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再起動村2




このパチンコ屋が
今までわたしが勤めたことのある
パチンコ屋と大きく違っていた点は
店長が業界外から来たひとである
ということでした。


風俗営業法の管轄下にある職業で
従業員の住み込みの形態をとっている会社の
管理職は、そのほとんどが
風俗以外の職場を知りません。


ですから
普通の会社の中での感覚が
通用しないのです。
風俗特有の独特の世界観を持ち
それが世界に通用する常識であると
信じて疑っていません。
その店で偉いことが
そのまま、世の中でも偉いことと思い
下の人間を物と同じく扱う。
そういう感覚なのです。


それまで、各地のいろんな店で働きましたが
風俗関係では、そういう人間以外
見たことがありませんでした。


しかし
この福知山のパチンコ屋の店長は
オーナーの娘の婿養子で
元は、コンピューターのサーバー会社の
経営者のひとでした。
ですから、普通の会社の感覚で
普通の会話ができました。
つまり、これまでと違って
こちらが何かを言っても
即、その場でクビになる危険が
限りなくゼロに近いわけです。


そのことで
常に自分を押し殺さないといけないストレスから
この店で、かなり解放されました。


しかし
従業員はそうはいきません。
ここでも、わたしより10歳以上も年下の
上役で、ひとを幼稚園児を扱うかのように
「こういうときは、○○しましょうねぇ~」と
こ馬鹿にして扱うひとがいました。


経験はわたしのほうが長く
知識もわたしのほうがあったので
そう言われるたびに
たとえようもない屈辱を感じていました。


しかし、それも限界となり
「もう辞めよう」と思ったとき
ふと、思いました。


「ここで辞めたら、またホームレスか・・・
 けど、なんで何年もこの繰り返しから
 抜けられないんだろう」 と。


そこで、これまでの自分の考えと行動を
振り返ってみました。
そこで、
わたしの人生を変えることになる
ひとつのことに
気づいたのでした。



わたしは
まったく先が見えず
何年も繰り返し、繰り返し起こる
風俗とホームレスの繰り返しの人生に
ほとほと嫌気がさしていました。


そして
なぜそうなるのかが
まったくわかりませんでした。


しかし
この福知山の店を辞めようと思ったとき
ひとつのことに気づきました。


それは
これまでの自分が
「自分の正しさ」に従って
行動を起こしていて
その結果がこの繰り返しを生んでいる。
ということでした。


自分はいつも正しい。
ひとを、ひととして扱わないほうが
間違っている。
そして、その正しさに従って
辞めるという行動を起こしている結果が
ホームレスになることにつながっている
ということに気づいたのです。


そこで
ひとつ疑問がわきました。


「自分の正しさ」 に従って
人生が苦しいのならば
わたしが従っている
わたしの中の 「正しさ」 は
本当に正しいのだろうか?
と。


そこで
もうホームレスになることは嫌で
何の解決策も持たないわたしは
「とりあえず」
自分の正しさに従うことを
やめてみました。
同じことを繰り返す以外で
それ以外にすることが
思いつかなかったからです。


そこから
どんなにイヤミな言われ方をされようが
何も知らない人間として、自分を真っ白にして
「はい」「はい」 と
自分の考えは行動に一切はさまないで
指示されるがままに
愚直に動くことにしました。


そうしだして
1~2週間もしたころでしょうか。
突然、その上役が
今度できる新店舗に転勤に
なることになりました。


それからはその店では
わたしは人間関係で悩むことはなくなり
自分もいいポジションに立てて
また、変なひとも入社してこないように
なりました。


そこで
わたしは
自分の人生を苦しくしていたのは
大事に大事に守りとおしてきた
自分が信じて疑っていなかった
「自分の中の正しさ」こそが
その原因だったんだ
ということに気づけました。


