。これも原理主義的な考えでは、そんな重要なことを夫に言わないのは不誠実だということになる。しかし、それを言ったとして誰が幸せになるというのだろう。小説は百の論評も及ばないような人生や社会の断面を提示する。女は自分を母のように思慕してくれる夫との愛を全うするために秘密を守るのである。
物語はここで終わっても良いように思う。
その後、女は肺病で死に、夫も後を追うように亡くなるのだが、こうした薄幸な結末にせず、二人のその後は読者の想像に任せた方がよい。






最終更新日  2022年05月15日 07時31分46秒
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2022年05月10日
カテゴリ:読んだ本
この間、登場人物の心理がよくわからない小説を読んだからというわけではないが、昔読んで登場人物の心理がどうもよくわからなかった小説を再読する気になった。「狭き門」である。信仰深い女性が清らかな愛に憧れるあまり主人公の求愛を拒み,最後は病で死んでしまう悲恋物語。かつて読んだときにはこうした観念にひっぱられて読んでいて、そして読んだ結果どうにもわからなかった。
あらためて読み返してみると、女性が死んでしまうということがなくても、おそらく二人が結ばれることはなかったのではないかと思う。初めて主人公ジェロームとヒロインのアリサが互いを意識したのは12歳と14歳のとき。その後、アリサの妹の結婚、ジェロームの兵役、進学、ジェロームの母の死、アリサの父の死と年月は流れていく。25歳でアリサが死に、さらに長い年月がたってもジェロームはアリサを忘れられずにいる。最初は純粋な思慕に始まり、恋が芽生えても、しだいにその恋の対象は現実の人間から幻想の女性に移っていったようにもみえる。思春期の男性が年上の聡明な女性に恋するのはよくあることだが、残酷な事実がある。自分は成長していくのに対し、女性の容色は衰えていく。何度目かにアリサに出会った時、ジェロームがアリサが前ほどに美しく見えず、そしてアリサの読んでいる本をくだらないと思う場面がある。彼の知性はアリサをはるかに凌駕するくらいに成長し、広い世間をしった彼の眼には、娘盛りをすぎたアリサの容姿には以前ほどには惹きつけられない。それでありながらジェロームはなお幻影のアリサを恋しつづける。一方で、アリサにはそれがわかっているので、ジェロームを拒む。
こうした主人公二人と対照的なのはアリサの妹のジュリエットだ。ジュリエットはジェロームに恋するのだが、かなわぬ思いと知ると、愛してもいない求婚者と結婚をし、何人もの子供をもうけて幸福に暮らす。幸福というものは、あまりにもつきつめて考えていくと逃げてしまうものなのかもしれない。それでも、ジュリエットはやはりジェロームを忘れられないことが小説の最後で示唆されているのだが。
源氏物語を読んだとき、妹の中の君と薫が結ばれることを願って薫を拒む大君はアリサによく似た女性だと思った。しかしあらためて「狭き門」を読み返してみると、源氏を拒んだ年上の聡明な槿の君にもアリサの面影があるように見える。






