のやろう茶碗蒸し。
「ね、大きいでしょう?」彼女は本当に嬉しそうな顔をしつつ、箸を持った手を大きく動かしていた。それはちょうど大きな円を目の前で描く、という動きでそれはさすがに大袈裟ではないかなと思ったけれど、確かにその茶碗蒸しはよく見掛けるそれに比べて大きかった。この日は生命保険の内容を更新する手続きの最後に、私の健康診断表を返却するという目的で担当の女性と会っていた。職場に来て届けてもらう、というのでもよかったのだが、その担当してくれている女性とはもう長い付き合いでもあったということもあり、こういうときは携帯電話で連絡をとりあってから会って食事がてらに話をする、という事がここのところ多くなっていた。私より4つか5つ上の彼女にはまだ小さい男の子がいて、よくその子と旦那の話を聞く。辛いものが苦手で甘いものがどちらも好きな、仲のいい夫婦のようであった。旦那は釣りが好きで、私も以前はよく海釣りをやっていたから、その辺の話は楽しい。先日その彼女が仕事から帰るとき、テレビ東京でやっている釣り番組に登場する女性を見掛けた、という話になった。「でね、その人を見掛けたとき、ああこの人はあの番組に出てる人だ!とすぐわかったんですよ」「テレビ東京の、あの番組、あれ、何ていったっけ?」「何でしたっけ、まあいいや、それで駅のベンチという場所だったんですけど、あたし携帯取り出して、写真撮らせて下さいってお願いしちゃいました」「あんましそういう女の人はいないんだろうなあ」「そうなんですよ、女性であの番組観てるっていう時点で珍しいって」旦那が観ている番組を仕方なく一緒に観るようにしていたら、いつの間にか登場してくる人も覚えてしまっていたようだった。釣りの知識も私と殆ど同じだったので、ああこれはホントに観ているのだな、仲がいいうえにこの女性は自分でどんどん取り入れていくポジティブな人なのだな、と私は自分の分のハンバーグを頬張りつつそんなことを考えていた。彼女はすらりと背が高く、なかなかの美人だ。そして押しが弱くちょっと流されやすいという保険の営業にかなり向いていない性格だと自他共に認めているという人なのだが、担当している客の数はちょっと驚くくらいの数字になっていて、ひょっとするとこれはそういう作戦なのではないか、と一時期疑ったりもした。しかしプライベートでの会話をしていると、どうもこの人は嘘がない性格であることがどんどんわかり、ひとりでこっそり「疑ってすまなかった・・・」と反省した。こういう人だからこそ、ずっと客が離れずにいるんだろうな、と思った。電話でひるめしを一緒に食べよう、ということになったとき、私はどこがいいかなということをちょっと考えたりもしたのだが、私は明けの勤務で終わっていたから彼女の職場に近いところで食べよう、だから店は頼んます、と伝えて銀座に向かった。地下鉄日比谷線の銀座駅に着き、中目黒方向の一番前にある階段を昇ってすぐの改札を抜けると、担当の彼女が相変わらずの笑顔で待っていた。私はこういう場面のとき、どうも気恥ずかしいので思わず顔を背けたりしてしまう。あんましこういうのよくないよなあ、と思いつつもどんどん歩く彼女の後についていった。どうもおすすめのお店があるらしい。地上にあがる階段を昇っていくとき、そういえば前回も銀座でしたね、という話をしていた。前回は夕方近くになって私が銀座にある彼女の職場に行き、そこで保険の内容と登録情報の変更などをした。それは私が結婚したので、死亡時の保険金受取人を母から妻にするなどの変更も含まれていたのだった。そして帰り際、あたしも終わりですから一緒に帰りましょう、ということになって、あの有名な西銀座にある宝くじ売り場で年末ジャンボ宝くじを一緒に買ったりした。「そうそう、あのときの宝くじ、当たるといいね」私がそう言うと彼女はくるりと振り返り、「あはは、ね」と満面の笑みで答えたのだった。そしてまたくるりと向きを変え、ずんずん歩いていくところを金魚のフンのようにくっついていったら思いがけないほどあっという間にその店についた。入り口はなんとなく高そうな構えをしていて、知らなければ入ることを躊躇うだろう。ここは銀座なのだ。しかし彼女はがらがらと引き戸を開け、ずんずんと地下へ続く階段を降りていく。私は初めての店なのでわくわくしつつ、ちょっと心配しながらまた金魚のフンになっていた。「ここはですね、ときどき同僚と来るんですよ。ランチが安くておいしいの」1,000円前後のメニューをみて、本当にいいのだろうかとこっちが心配するような値段であった。私は石焼のハンバーグ定食を頼み、彼女は刺身定食を頼んだ。刺身はちょっと高くて1,400円くらいだったが、それでもちょっとしたときに充分使える値段だと思いつつ彼女がサブメニューの1品を何か頼んでいる。「ここはね、茶碗蒸しが大きくて有名らしいんですよ」とちょっと得意気にふふん、という感じで言う。店内は地下であることを感じさせないつくりになっていて、入り口から見える客席よりも更に奥があり、そっちは既に満席だった。私達が行ったときも2つのテーブルしか空いておらず、気がつくと食事が来る前に満席で待っている人が列をなしているという状況になっていた。「もう列ができていますねえ」「うん、ここは銀座にしては値段が安いし、なんていうか高級店!という感じでもないから」「デパートにあるお店に行くよりも、こっちを選ぶというほうがなんかいいね」「ああいうところは高いだけで、味はちょっと、という感じですもんね」こういうお店をみつけるのは、やっぱり女性のほうが上だなと私は感心しつつ、今までのなかで最も失敗だったひるめしの事を思い出していた。それは上野での出来事だった。この店はどうしてもそのことを思い出してしまう店だった。ハンバーグのほうが先に来たのに私が箸をつけないので「あ、どうぞ、遠慮しないで食べて下さいよ」と彼女は薦めてくれるのだが、「いや実は猫舌で」というと「あら、実はあたしも旦那もなんですよ」とちょっとおどけた感じで嬉しそうに話す。定食に乗ってきたご飯の量が彼女には多いらしく、私が半分もらった。石焼ハンバーグは最後まで熱いところがあって食べるのに苦労したが、味はとてもよかった。そしてサブメニューの茶碗蒸しは、確かに茶碗というよりどんぶりに近いもので大きかった。これだけ大きいと味はどうなってしまうんであろうか・・・という話をしていたら、「じゃあ今日だけはあげます」といってくれたのでわしわしと食った。いやはや、疑ってすまなかったと心のなかで思いつつ、いい出汁といい具とその量といい、なかなかよくできた1品料理のようであった。私は静かに満足しつつ、ではそろそろ出ますかと時計を眺めてからそう言った。しかし店を出るときに気付いたのは、ここはやはり最近よく見掛ける、もともと夜の呑み屋の営業だけだったのを昼はランチで営業するようになった、というお店のようだった。それはやはり銀座という土地でも、以前のように黙っているだけで客が入るというわけではないということを如実に示しているようであった。店を出るとすぐに彼女が左側を指差し、「ほら、ここには吉野家もあるんですよ」と並びにあるその店を指差したので私は思わず笑ってしまった。彼女は「では、また!」と職場の方向に歩き、私は横断歩道を渡って銀座駅から銀座線で上野に向かった。「ふーむ」などとほざきつつ、妻に何か買っていくかとしばらく上野の街を歩いていた。で、この日行った店はこちら。入り口の時点で「のやろう」という気分になりましたな。