だから
「自分の正しさ」をはさまなければ
これからの人生、きっと好転していくと
思いました。


その気づきは
わたしがホームレスを終わらせる
という点においては
とても大きな気づきでした。


しかし
その気づきが
それからのわたしを
新たに苦しめる原因になろうとは
気づいたよろこびに浮かれている
そのときのわたしには
気づけるはずもありませんでした。


「自分の中の正しさを疑う」


そうすることが
この繰り返しの人生を
終わらせる鍵だったことに
気づけたわたしは
しばらくは
すっきりとした気分で
過ごしていました。


しかし、だんだん
居心地のわるさを
感じるようになってきました。


それは
自分に自信がなくなり
主義主張がもてなくなってしまったからです。


自分の中の正しさが原因で
あんなに苦しい人生を
生きなければならなかったことに
気づいたわたしは
何かをしようとしたとき
何かを言おうとしたとき
それをさせようとしている
それを言わせようとしている
自分の中の正しさに
また従っていいものか
不安を持つように
なってしまったのです。


つまり
自分の考えに
一切、自信が持てなくなってしまったのです。


そして
そうやって
わきでてくる思いを
遠ざけていくうちに
ホームレスの頃でさえできていた
夢を持つ ということすら
できないように
なってしまいました。


それは、ごく最近まで続き
わたしから、生きる気力を
徐々に奪っていき
わたしを完全な
無気力人間へと
したてていきました。


あの気づきから
4年近くがたち
そのころのわたしは
パチンコ屋から新聞配達へと
職を変えていました。
住み込みではなく
賃貸の家を借りて
生活できるまでになっていました。


しかし
5万近い家賃の家で
月収は10~12万。
あいかわらず、金がなく
食うや食わずで
友達も恋人もなく孤独である
というところは
変わっていませんでした。


ここでも
貯金もできず
先が見えないという現状は
何も変わっていませんでした。


そんなある日
あるメルマガで
親との関係性を修復しない限り
人生は変わらないことを
知りました。


そこで
先も見えないし
打開策も思いつかないし
まだそのころは
親を殺したい気まんまんだったんですけど(笑)
「とりあえず」
親にでも会ってみるか

9年ぶりに
大阪に帰ることにしました。


9年ぶりに帰った地元は
駅前に松屋ができていて
コンビニも2軒できていて
少し都会になっていました(笑)


駅から歩いて6~7分のところに
両親が経営している喫茶店があります。
おそるおそる近づくと
まだ店を続けていました。
お昼のランチ時だというのに
客は誰もいません。


店に入ると母親がいました。
母親は一目見て、わたしだとわかったみたいですが
父親は30秒ほどじっとわたしの顔を見て
ようやくわたしとわかったようでした。


簡単に現状を報告しているとき
勝手にもう死んでいるだろうと
決め付けていたじいちゃんが
まだ生きていることを知りました。
じいちゃんの家は店のすぐ近くなので
しばらく話しをしたあと
じいちゃんに会いにいきました。


ピンポンを押すと
じいちゃんがでてきました。
90歳というのに
髪はまだ真っ黒です。
少しやせたなという印象でした。
じいちゃんは
2秒ほどわたしの顔をみつめたあと
にこ~~~~~~~~っと
ことばにできない笑顔で
ほほえんでくれました。


瞬間的に
わたしのすべてを受け止めてもらえてる気がした
あのときの
じいちゃんの笑顔は
今でも
忘れることができません。


じいちゃんは17年前(その当時)に
ばあちゃんを亡くしひとり暮らしです。
家は3LDKの府営住宅で
ひとつが、じいちゃんの部屋
ひとつが仏壇の部屋で
部屋がひとつ余っています。


20歳のころから19年
屋根の下で布団で寝るために
食うために
自分をおし殺し続け
それでも、貯金もできず
やりたいことも思い浮かばず
いっこうに先がみえない人生に
目に見えない疲れが
たまりにたまっていたわたしは
そこに住むことにしました。