最終更新日  2022年05月11日 12時42分10秒
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2022年05月03日
カテゴリ:読んだ本
「本格小説」を読み終えた。本というのは読んだ後、書くことがなくて困るものと、書きたくてたまらなくなるものとがある。この本は後者であるが、最後の方のネタばれを書くわけにもゆかず、まあ、それにはふれないで思うことを書いてみる。最後のどんでん返しは読む人によって見方は違うのだろうが、自分としては小説の大筋にはあまり関係ないように思う。
まずこれが、面白い小説かと非常に面白い。そして上手い小説かと言えば、筋の進行で細かい部分まで描写され煩雑に思うこともあったが、場面や情景などがよく描かれており非常に上手いと思う。ただ、もう一度読み返すことはたぶんないと思うし、人に薦めるかというとちょっと疑問符がつく。なぜかといえば、これを恋愛を描いた小説なのだとみると、登場人物の心理に納得できない部分が多すぎるからだ。だからこのあたりについて別の読者の感想を聞きたいとはおもうが、自分から人に薦めるつもりはない。もちろん、恋愛小説と言っても、いまさら絶世の美女の悲恋などを描いても陳腐きわまりないだろうから、一見不可解な心理をそれなりに解釈し考えるというのも、かえって新しいのかもしれないけど。
恋愛として、描かれているのは長い時間をかけた一人の女と二人の男の三角関係である。ただこの小説全体では、その三角関係に触れられている部分が非常に少なく、作者の分身の「私」のところに物語の語り手である祐介がやってくるまでが非常に長い。さらに物語はその祐介が富美子という女性から聞いた話という構造になっているので、富美子の子供時代から進駐軍での女中勤務、日本人の家での女中勤め、結婚と離婚、事務員としての勤務、再度の「女中」勤め、再婚と夫との死別といった自伝風モノローグが続く。
恋愛の主人公は語り手の富美子が仕えた家の娘よう子と家同士の付き合いのある幼馴染の雅之、そしてよう子の家の借家に住む太郎である。よう子と雅之の家は戦前からの富豪でともに軽井沢に別荘を持ち、夏になるとその別荘でともに遊ぶ。太郎は借家に住む一家の主人の妹の子で母は亡くなり父親は中国少数民族らしいのだが確かな出自はわからない。太郎は子供の頃から様々な雑用をこなしながら駄賃をもらう生活をするのだが、姉や親族の従姉妹の中でいつもみそっかすのよう子は太郎と親しくなり、二人が思春期になるとそれはいつの間にか恋に発展する。だが、高校を中退して町工場で働く太郎に対して、よう子が結婚なんかできないというと、太郎は出奔して米国に渡る。米国で太郎が成功していく話は作者である「私」の見聞として物語序盤で詳細に語られており、実際にモデルとなった日本人実業家がいるのだが、これは成功までのプロットを借りただけで小説の人物とは別物だろう。大金持ちとなった太郎は日本に戻り、よう子と会うのだが、よう子は既に雅之と結婚していて娘までもうけていた。そしてその先、よう子は雅之黙認のもとに太郎と会い続けるのだが、はたしてこうした関係がありえるのだろうか。雅之はよう子を失うのを恐れて黙認しているのかもしれないし、よう子は雅之も太郎もともに愛しているので、雅之と夫婦として暮らしながら太郎とも会う生活がよう子にとって、ひいては三人にとっても幸福なのかもしれない。そしてまた肝心のよう子は作中では美しい姉や従姉妹たちの中ではそこだけ「空気がくすんでいるような」見栄えのしない容姿であり、やや歌がうまいというだけで、テニスもできず、家事もできず、身体虚弱で頭も良くないという女性である。ただ、貧しい家でさらに虐められている太郎に優しく接し、伯母のいやみにも怒ることもなく、嫌な顔もしないで父母の介護を行い、大金持ちになった「太郎ちゃん」のお金にひかれることもない純真な女性でもある。それにしても、恋愛としては、どうもよくわからない。太郎はもちろん優しくするよう子に惹かれ、雅之は姉や従姉妹のなかでみそっかす扱いで親にも顧みられないよう子に同情したのかもしれないが、それにしても妻がかつての恋人と会うのを黙認し手助けまでする雅之の心理は謎すぎる。
いっそ、この小説は恋愛小説ではなく、富美子を軸とした戦後を描いた小説として読んだ方がよいのかもしれない。貧しい家庭に生まれた賢い女性が歩んできた戦後。それは昔ながらの階級制度が崩れていくとともに、太郎のように才覚のある精悍な人物が浮上していき、あらたな階層が生まれていった時代でもあった。想像だけど、この作者はたぶん「太郎」のような人物を描きたかったのではないか…と推測する。






最終更新日  2022年05月03日 09時35分28秒
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2022年04月20日
カテゴリ:読んだ本
水村美苗の「本格小説」という小説を読んでいる。
まだ、半分くらいなのだが、作者の投影とも思われる「私」がこの小説を書くにいたる経緯(この部分も小説の一部なのだが)が、序盤のかなり長い部分を占めており、それにより、この小説に「本格小説」というタイトルをつけた理由を想像してみる。米国で日本文学の教鞭をとる「私」は日本文学には私小説的なるものが大いにあるとみており、これに対して海外文学に見られるような作者を神の視点に置いた小説が少ないとしている。そうした私小説的なるものから脱却した主節として「本格小説」と銘打ったのではないか…たぶんあたっていると思う。作者の分身である「私」が退場し、それこそ私小説部分が終わった後、「本格小説」の世界が始まる。
軽井沢の友人の別荘に行った若者が。自転車で道に迷い古い別荘の生け垣に衝突したことで、別荘の所有者である風変わりな男とそこに仕える女中と称する女に出会う。若者は女中や女中を通じて知り合った別荘族の老女たちから男にまつわる物語を聞く。男は、もとは別荘を所有していた上流階級に仕える車夫の孤児であり、米国に渡って財をなして日本に戻って来たのだという。「私」は米国に居住していた頃、男が住み込みの運転手からベンチャー企業の社長となり巨富になるまでを知っていたというわけである。
文章は読み易いだけでなく、はっとするような情景描写の名文もあり、しかも「私」は世代的にもそんなに若くはなさそうだ。作者紹介をみると、なんでこうした作者を今まで知らなかったのか不思議に思う。「私」が最初に言っているように、物語のプロットはある古典的な名作に酷似している。非常に気に入った名作がある場合、小説家はそうしたものを自分の世界に移し替え、自分の筆で書きたいと思うのだろう。登場人物のドラマが始まるのは。これからなので、作者がいかにあの名作を自分流に作り直すかも興味深い。






最終更新日  2022年04月20日 18時15分02秒
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2022年03月25日
カテゴリ:読んだ本
この小説はジョージ・エリオットの作だが、このジョージは筆名で実際は女性作家である。作品よりも前に彼女の人生の方が気になるのだが、もともと学問的素養のある彼女は妻ある哲学者と知り合い彼の離婚後に結婚したという。筆名ジョージはその哲学者ジョージ・ルーイスの名である。下種な言い方かもしれないが、こうした略奪婚は才能ある女性にはけっこう多いのではないか。才能や能力ある女性はなかなか自分が尊敬できる、あるいは自分に見合う男性を探すのが難しく、そしてやっとであったそうした男性は既に妻がいるという場合が多い。有名なのはフランケンシュタインの作者シェリー夫人だが、日本にも高名な女性作家や画家でそうした例がある。エリオットに話を戻すと、彼女は先妻を離婚に追いやったことに罪悪感をもっており、それが執筆活動の動機になったという説もあるという。
そんな予備知識(余計な先入観?)を持ってこの小説を読んだせいか、題名にもなっているサイラスよりも、底抜けに人が良くおせっかいなドリーおばさんの方が作者の分身(作者が自己投影している人物)ではないかという気がする。サイラスは無学で単純な織工で、おまけに強度の近眼で癲癇持ちというハンディがある。そんな彼が友人の裏切りと盗みの冤罪という不幸な事件で故郷を追われ、たどりついた小さな村で仕事以外では誰とも親しい関係をもたず、ひたすら金をためるのだけを生きがいにして暮らすのだが、ある時、その金を盗まれてしまう。そしてその事件と入れ違いのようにやってきた養女を自分の娘として養育していくという物語だ。
孤独で人間嫌いな老人の心を無垢な幼児が変えていくという話はアルプスの少女や小公子にもあるのだが、これも大人向けのそうしたメルヘンなのかもしれない。だから人間性の深淵を描くとかと言った深みのある小説とは少し違うが大人向けの後味の良い小説として、こうしたものがあってもよい)






最終更新日  2022年03月25日 15時23分11秒
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