じいちゃんもそれを
快諾してくれました。


そして9年ぶりに大阪に
戻ってきました。


2007年9月5日のことでした。


最初の3ヶ月くらいは
緊張感を保てていたものの
約20年に及ぶ
食料やゴミ袋といった
最低限必要な生活消耗品以外
買ったことのない生活は
わたしの中に
大きな飢えを育てていました。


そして手持ちの金が尽きたとき
とうとう
年金生活の90歳のじいちゃんの
貯金に手をつけたのです。
もちろん、だまっておろしたのではなく
貸してくれと、承諾をえてのことでしたが。


社会に出てから約20年、
職場でいい思いをしたことのないわたしには
潜在的な、仕事アレルギーが
あったと思います。


仕事をするという選択肢はなく
今までの蓄積した疲れもあったせいか
緊張感が切れたとたん
ただ、ただ、
楽なほうへ、楽なほうへと
ずるずると流れていきました。


わたしの父親は
今の喫茶店をひらくまえ
二度商売に失敗しています。
そのたび
祖父母にお金を借りてきました。
自分たちの年金の掛け金も
祖父母から金を借りながら
払っていました。


会社の金を使い込んだときも
会社の事務員に子どもを産ませ
その示談金を払うときも
ぜんぶ、周りにうそをついて
その借金ですませていました。


「わたしはホームレスまでして
 こんなに苦しい思いをしているのに
 なんで・・・」

という
父親に対する嫉妬心も
年金生活のじいちゃんに金を借りる
という行為に
ためらいをなくすことの
ひとつの原因になっていたと
思います。


いろんなぜいたくをしました。
今まで行きたくても行けなかった
高額のセミナーに行ったり
生まれて初めて
百貨店というところで
買い物してみたり。


けど
その瞬間は満たされても
本当の意味でわたしの飢えが
満たされることはありませんでした。


そうこうしているうちに
2年の歳月が過ぎ
じいちゃんの貯金も
葬式代が出せるか、出せないか
というところまでになっていました。


これはさすがに
やばいと思い
仕事を探し始めた矢先
じいちゃんが体調を崩し
入院することになりました。


最初は、軽い脱水症状で
点滴をして
1週間ぐらいで退院の予定でした。
しかし
入院した日の晩
理由はさだかではありませんが
誤ってベッドから落ち
首の骨を骨折して
意識不明となり
意識不明のまま
2ヵ月後に
息を引き取りました。
92歳でした。


わたしは一度だけ
じいちゃんから
ばあちゃんが死んだその日
じいちゃんの枕もとに
ばあちゃんが立って

「としちゃんをよろしく」

と言っていたと
聞いたことがあります。
としちゃんとは
わたしの本名です。

これは、だいぶあとになってから
聞いたのですが
わたしの弟も
ばあちゃんが死んだその日
仕事をさぼってパチスロを
していたとき

「そんなことばかりしてたらだめよ」

という声を聞いたそうです。


わたしは
その話しを聞いた17年前
ばあちゃんが
大勢いる家族、親戚の中から
なぜわたしだけを名指しで
じいちゃんにあとのことを頼んだのか
わかりませんでした。


でも、今になって思うと
今、家族の中で一番
自分のことを自分でちゃんと
できていないのがわたしです。
ばあちゃんはそうなることを
見抜いていたのだと思います。


そして
じいちゃんも
ばあちゃんの想いを守るため
90歳になるまで
いつ帰ってくるかわからないわたしを
待ち続けてくれて
いたのだと思います。


そして
わたしの中で
いろんなものが整う時期をみはからって
次の世界へ行ったのだと思います。


傲慢な考えかもしれませんが
じいちゃんが残りの時間を
わたしのために使ってくれた。


そんな気がするのです。


わたしは
決して、いい孫では
ありませんでした。


じいちゃんの貯金を利用して
ただ、ひたすら
自分だけが満たされることを
求めていました。


しかし、じいちゃんは
そんなわたしのことを
ひとことの
文句も、小言も、グチも言わず
すべて、何も言わずに
だまって認め
受け入れてくれていました。


そのことを
じいちゃんが死んだあとに
じいちゃんと生活した日々を
ふりかえってみて
思い出したとき
恥ずかしながら
生まれて初めて

「こんなわたしでも
 愛してくれていたひとが
 この世にいたんだ」

ということに
気づくことができました。


そして
わたしの中の飢えが
物質的欠乏感からくるのではなく
「愛されたい」 という想いから
きていることに
気づくことができました。


それと同時に
「すでに」 愛されているのに
ただそれに気づかなかった自分が
勝手に
「誰も愛してくれるひとはいない」 と
すねていただけだったということにも
気づくことができました。


「こんなわたしでも、このわたしのまま
 すでに愛されていた」


このことに気づけたことは
わたしに
なさけないまま
みっともないまま
これからも生きていっていいんだ
という
勇気をもたらしてくれました。


それは
じいちゃんが
自分の人生をかけて
自分の死をもって
わたしに伝えてくれたことでした。


わたしは
ひとが死ぬということは
そのひとの周りの
残されたものに対する
最後の贈り物のような
気がしました。


わたしは
じいちゃんに世話になりながら
じいちゃんのことなんか考えず
自分のことばかり
考えていました。


けど
それすらも全部承知の上で

「それでいい」 と

まるごとのわたしを認め
受け入れてくれていた
じいちゃんの愛があったことに
わたしは
気づくことができました。


その愛にふれることで
今までさんざんわからなかった

「わたしは生きているあいだに
 この自分を使って
 一体何がしたいのか?」

それも知ることができました。


それは

「自分から愛する自分でありたい」

というものでした。

今までさんざん
愛されることばかりを
求めてきたわたしが
本当に望んでいたことは
自分から愛することでした。


そのことに
気づけたのは


「今、ここの、このままの自分の
 何を変えなくても
 このままの自分で
 自分は愛されていたんだ」


ということを
こころのそこから
実感できる体験を
じいちゃんから
与えてもらったからでした。


そこから

今の現状がどんな自分でも

「あるがままの自分を認め 
 受け止めてもらえているんだ」

と自分で実感できたとき
どんなに深いこころの傷があろうと
人は自分で
自分にひつような答えを
みつけることができるようになるんだ
ということを
知ったのです。


さいわい
わたしには
それを実感させてくれる
じいちゃんという存在がいました。


けど世の中には
周りにそんなひとがいなくて
自分ひとりで
どうしようもない自分を
かかえながら
途方にくれているひとが
少なからずいると思うのです。


そんなひとたちの中で
たったひとりでいいから
わたしがした体験を実感して
本来の自分を思い出す
きっかけ を
提供できる場がつくれないかと
思ったんです。


今度は
じいちゃんにさんざん世話になって
何のご恩返しもできなかったわたしが
誰かのじいちゃんになれないかと
思ったんです。


それが
わたしがじいちゃんから受けた愛を
次のひとに贈ることになると
思ったんです。


そこで
かつてのわたしのように
どうしようもない自分をかかえながら
経済的に苦しくても
本当の自分を思い出すまで
お金の心配をしないで滞在できる
「再起動村」 を
岡山県美作市に
つくることにしました。


農業と蕎麦屋を生活の中心とし
自然の持つ愛と
ひとの持つ愛を組み合わせて
そこに集ったひとたちが
それぞれの愛を思い出し
それぞれの愛を発揮しあう場を
つくろうと決めたんです。


それは
何ができるか
何を持っているか
どんな地位にいるか
ではなく
どれだけ自分から愛したか? で
そのひとの人生の充実度が
決まることを知ったからです。


自分から愛することが
人生最大のよろこびなのです。


その自分に到達するために必要なのが
食べ物であり
お金なのです。


わたしはそのよろこびを
わかちあいながら
これからの人生
生きていきたいと
思っています。



どうか
よろしくおねがいいたします。



西尾敏一(よがぷう)



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